長禄3(1459)年7月23日、態勢を立て直した守護・斯波義敏派の堀江利真は越前に侵攻。坂井郡長崎に着陣。

8月11日、越前国足羽郡和田荘(福井市和田)にて朝倉敏景(英林孝景)を中心にした守護代・甲斐派の軍勢と堀江軍の戦いが始まります。甲斐派の軍には甲斐一族はじめ朝倉敏景や織田氏そして反利真の堀江一族が参戦。一方の堀江軍には、利真の兄弟や越前国人衆さらに反敏景の鳥羽・朝倉将景やその子・景正、朝倉景契、阿波賀・朝倉良景らが参戦。守護・斯波派と守護代・甲斐氏の戦いは朝倉氏や堀江氏の同族争いでもありました。

戦いは甲斐派が圧勝。堀江利真やその一族、そして反敏景の朝倉一族もことごとく討ち死に。守護代・甲斐派が越前を制圧するとともに朝倉敏景も朝倉一門を統一することに成功します。

12日、京で病床にあった守護代・甲斐常治は病没。越前の戦いの結末は知らぬままだったといわれています。

甲斐常治の死により甲斐派の中核だった朝倉敏景の立場は急浮上。
越前の守護は周防に追放された斯波義敏の子・松王丸(のちの義寛)が継いでいましたがわずか3歳。実権は朝倉敏景や甲斐常治の子・敏光が握っていました。

寛正2(1461)年9月、松王丸は朝倉孝景らの策で将軍・義政から廃嫡を命ぜられ、相国寺に預けられます。守護の座は、足利一門で斯波氏とも血縁がある義廉が継ぎます。ちなみに結婚の時期はわかりませんが義廉の妻は応仁文明の乱で西軍の大将となる宗全の娘と朝倉敏景の娘になります。

寛正6(1465)年12月3日 斯波義敏は赦免され息子松王丸とともに将軍・義政に拝謁。

文正元(1466)年7月24日、将軍・義政は政所執事・伊勢貞親の意見を容れ、斯波義廉を退け、再び義敏を斯波氏の惣領に立てたため、斯波家の内紛に発展。

8月25日、斯波義廉は斯波邸(武衛陣)の明渡しを拒否。義廉は防御を固め、義父の山名宗全も軍勢を差し向けます。

9月6日、 文正の政変で山名宗全に追われ伊勢貞親は京から逃亡。斯波義敏も近江に落ち延び再び斯波義廉が復権。

文政2(1467)年1月、山名宗全は斯波義敏を幕府管領職に推挙。これを義政は受け入れたため畠山政長は解任のうえ畠山家の家督も失います。

1月18日、畠山政長が上御霊社にて挙兵。
すでに書いたようにこれが応仁・文明の大乱のきっかけとなります。

4年後の文明3(1471)年、かねてより越前守護の座を狙っていた朝倉敏景は、西軍・山名方に属していましたが、東軍・細川勝元が越前守護の座と引き換えに東軍に着くよう持ちかけられ寝返り、越前を支配下におさめます。

朝倉敏景は越前守護・朝倉氏5代100年にわたる礎を築き、その子・朝倉宗滴は朝倉義景の代まで朝倉氏を支え続けることになります。

文明13(1481)年、敏景が54歳で没すると、当時の公家・甘露寺親長は「・・・格別に結構である。天下の悪事を始めた張本人である」と日記に記すなど多くの貴族や寺社・荘園領主の非難を浴びています。戦国大名の先駆けといわれる敏景の行動はやがて全国にも広がり150年近い戦乱の世を迎え織田信長はじめ多くの戦国武将が全国各地で活躍し歴史に名を残すことになります。