天正10(1582)年6月2日、誠仁親王一家の退去とともに織田信忠の籠る二条御所を取り囲んでいた明智軍の攻撃が再開されます。
圧倒的な兵力差がありながら、信忠軍は奮戦。

信忠軍の中に小沢六郎三郎という者がいましたが、小沢は本能寺の信長のもとに間に合わず親しい町民らがとめたにもかかわらず明智軍にまぎれて信忠軍に合流。
信忠のもとには小沢同様、信長の救援に間に合わなかった者も多く参陣したようです。

一方の明智軍は、本能寺襲撃時は相手が信長であることを知らなかった者も多かったようですが、二条御所を襲撃する頃には多くの者が自分たちが相手にしているのが織田軍であることを認識したと思われます。信忠配下の者に顔なじみの者もいたかもしれません。そのような要因もあったのかわかりませんが、優勢であるはずの明智軍は苦戦を強いられます。

信忠軍は死傷者を多く出しながらも数度にわたり明智軍を撃退。明智軍の先鋒を務めた明智孫十郎が討ち死。明智光忠は銃弾を受けて負傷するなど明智軍も死傷者が続出します。
思わぬ苦戦に明智軍は二条御所の隣の近衛前久邸の屋根に上り、鉄砲や弓で攻撃を仕掛けてきます。これを機に信忠軍は一気に崩れていき明智軍は二条御所に乱入。

信忠は、前田玄以に岐阜城にいた嫡男・三法師(信長の孫。のちの秀信)を保護し清州城に匿うよう指示。自らは叔父の織田長益(有楽斎)の進言もあり自刃を決意。「腹を切ったら遺体を床下に隠せ」と命じ鎌田新介の介錯により切腹して果てます。享年26歳。
前年、武田家より送り返されたばかりの弟・勝長や叔父で信長の末弟である織田長利・村井貞勝父子、その他菅谷長頼・猪子高就・団忠直・毛利良勝・斎藤新五郎・佐々清蔵・福富秀勝・小沢六郎三郎など多くの者が信忠と運命を共にします。

さらに戦いに参戦できなかった織田家臣・松野平介や土方次郎兵衛などのように信長・信忠の後を追って切腹して果てる者もいました。

そんな中、信忠に切腹を勧めた織田長益は女装して二条御所から逃亡したといわれ、のちに「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」という狂歌で京の町衆の笑い者となります。しかし、その子孫は織田家を大名家として存続させ江戸時代を生き抜くことになります。

織田長益は討ち漏らしたものの最大の目的である信長・信忠父子を討ち果たし明智光秀の謀反はひとまず成功しますが、その天下はわずか11日後、終焉を迎えることになります。