天正10(1582)年5月16日?備中高松城を攻めている羽柴秀吉の報せを受けた信長は、これを機に一気に毛利を討ち果たし、九州まで平定しようと考え、明智光秀をはじめ細川忠興や池田恒興・高山重友らを援軍の先陣として出陣させることを決めます。

17日、急遽、家康の接待役を外された光秀は出陣準備のため領国・坂本(滋賀県大津市)に帰国。他の武将らもそれぞれ領国に戻り出陣の準備を整えます。
光秀が帰国後も家康の饗応は続きます。

19日、安土山の宛寺にて信長はじめ近衛前久や徳川家康・穴山梅雪それに信長の近習らは、幸若大夫の舞を見物。信長はそのよいできに大変満足したようです。続いて翌日に演じる予定だった梅若大夫の能も見物。こちらは出来が悪く信長は立腹し、再び幸若大夫に舞を舞わせ、機嫌を直すと両名に褒美を与えます。

20日、安土城内の江雲寺御殿で宴席が設けられます。ここで信長は自ら家康の膳を運び家康らに敬意を表し、家康や梅雪の他、石川数正や酒井忠次らと共に食事をします。さらにこの時のことと思われますが、『家忠日記』では18日のことととなっていますが、「ふりもミかし」という茶臼で米を引き、その米粉で作った菓子を信長自身が茶臼を引き、家康家臣らに振舞うといったこともしたようです。

21日、信長は、家康や梅雪に京や堺などの見物を薦め、長谷川秀一を案内役とし、家康一行は上洛します。
信長は織田信孝と共に四国遠征が目前に迫っている状況の丹羽長秀と織田信澄に大坂での家康接待を命じ、二人は早速大坂に向かいます。

信長と家康、清洲同盟を締結してちょうど20年。これが二人の永遠の別れになりました。