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戦国時代

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戦国雑学

2014年版:今年、節目を迎える戦国期の人物&出来事

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成人の日から一週間が経とうとしていますが、人生の節目である、成人式を迎えられた皆様、おめでとうございます。
さて毎年恒例の企画、今年も調べてみました。


【参考資料】
■別冊歴史読本 戦国150年ニュース 《新人物往来社》
■ウィキペディア

※生没年が推定および異説のある人物も含まれています。


【1514年生:生誕500年を迎える主な人物】
尼子晴久:尼子経久の嫡孫。出雲の守護大名。隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後の守護も任じられる。
小笠原長時:信濃守護大名。
島津貴久:薩摩の守護大名。島津氏の第15代当主。義久・義弘らの父。
馬場信春:信房とも。武田二十四将の一人で武田四天王にも数えられる信玄の重臣。
赤尾清綱:浅井氏家臣。浅井三将の一人
安東舜季:出羽大名。檜山安東氏の第7代当主。安東愛季の父。
宇都宮興綱:下野の宇都宮氏第19代当主。
大崎義直:陸奥大崎氏の第11代当主。
木曾義康:木曾氏の当主。義昌の父。
草野直清:相馬氏の家臣。
慶寿院:、室町幕府第12代将軍足利義晴の正室。関白近衛尚通の娘。
相良治頼:肥後相良氏の家臣。
細川氏綱:摂津守護。室町幕府最後の管領。
細川晴元:細川氏本家京兆家当主。信良(昭元)の父。
渡辺信濃:下野国塩谷郡長井の土豪。長井堀之内城の城主



【1564(永禄7)年生:生誕450年を迎える主な人物】
浅井万福丸:浅井長政の嫡男。
ウィリアム・アダムス:日本名の三浦按針。徳川家康に外交顧問として仕える
安東通季:安東氏の家臣。安東茂季の嫡男。秋田実季の従兄弟。
生駒直勝:別名、吉田又市。信長や秀吉らに仕える。信長のご落胤説もある。妻は織田信雄の娘。
石川光昌:陸奥国安達郡百目木城主。
井上吉弘:加藤重次の弟。六角氏や佐々成政・加藤清正らに仕える。
岡本照富:下野国塩谷郡の武将。岡本正親の子。
小瀬甫庵:秀正。儒学者、医師。『甫庵信長記』や『甫庵太閤記』の著者。池田恒興や豊臣秀次らに仕える。 
甲斐庄正房:徳川氏家臣。旗本甲斐庄氏3代目。
蠣崎守広:蠣崎家の第4代当主・蠣崎季広の十一男。
金森長則:長近の長男。織田信忠に仕え、本能寺の変で討ち死に。
黒田直之:官兵衛の異母弟。黒田二十四騎、黒田八虎の一人。
顕尊:興正寺第17世門主。本願寺第11世門主顕如の次男。
河野通直 (伊予守)
酒井家次:酒井忠次の長男。晩年、越後高田藩10万石の大名に。
鎮目惟明:武田信玄・勝頼に仕える。母は甘利虎泰の娘。武田氏滅亡後徳川氏に仕え佐渡奉行炉務める。上田七本槍の1人。
下山殿:徳川家康の側室。父は秋山虎康。家康の五男・武田信吉の母。
尚寧王:琉球王国第二尚氏王統第7代目の国王。
進藤正次:宇喜多氏家臣。秀家の薩摩逃亡を手助け。晩年、徳川家の旗本に。
関一政:関盛信の次男。織田・豊臣・徳川に仕える。
富田重政:中条流の剣豪。前田氏の家臣。父は越前朝倉氏の家臣で、富田流の門人、山崎景邦。
一柳直盛:直末の弟。尾張黒田城主
山口重政:尾張の武将。常陸牛久藩の初代藩主。
湯目景康:別名、津田豊前景康。伊達氏家臣。
水野勝成:徳川家康の従兄弟。父は水野忠重。備後福山藩の初代藩主。



