天正10(1582)年6月2日辰の刻(午前8時頃)、洛中で生き残った織田家臣の捜索を命じ、その日のうちに近江・勢田(瀬田:滋賀県大津市)に軍を進めます。

勢田城主の山岡景隆に降伏を勧めますが、景隆は信長の恩を理由に拒否。近江と京を結ぶ重要な橋である勢田橋と居城を焼き払い退去。
この景隆の行動は光秀の作戦を大きく狂わせ、近江進軍が難航したためその制圧に手間取り、備中高松から羽柴秀吉が光秀討伐に引き返してくる時間を与えてしまいます。

6月13日、山崎の合戦において光秀は秀吉軍に大敗。光秀は再起を図ろうと居城坂本に向かいますが、その途上土民の手により殺害されたといわれています。享年55とも67とも伝わります。

14日、本能寺の変後、安土城を守備していた明智秀満は、主君・光秀の敗報を聞き坂本城へ向かいます。

15日、安土城天主が炎上。この原因は、明智秀満軍の放火説や秀満退去後安土に入った信長の次男・信雄による放火説、または城下の火災の火が燃え移った説など諸説あり不明ですが、信長の天下の象徴であった安土城の天主閣は、信長同様炎と共に地上から姿を消します。完成してからわずか3年のことでした。

27日、羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興の間で織田家の家督相続と遺領配分を決める清州会議が開かれます。この中で勝家が推す織田信孝と秀吉が推す信長の嫡孫である三法師(のちの秀信)のどちらにするか意見が分かれますが、光秀討伐の功績があった秀吉はこの会議で主導権を握っており、織田家の家督は秀吉が主張する三法師が相続することになります。この時、三法師わずか3歳(数え年)。

三法師は安土城を相続。しかし安土城は焼失していたため復旧工事が進められ仮館完成までの間、美濃を相続した信長の三男・信孝の居城・岐阜城に預けられます。

10月、信長の葬儀をめぐり秀吉と信孝は対立。

12月、信孝は挙兵しますが秀吉に敗北。


12月21日、三法師は岐阜城から仮館の建つ安土城に移ります。この後、三法師は秀吉に実権を握られ、天下統一事業は秀吉の手により成し遂げられます。

                                     【織田信長史・完】


〜あとがき〜
2005年2月連載開始から3年9か月。途中中断もありましたが長期にわたる連載を応援してくださった読者の皆様、そして同盟国の皆様ありがとうございました。
ブログは今後も今まで同様のんびりペースで更新していくつもりなので引き続きよろしくお願いします。