天正10(1582)年6月3日、柴田勝家率いる北陸遠征の織田軍は上杉方の魚津城を攻略します。

この魚津城は越中(富山県魚津市)にある 松倉城の支城で越後(新潟県)との国境にあり、越後の上杉景勝の勢力下にありました。

天正10年3月、甲斐の武田家を滅ぼした織田軍は東国における次の目標を越後上杉家に定め北陸方面を担当していた柴田勝家やその配下に加わっていた前田利家や佐々成政、佐久間盛政らが1万5000(4万との説も)の軍勢で上杉家の属城・魚津城を包囲。城将らは景勝に救援を求めます。

しかし、前年末頃から年明け頃に越後北部の揚北衆と呼ばれる阿賀野川以北の国人領主の中で一大勢力を誇っていた配下の新発田重家が上杉謙信死去後に起こった御館の乱の恩賞への不満から織田家に内通し景勝に反旗を翻しており上杉家は窮地に立たされている状況でした。

4月23日付けの書状で魚津城の中条景泰・山本寺孝長・吉江宗信ら12人の城将は討ち死にする覚悟を上杉家の重臣・直江兼続に告げます。兼続は早速このことを景勝に報告。景勝は3日後に救援に向かうことを約束。

5月1日付けの常陸・佐竹義重宛の景勝書状には織田軍を相手に討ち死にを覚悟する心境を伝えた内容の手紙が残っているようです。

5月19日(15日?)、景勝は5000の兵を率い魚津城の東・天神山に着陣。勝家軍と対峙。
23日、上野(群馬県)から滝川一益が越後に攻め込み、北信濃の森長可も上杉家の居城・春日山城に攻め込む動きを見せます。


27日、景勝は魚津城の救援を断念。魚津の城兵に「恥ではないから織田軍に降伏して越後に帰国するよう」進める書状を送り撤退。

6月3日、城将らは景勝の意思を拒んだのか、織田家が降伏を認めなかったのか不明ですが死を決意。魚津城内の将兵は耳に穴をあけ名前を書いた木札を結び付け自刃。
この時死んだ大将格の者は中条景泰・山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林家長・亀田長乗・藤丸勝俊・竹俣慶綱ら13人。兵の多くも運命を共にしたようです。

6日(7日?)、本能寺の変で信長が死去したことを知った柴田勝家らの織田軍は撤退を開始。
勝家配下の前田利家は領国・能登へ引き返しますが畠山旧臣らが蜂起。佐久間盛政と共に鎮圧にあたります。
佐々成政も越中・富山城に退去。上杉軍の反撃に備えます。
勝家自身も上杉軍の反撃に苦戦しながら退却。魚津城は上杉家に奪還されます。
領国越前にたどり着いたのは16日か17日ごろ
だったと思われ、明智討伐のため江北(滋賀県北部)に入った18日、山崎の合戦で羽柴秀吉が明智光秀を破ったという知らせを受けたようで以後織田家における主導権を秀吉に握られることになります。