【1564年没:没後450年を迎える主な人物】
朝倉 景垙:朝倉氏家臣。朝倉景紀の嫡男。
安宅冬康:三好氏家臣。三好元長の三男。
板垣兼富:出羽国の武将。飽海郡菅里城主。大宝寺氏家臣。
宇佐美定満:別名、定行。上杉二十五将、上杉四天王の一人。
浦上清宗:播磨の武将・浦上政宗の二男。妻は小寺職隆の娘。婚礼当日に赤松政秀に攻められ父とともに殺害される。
浦上政宗:浦上村宗の長男。息子・清宗の婚礼当日に赤松氏に攻められ殺害される。
江戸忠通:常陸国の国人領主。妻は佐竹義舜の娘。
小倉実隆:蒲生定秀の三男。蒲生氏郷の叔父。 
大河平隆次:肥後菊池氏の庶流。日向北原氏家臣。
上泉秀胤:剣豪として知られる上泉信綱の子。兵法家としても名を残す。
黒田重隆:黒田官兵衛の祖父。小寺政職に仕え、姫路城代を務め城の改修も手掛ける。
塩谷義孝:下野塩谷郡の武将。正室は宇都宮広綱の養女。
筒井順政:筒井順興の次男。甥・順慶の後見を務める。
遠山綱景:武蔵遠山氏。後北条氏家臣。
戸田重貞:戸田氏宗家の15代当主。三河国渥美郡仁連木城主。今川氏・徳川氏に仕える。
富永直勝:後北条氏の家臣。
内藤清長:父は内藤義清。松平清康、松平広忠に仕える。
長尾政景:上田長尾氏当主。越後国坂戸城主。上杉景勝の実父。
新野親矩:今川氏の家臣。
二階堂照行:須賀川二階堂氏の当主。伊達稙宗の娘婿。
蜂塚右衛門尉:実名、義光。伯耆国日野郡江尾城主。
蜂屋貞次:徳川家康の家臣。徳川十六神将の一人。
原虎胤:千葉氏、武田氏などに仕える。武田の五名臣の一人。武田二十四将の一人に数えられることも。
細川氏綱:摂津守護。室町幕府最後の管領。1514年生まれなので生誕500年にもなる。
本多忠俊:三河国宝飯郡伊奈城主。今川氏・徳川氏に仕える。
正木信茂:里見氏家臣。正木時茂の嫡男。妻は里見義堯の娘・種姫で曲亭馬琴の読本『南総里見八犬伝』に登場する「伏姫」のモデル。
三好長慶:室町幕府の摂津守護代、相伴衆。信長上洛以前、畿内を大半を領国とする。
本山茂辰:土佐七豪族の本山氏当主。本山茂宗の嫡男。
山名藤幸:伯耆国日野山名氏当主。



