天正10(1582)年6月2日、信長の三男・神戸信孝(直前に三好氏の養子になっていたという説も)率いる四国遠征軍は四国統一を目前にしていた土佐の長宗我部元親を攻めるため大坂・住吉周辺に集結。渡海を直前に控えてました。

信孝率いる四国遠征軍は直属の北伊勢衆の他、副将として丹羽長秀や蜂屋頼隆・津田信澄が付き、さらに三好康長や畿内周辺の各地からの応援部隊を派遣してもらうという寄せ集め的な軍勢でした。

津田(織田)信澄は信長が尾張統一の過程で謀殺した実弟・信勝(信行)の子。近江(滋賀県)・大溝城主。この地は安土城の対岸・琵琶湖の西側で京の東に当たる重要拠点。天正9(1581)年2月の馬揃えでは信忠(信長嫡男)・信雄(次男)・信包(信長の弟)・信孝(三男)に続き織田一門の五番目に行軍。信長に重要視され、さらに光秀の娘を娶り織田家の次代を担う20歳前後?の武将でした。

2日夜頃?信孝のもとに父・信長が明智光秀に討たれたとの情報が飛び込みます。四国遠征軍は大混乱に陥り、寄せ集めの兵の多くは逃走してしまいます。一説には1万4000ほどの軍勢が4〜5000ほどになってしまったということです。

信孝は光秀の娘婿である信澄を警戒。
この数日後、越後の上杉家には「信長は光秀と甥の信澄に討たれた」との情報がながれ、さらに景勝自身は会津(福島県)の蘆名氏に対し「織田軍は毛利軍に敗れ途中で信澄が変心して信長は切腹した」と伝えたそうです。これは計略だったという考えもあるようですが・・?

5日、単独で明智討伐が難しい信孝軍は、光秀と信澄が手を組むことを恐れ、まず信澄を攻め殺害。

12日?中国地方から引き返してきた羽柴秀吉軍と合流。軍議の結果、信孝は名目上、明智討伐の総大将とされ山崎の合戦で明智軍に勝利。

しかし、以後秀吉や兄・信雄と対立。翌天正11(1583)年4月29日(5月2日説も)尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺で自刃。享年26歳。

「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」

これは信孝が残した辞世の句と言われ、秀吉を恨む内容になっていますが真偽の程は定かではありません。また切腹した際、自ら臓器をつかみ取り壁に投げつけたといわれていますが、これは現実には不可能と考えられ後の創作ではないかと思われます。