oda-kamon-04関ヶ原の合戦が、慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)にあったのにちなんで、毎年今の時期に「関ヶ原合戦祭り」が開催されていますね。今年も今日と明日の二日間開催ということで現地はきっと盛り上がっていますね。うらやましいです・・・

さて、このブログは主に織田信長を取り上げていますが、今回は関ヶ原合戦時の織田家の動向について書いてみようと思います。
関ヶ原合戦で東西に分かれた家はたくさんありますが、有名なところでは真田家【西軍:真田昌幸・信繁(幸村)と東軍:長男の信之】や、九鬼家【西軍:嘉隆(父)と東軍:守隆(次男)】の話がありますね。織田家もやはり東西に分かれています。ただ豊臣秀頼とその母・淀殿は信長の妹・お市の血筋ということで織田家とのつながりがあり、一族の多くは西軍に与しています。

【西 軍】
信長の嫡孫・秀信とその弟・ 秀則
秀信は岐阜城主を務め、秀則も岐阜に在城していましたが、関ヶ原前哨戦の東軍の池田輝政や福島正則らによる岐阜城攻めで、秀信は降服し改易処分。秀則も奮戦しましたが戦後、豊臣秀頼のもとへ身を寄せています。

信長の八男・信吉と十一男・長次
二人は大谷吉継軍に属し、平塚為広と共に大谷隊の前衛に陣を構えますが、小早川秀秋らの東軍への寝返りにより、吉継らと共に小早川隊と奮戦しますが長次は討死。信吉はかろうじて逃げ延びますが改易処分となり浪人。

信長の次男・信雄は大坂城にいて、西軍の情報を家康に伝えたといわれていますが戦後改易。長男の秀雄が西軍に属したためといわれています。秀雄が本戦に参加したかは不明ですが、父同様改易処分。西軍に付いたのは父・信雄の指示だったとしています。どちらの言っていることがホントなんでしょ?※信雄は大坂の陣後、大和・上野5万石の大名として復活。

信長の弟・信包は、東軍の丹後・田辺城に籠城する細川幽斎を攻めますが、戦後、西軍に与した一族の多くが改易処分を受ける中、所領は安堵されています。


【東 軍】
信長の弟・織田長益有楽斎といった方がわかりやすいですね。長男・長孝とともに本戦に参加。西軍主力の石田隊や宇喜多隊・小西隊などと戦っています。数百の手勢ながら本多忠勝隊とともに奮戦したようです。大谷隊とも戦ったともいわれ、もし事実なら長益は甥の信吉や長次と戦ったことになりますね。
ちなみに長益は、三成の家臣で蒲生氏郷から「蒲生」の姓を与えられたほどの猛将・蒲生頼郷(横山喜内)と戦い負傷しながらも頼郷を討取ったそうですが真偽は不明です。あるいは長益の家臣が奮戦し、手柄を譲ったというような可能性も・・・?長益はこの功績により加増され3万石の大名になっています。

信長の七男・信高と九男・信貞は東軍に参加したといわれていますが、実は日和見だったようで、出陣したのは戦後。家康に拝謁したのは、家康の帰国途中のことだったそうです。東軍に付くつもりだったが本戦に間に合わなかったことを詫びたようですが、単なる言い訳だったのかもしれません。しかし家康は本領を安堵しています。なお、信貞は西軍に属して関ヶ原前哨戦ともいえる伏見城攻めに加わり戦後に改易処分になったとの説もあるようです。

信長の十男・信好(八男の信吉よりも上との説も)は動向不明ですが近江の所領は安堵されていたようなので、東軍に付いたか、少なくとも敵対行動はとらなかったのかもしれません。