東慶寺・門今日は休みにも関わらずなぜか早く目が覚め、寒いのにまぶしい太陽を見たら突然やる気スイッチ?が全開!(わしは太陽電池で動いとるのか?)家の掃除やら洗濯やら家のことを午前中に一気に片付けてしまい午後は久々にのんびり過ごすことが出来ています。

ということでこの一ヶ月の間に買ったまま放置してあった『一個人』や『歴史スペシャル』や『歴史読本』をパラパラ読んでました。そんな中『歴史読本』の「動乱を駆け抜けた女城主・女武者」という論考の甲斐姫の記事で地元鎌倉の“東慶寺”の文字を発見。自分の中では鎌倉い=源氏・北条氏のお寺という認識しかなかったんですが、ここが豊臣家と縁のあるお寺だったと初めて知りました。不覚!門前まで行ったことがあるのに!

まず、甲斐姫とは、豊臣秀吉の小田原攻めの際、石田三成が水攻めしたことでも有名で、小説「のぼうの城」でも登場した忍城の城主・成田氏長の娘で「東国一の女将軍」と呼ばれていたそうです。この甲斐姫の活躍もあり忍城は石田三成率いる豊臣軍を撃退したものの主君・北条氏政・氏直父子が秀吉に降伏したことにより忍城も開城。甲斐姫は秀吉の側室となったそうです。
その甲斐姫が、大坂夏の陣で燃え盛る大坂城から連れ出したのが、豊臣秀頼の娘・奈阿姫。奈阿姫は徳川家康の孫で秀頼の正室・千姫の養女でもあったため助命されて、甲斐姫とともに鎌倉の東慶寺に入ります。

東慶寺は、鎌倉幕府の9代執権・北条貞時が建立した寺で「縁切寺」としても有名で、奈阿姫は天秀尼と称し、のちに20世住持となります。

その東慶寺でこんな事件が・・・
羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳合戦で七本槍の一人として活躍した秀吉の家臣・加藤嘉明。その嫡男・明成は父の死後、会津藩40万石を継ぎますが、藩主としての器量が不足していたため家臣団は反発・出奔するなどします。家老の堀主水も殺害され、その妻子が東慶寺に逃げ込みます。明成は、堀の妻子の引き渡しを要求しますが、天秀尼は拒否。幕府の裁定の結果、天秀尼の言い分が通り、加藤家も改易処分となってしまいます。


※写真は管理人が撮影した東慶寺の門。ちなみに写っている人物は甲斐姫と奈阿姫ではありません(笑
この写真の位置まで行ったことしかないので、今度は中に入ってみたいと思います!