天正10(1582)年5月29日申の刻(午後4時頃)信長は雨の中、京での馬揃え以来1年3ヶ月ぶりの上洛を果たします。

信長に付き従ったのは小姓衆ら30名ほど。下働きの者や女性などを含めても100〜150人程度だったでしょうか?少人数だったため信長は全く無警戒だったように思われますが、京には先行して上洛していた嫡男・信忠の手勢500や京都所司代の村井貞勝の手勢などもいて、本能寺の変の際、二条御所の戦いで信忠の下には信長の馬廻衆などを含めた1000〜1500程度の織田軍が駆けつけたということなので、2000前後の織田兵が信長周辺にいたと思われます。

安土城の留守を任された津田信益(織田信清の子。織田信長の従甥)・賀藤兵庫頭・野々村又右衛門・遠山新九郎・蒲生賢秀・山岡景佐らは中国方面への出陣準備をして待機するよう命じられています。しかし、安土留守居衆にこの後出陣の命が下ることは無く、主の信長が安土城に戻ることはありませんでした・・・

6月1日、信長は上洛に際し持ち運んだ38種もの名物茶道具を、京で挨拶に訪れた公家衆や博多の商人・島井宗室や神屋(神谷)宗湛らに披露。

このとき茶会が催されたという話もありますが、それを明確に示す史料はないようです(『言経卿記』の6月1日条に茶について触れられているのみ)。
実際にはこの日以降(6月4日に信長は中国方面へ出陣予定だったので2日か3日か?)に予定されていた茶会の目録を示しただけで、茶会ではなく面会の際、茶を添えた程度だったようです。
予定していた茶会には家康を急遽、堺から呼び戻して行う予定だったとも伝わり、家康は京へ向かう途中、凶報に接したようです。


名物茶道具の多くが、本能寺の変の際、炎に包まれ灰燼に帰したようですが、『初花肩衝』や島井宗室によって運び出された掛け軸『千字文』など、難を逃れた名物もあったようです。


※歴史読本2008年8月号『幻に終わった最後の茶会』(田中秀隆著)を主に参照。
※茶会に関する内容を6月1日のことに訂正しました。申し訳ありません。