話が一ヶ月ほど遡りますが、『三職推任』の件は重要な問題なので触れておきたいと思います。完全に忘れていました(汗

この『三職推任』は公家の勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』(天正十年夏記)の天正10(1582)年4月25日と5月4日付けの部分で触れられています。


天正10(1582)年4月21日、信長は武田攻めから安土に凱旋。
信長の帰国を知った朝廷は早速勅使を派遣。

4月23日、武家伝奏(朝廷と武家の取次ぎ役)の勧修寺晴豊・庭田重保・甘露寺経元が勅使として安土に到着。信長は正親町天皇と誠仁親王からの戦勝祝の品を受け取ります。勅使は翌日、京に戻ります。

25日、勧修寺晴豊は、京都奉行の村井貞勝と面会。この二人の会話の中で「信長を太政大臣か関白か将軍に推挙する」という話題が出たようで、これが朝廷側から出た話なのか、信長側から出た話なのか、それとも村井貞勝が独断で提案したのかなど不明で、現在も論争になっている『三職推任問題』になります。

5月3日、朝廷は再び勧修寺晴豊と女房衆の上甼匹蕕魄妥擇貿標。

4日、勅使の晴豊らが安土に到着しますが、信長は直接会わず小姓の森乱丸に用件を尋ねさせます。晴豊は、「朝廷は信長を将軍に推挙する意向」であることを伝えます。

6日、度重なる晴豊の面会要請に応え、信長は直接晴豊らと対面しますが、『三職推任』の件に関して明確な返答をすることなく会談は終了。晴豊らは翌日帰途に着くことになります。

「本能寺の変」直前の上洛時、信長はこの件に関して何かしらの回答をするつもりだったともいわれいますが、変により信長が死去したため信長がどのような回答をするつもりであったか永遠の謎になってしまいました。


ちなみに管理人が企画したにほんブログ村のアンケート【『三職推任問題』 信長はどの官職を望んだか?】では、まだ11件(2008.7.18現在)と回答は少ないもののすべての方が、太政大臣・関白・将軍いずれの官職にもつく気は無かった(または別の官職を望んだ)との意見でした。回答してくださった皆様、ご協力ありがとうございます。

このアンケートは、今後も引き続きご意見をお待ちしていますので、興味のある方是非ご協力お願いします。

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