清水宗治自刃址天正10(1582)年6月3日夜、備中高松城(岡山市)を包囲する羽柴秀吉の陣に驚愕の情報が舞い込みます。
「光秀の謀反により信長が死去」この情報は明智光秀が毛利家に送った密使が誤って秀吉の陣に迷い込み露見したといわれていますが、信長に仕えていた京(堺?)の商人である長谷川宗仁の使者が秀吉に知らせたという可能性が高いようです。

この年3月中旬、羽柴軍は備中に侵攻。高松城の周辺の城を攻略する一方、高松城主・清水宗治に降伏を勧めますが交渉は不調に終わります。
5月、調略を断念した秀吉は高松城の周囲に堤防を築き近くを流れる足守川の水を引き込み城を水没させる水攻めにより城を包囲。救援に駆け付けた吉川元春や小早川隆景の軍とにらみ合いを続けていました。

信長の死を知った秀吉は陣中にかん口令を布き「信長死去」の情報を隠し、毛利軍と講和交渉を開始。
秀吉は信長存命の頃から毛利家と幾度となく交渉を重ね毛利家を降伏させようとしていたかまたは信長本隊の到着までの時間稼ぎをしていたようです。
当初、毛利領五ヶ国の割譲と清水宗治の切腹を要求していた秀吉は、なんとしても講和を成立させるべく清水宗治の切腹のみを要求。毛利家はこの条件を受け入れ講和交渉は成立。

4日、清水宗治は城兵の助命を条件に切腹を決意。小舟に乗り城外に出ると織田・毛利両軍が見守る中、自刃。毛利家から派遣されていた軍監・末近信賀も宗治一人を死なせるのは忍びないとして自刃。

5日、講和が成立すると堤防を破壊し、毛利軍の追撃を阻止。全軍を京に向かわせる「中国大返し」を実行。信長本隊を迎えるために準備されていた食料や街道の備えなどは秀吉軍が京に向かう絶好の進路になります。

6日、毛利家は信長が謀反で死んだことを知り、吉川元春は秀吉の策に激怒。羽柴軍追撃を主張しますが、この頃すでに毛利家中は織田家に通じていた者もいたため統率を欠いており、岡山では秀吉配下の宇喜多秀家らが防備を固め、さらに瀬戸内海の村上氏の一族が織田方に付くなどしていました。小早川隆景はこのような状況では追撃は不可能と考え、元春を説得し天下の情勢を見守ります。

13日、途中、神戸(織田)信孝や池田恒興らと合流した秀吉は山崎(摂津と山城の国境)において明智光秀の軍と激突することになります。