天正10(1582)年6月7日か8日頃?、甲斐の河尻秀隆のもとにも信長横死の知らせが届きます。

10日、徳川家康は、家臣の本多信俊を使者とし秀隆のもとに送ります。信俊は甲斐国内で武田の旧臣が不穏な動きをしているので美濃に兵を退くよう進言。家康に不信感を抱いた秀隆は、この進言を拒否し信俊を殺害します。

数日後、甲斐国内で武田の旧臣が蜂起。

18日、秀隆は一揆軍と激突。状況不利と見て甲斐からの撤退を決意しますが、一揆軍に包囲され、岩窪(山梨県甲府市)において武田の旧臣・三井弥一郎に討ち取られてしまいます。享年56歳。

秀隆は、信長が尾張統一を目指している頃、弟・信勝(信行)謀殺の実行役を務め、武田攻めに際し、信長は嫡男・信忠に「秀隆を父とも思い従うよう」に忠告。信長から厚い信任を得ていました。

この武田旧臣の一揆の背後には家康がいたといわれ、一説には秀隆が死ぬ前から家康は武田旧臣に所領安堵を約束していたそうです。伊賀越えの際、甲斐の一部を領する穴山信君(梅雪)が一揆に討たれていますが、これも混乱に紛れ甲斐を狙う家康が先手を打って殺害したという説もあります。

ことの真相は不明ですが、この後、甲斐や信濃南部は徳川領に組み込まれることになります。