八代将軍足利義政とその弟・義視が東西両陣営に分かれたことで応仁・文明の乱は長期化の様相を呈していきますが、乱のきっかけとなったのは畠山義就と政長による管領家相続問題に端を発したものでした。

畠山義就の父・持国は応永5(1398年)年生まれ。30歳を過ぎて子が出来なかったため弟・持富を後継者とすることを決めていました。しかし、永享9(1437)年頃、側室が義就を生んだことで状況は大きく変わります。持国は実子・義就に跡を継がせたいと考え持富を廃します。しかし、重臣の反対にあい持国は持富の子・弥三郎政久を養子とすることで事態をいったん収束させます。しかし、すでに家中は義就派と弥三郎派に分裂し対立。

宝徳4(1452)年、持富は死去。
享徳3(1454)年、一旦は義就派が実権を握りますが、弥三郎派は細川勝元や山名持豊(宗全)らの支援を受けさらに将軍・足利義政もこれを支持し勢力を盛り返し、持国・義就父子は伊賀に落ち延びます。義就は将軍・義政を頼り上洛。弥三郎を支持していた義政は義就支持に態度を変えたため形勢逆転。持国・義就父子が復権。

そんな中、享徳4(康正元年:1455)年3月、持国が死去。義就が管領家の家督を継ぎます。しかし、これに不満を持つ弥三郎派との対立は以後もつづき1459(長禄3)年に弥三郎が病死するとその弟・政長を擁立し対決姿勢を強めます。

寛正元(1460)年、畠山政長を細川勝元・伊勢貞親ら幕府有力者が支持したのを受け義政は今度は政長を畠山氏の惣領とし義就は失脚。

義政の一貫性のない“どこかの国の首相のような”この態度が、事態を悪化させていきます。

義就はこの後河内・嶽山城に籠り政長軍に抵抗。わずかな手勢で長期にわたり奮戦しますが寛正4(1463)年落城。義就はさらに大和に移り抵抗を続けます。

文正元(1466)年、細川勝元と対立した山名宗全は義就を担ぎ上洛し、勝元派の政長を失脚させます。

文正2(1467)年1月18日、政長は自らの館を焼き払い、上御霊社にて挙兵。翌朝、政長の敗走でこの戦い自体は終息しますが、山名宗全・義就(西軍)と細川勝元・政長(東軍)という対立構図が出来上がり数ヶ月後両軍は激突。応仁・文明の大乱が幕開け。

翌文正3年に将軍・義政(東軍)とその弟・義視(西軍)が両陣営に加担したことで京を中心に泥沼の戦いが始まります。さらに義政の妻・日野富子とその子・義尚が加わることで複雑な状況になっていきます。(ホント複雑すぎです・・・泣)