勢いに乗って連続更新(笑
先ほど同様、戦国情報を調べている過程で信長の朱印状が新たに発見されたというニュースを“発見”。

そのニュースとは、8日付の富山新聞に掲載されていた記事。
 ⇒ 富山新聞 「本多家に信長の朱印状 馬蹄形「天下布武」の印」

記事によれば、今回発見された朱印状は以下の二通。共に青地家に宛てられた書状ですが、加賀の本多家で発見されたそうです。

■ 1569(永禄12)年4月9日付の一通は茂綱宛てで、信長が茂綱の旧領や家臣たちの支配権を承認した内容。 (富山新聞より抜粋)

■ 1570(元亀元)年10月6日付で、茂綱の子13代元珍(もとよし)宛て。織田軍と朝倉義景、浅井長政軍勢が戦った「坂本合戦」で茂綱が戦死したことを「今度父駿河守討死」と告げ、茂綱の忠死をたたえ、嫡子元珍に跡目相続を認めることが記載(富山新聞より抜粋)


永禄12年4月と言えば信長が足利義昭を報じて上洛してから約7カ月後ということで上洛の際、降伏し信長の家臣となっていたと思われる青地茂綱ですが、今回発見の書状をもって“正式に”織田家臣として認められたということになるんでしょうか?

もう一通の、元亀元年10月といえば、その前の月、浅井・朝倉連合軍3万が京を目指し軍勢を進め、それを信長の弟・信治や森可成がわずか1千ほどの兵を率い坂本にて迎え撃ち一度は撃退しながらも敗北。数百の兵とともに両者も討ち死にした戦いですが、その戦いに、青地茂綱も加わり討ち死にを遂げたんですね。ちなみにこの茂綱は蒲生氏郷の叔父に当たる人物。

今回の発見のように世の中には信長関係の文書だけでなく戦国関連の文書がまだまだ眠っていると考えられるので、一つでも多く発見されて戦国研究が進むことを期待しています!