日野富子は、永享12(1440)年の生まれで、康正元(1455)年8月、八代将軍・義政の正室になっています。時に義政20歳、富子16歳。

応仁・文明の乱では、優柔不断な言動が目立つ将軍・義政と対照的に政治手腕を発揮することも度々あったような印象の富子。

その富子の実家・日野家は、代々朝廷に仕えた名門の公家で、足利将軍家に多くの正室を送り出していました。

3代義満の正室は大納言・日野時光の娘・業子。業子の死後、権大納言・日野資康の娘・康子。

4代義持の正室は権大納言・日野資康の娘・栄子。

6代義教の最初の正室には大納言・日野重光の娘・日野宗子。妹の重子は側室となって、7代・義勝と8代・義政を生みます。

このような関係から、日野家は将軍家に次ぐ権力を有し、6代将軍・義教は、その存在が疎ましくなり、日野家を排除する行動をとっています。
正室・宗子の死後、側室から正室となったのは日野家の出ではない三条尹子。しかし、子が出来なかったのか、結局、尹子は宗子の妹・重子が生んだ義勝を養子として迎えます。その結果、義教死去後、義勝が7代将軍に就任すると生母の重子の発言力が増し、再び日野家の影響力が復活。

7代将軍・義勝は10歳にして死去してしまい、急きょ弟の義政が8代将軍となります。義政が将軍に就任したのが宝徳元(1449)年。その6年後、富子が嫁いできて日野家の影響力は益々大きくなっていきます。さらに義政の弟で一時将軍後継候補でもあった義視の正室には富子の妹・妙音院がなっています。

富子は実子・義尚を将軍職に就けるため反義視派と手を組み、その9代将軍就任を成し遂げていますが、仮に義視が将軍になっていたとしても日野家としてはその影響力を保持することができ、その政略は抜け目のないものでした。

10代を継いだ義視の子・義稙(義材)の正室は不明ながらも、その母は日野富子の妹。

11代義澄の正室は日野永俊の娘で日野富子の姪にあたる安養院で、その子供が12代義晴ということで13代義輝と15代義昭にも日野家の血が受け継がれていることになります。

その日野家の権力を背景に富子の兄・勝光も応仁・文明の乱では暗躍し、最終的には左大臣まで昇進し、権威の大きさから「押大臣」とも評されたそうです(ウィキ参照)。なんとなく信長時代の近衛前久を思わせる活躍ぶりのような気がします。

しかし、日野家の絶頂期は応仁・文明の乱終結直後までだったようで、その後足利将軍家の衰退と共にその影響力は低下。その後、歴史の表舞台で活躍することは少なかったようですが、現代までその血は受け継がれているようです。