天正10(1582)年6月2日、明智光秀の軍勢が本能寺に宿泊する信長を襲撃したとの情報はすぐさま妙覚寺に宿泊する嫡男・信忠に知らされます。信忠はすぐに本能寺に救援に向かおうとしますが、本能寺付近に邸宅を構えていた村井貞勝父子三人が駆け付け信忠に「すでに本能寺は敗れ炎上、敵はこちらにも迫るでしょうから二条御所に立て籠もるのが良いでしょう」と進言。

本能寺と妙覚寺の直線距離600m。道成りに行っても1km弱ということなので、成人男性が走れば5分程度、甲冑を着けていても10分程度?馬で知らせに駆けつければ数分の距離ということを考えると本能寺での戦いは実際は30分もかからなかったのかもしれません。

信忠に対し、安土まで引き態勢を整えた上で明智討伐をするよう進言する者もいたようですが、信忠は「これほどの謀反だから敵は手を打っているだろう。雑兵の手にかかるよりは、ここで切腹するほうがよい」ということで二条御所で明智軍を迎え撃つ決意を固めます。

実際は明智軍は安土への街道は封鎖しておらず、この後二条御所から信長の弟・織田長益(有楽斎)は脱出に成功しており、信忠は最大の判断ミスを犯したように思われますが、光秀は“唐櫃越え”といわれる老ノ坂とは別ルートで明智光忠らの別動隊を京に進軍させ信忠が宿泊する妙覚寺も同時に襲撃する計画でしたが別動隊は進軍に難航して同時に襲撃できなかったという説もあり、これが事実であれば信忠の判断は決して誤ったものでもなかったのかもしれません。

二条御所には、この頃、皇太子の誠仁親王一家が住んでいましたが、信忠軍が駆け込んだことにより明智軍に包囲されます。信忠方と明智軍の間で交渉が行われ誠仁親王一家が無事退去するまで一時休戦となります。一時は死を覚悟した誠仁親王の退去により明智軍の攻撃は再開。

信忠軍1000人前後または多く見積もってもその倍程度。明智軍は本能寺の焼け跡で一部が信長の遺体を捜索していたものの大部分が二条御所に集結。

織田信忠、6年前の天正4(1576)年、信長から織田家の家督をすでに譲られており秋田城介にも任官。武田討伐も実質総大将として信長の手を借りることなく勝利に導き、信長の期待に見事に応え、立派に成長した信長後継者の最後の戦いが始まろうとしていました。