
『信長公記』では「老の山へ登り山崎廻りで摂津を進軍」し、備中方面へ向かうと告げたとなっています。
この後、丹波亀山(城内または出陣して間もなく)にて光秀は、信長打倒計画を重臣に打ち明けます。謀議に加わったのは、娘婿の明智左馬助秀満・従兄弟の明智次右衛門光忠・光秀の傅役であったといわれる老臣・藤田伝五行政と斎藤内蔵助利三、これに溝尾勝兵衛茂朝も加わっていたとも言われています。
当初、反対する者もいたようですが、光秀は「同意してくれなければ一人で本能寺に切り込み切腹して果てる覚悟である」との強い決意に最終的には謀反に同意。
『当代記』によれば起請文を書き、人質もとったとされています。
酉の刻(午後6時頃)、明智軍は、亀山の東・柴野に差し掛かり、この地で光秀は軍を三隊に分けます。
第一陣は明智秀満率いる4000。
第二陣は明智光忠・藤田伝五・溝尾勝兵衛率いる4000。
第三陣は光秀、自ら率い、斎藤利三らが従う5000。
夜、前日まで降り続いた雨でぬかるんだ丹波街道を明智軍は京に向かい進軍。老ノ坂を越え沓掛に到着。光秀はここで兵馬を休め、その間に天野源右衛門を先発して京に向かわせ偵察及び明智軍を裏切り信長に報せに走る者を討ち取るよう命じます。
6月2日、天野隊は京に入って間もなく、まだ夜が開け切らない時間に農作業をしていた農民20人余りを早速切り殺したようです。
2日未明、天野隊から少し遅れて出発した本隊も桂川西岸に到着。光秀はここで全軍に戦闘準備をさせます。
「我が敵は正に本能寺に在り!」
『日本楽府』にでてくる有名な台詞がこの時の言葉ですがこれは著者・頼山陽の創作。
光秀がこの時、どのような言葉を発したか分かりませんが、斎藤利三配下に加わり本能寺を襲撃した本城惣右衛門は本能寺の場所すら知らず、この頃上洛していた徳川家康(実際には堺にいましたが)を討つものと思っていたようです。
このように明智軍1万3000のほとんどの者が、主君・光秀の真の狙いが信長であることを知らないまま桂川を渡り、京に乱入し本能寺を包囲。
静まり返った京の町に鳴り響く明智軍の進軍の音は本能寺で眠っていた信長らの目を覚まさせます。
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はぁ〜いよいよですね…明智軍が本能寺を包囲しましたか…。
本能寺の変で信長公が自害して果てたとわかっていても複雑です。