【1614年没:没後400年を迎える主な人物】
青木重直:美濃国の武将。斎藤道三や丹羽長秀らに仕える。
秋月種長:筑前国大名・秋月種実の長男。日向高鍋藩の初代藩主。
池田長吉:池田恒興の三男。
生駒直勝:1564年生まれのため生誕450年にもあたる。
一栗高春:陸奥国大崎氏の重臣。
今川氏真:今川義元の嫡男。母は武田信虎の娘。
井上頼次:美濃国長井道利の次男。信長や秀吉らに仕える。大坂冬の陣(鴫野の戦い)で討死。
小笠原信之:酒井忠次の三男。小笠原信嶺の養嗣子。本庄藩初代藩主。下総古河藩初代藩主。
小鴨元清:南条宗勝の次男。伯耆国久米郡岩倉城主。
奥平家昌:奥平信昌の長男。母は徳川家康の長女・亀姫。下野宇都宮藩主。
奥平忠政:奥平信昌の三男。母は徳川家康の長女・亀姫。美濃加納藩主。
織田信包:織田信秀の四男。信長の弟。長野工藤氏第17代当主。大坂冬の陣直前に大坂城内で急死。
蒲生郷成:坂源次郎。父は坂勝則。蒲生氏郷の家老。
教如:顕如の長男。 東本願寺第12代法主。
堀川国広:安土桃山時代の刀工。堀川派の祖。
後藤信康:伊達氏の家臣。湯目重弘の次男。
近衛信尹:近衛前久の子。安土桃山時代の公家。左大臣。
渋江政光:小山氏・佐竹佐竹氏に仕える。久保田藩家老。
島津常久:鹿児島藩家老。日置家3代当主。父は島津忠隣、母は島津歳久の長女。
清水義親:最上義光の三男。大坂冬の陣の直前に兄・家親に攻められて、嫡子・義継と共に自害
清水義継:清水義親の長男。徳川氏に仕える叔父・最上家親に攻められ父・義親とともに自害。
角倉了以:京都の豪商。「京の三長者」の一人。
仙石秀久:信濃小諸藩の初代藩主。信長・豊臣・徳川市に仕える。
千少庵:茶人。千利休の女婿。千宗旦の父。実父は能楽師の宮王三郎三入。松永久秀説も。
高橋元種:秋月種実の次男。日向縣藩主。
竹俣利綱:越後国上杉氏の家臣。
土岐頼次:土岐頼芸の次男。母は六角定頼の娘。
中川光重:中川重政の子。妻は前田利家の次女・簫姫。織田・前田氏に仕える。
中島元行:備中国経山城の城主。妻は清水宗治の娘。小早川隆景や結城(松平)秀康らに仕える。
福原資孝:那須氏家臣。大田原資清の次男。
本庄繁長:越後国上杉氏の重臣。
前田利長:前田利家の嫡男。正室は織田信長の娘の永姫。
牧野成里:若江八人衆の一人。滝川一益・織田信雄・長谷川秀一らに仕える。
松平家乗:大給松平家第5代・松平真乗の長男。
松浦鎮信:法印。松浦隆信の長男。肥前国平戸藩初代藩主。
三好房一:父は三好長房。織田・豊臣・徳川氏に仕える。
村越直吉:徳川氏の家臣。
最上義光:最上氏第11代当主。出羽山形藩初代藩主。
柳沢信俊:甲斐武田氏の家臣。後に徳川氏に仕える。
山崎家盛:山崎片家の長男。因幡国若桜藩初代藩主。豊臣・徳川氏に仕える。
結城晴朝:下総国の大名で、結城氏17代当主。実父は小山高朝。
米津正勝:徳川家臣。米津常春の次男。


【1564年の出来事】
1月 第2次国府台の戦い。北条氏康・氏政が里見義弘を破る。
2月28日 三河一向一揆が徳川家康に降伏。
5月9日 三好長慶が弟・安宅冬康を殺害。
8月15日 古河公方・足利義氏、鶴岡八幡宮に空海筆大般若経を奉納。
8月、武田信玄と上杉謙信による第5次川中島の戦い。最後の対陣となる。
10月10日 正親町天皇が立入宗継を勅使として織田信長のもとに派遣。御料所の回復や、京都御所の修繕を依頼。


【1614年の出来事】
4月16日 方広寺の梵鐘鋳造される。
7月26日 家康、方広寺の鐘銘に異議を唱える。
10月1日 家康、大坂出陣を発令。
10月 高山右近・内藤如安らを海外追放。
11月15日 徳川軍、大坂城へ向け出陣(大坂冬の陣勃発)。
12月20日 徳川家と豊臣家和議を結ぶ。


このブログも来年節目の10年。年数回の更新になってしまいましたが、のんびりペースでやっていきたいと思います。遅くなりましたが今年もよろしくお願いします。


こちらの記事もよかったらお読みください。
戦国武将の成人式 〜元服〜

2013年版:今年節目の年を迎える戦国期の人物&出来事 

はじめてチョコを口にした武将は?

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hasekura-tunenaga今日2月14日はバレンタインデーですが、管理人には無カンケーのイベント・・・(涙

さて気を取り直して本題に入りたいと思います。まずチョコレートの歴史ですが、かなり古く紀元前からあったそうで2000年以上の歴史があることになりますね。当初は「飲み物」でカカオ豆をすりつぶしたドロドロした液体だったようです。ちなみにチョコレートという名称ではなく「ショコラトル」と呼ばれていたそうです。

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2013年版:今年節目の年を迎える戦国期の人物&出来事 

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節目の年ではありませんが、本日、このブログも開設8周年を迎えました・・・・とはいうものの放置状態になって約3ヶ月。もはやこのブログほとんど機能していませんが、毎日多くの方のご訪問ありがとうございます。節目の10年目標に超のんびりペースの更新になりますが頑張りたいと思いますのであらためてこれからもよろしくお願いします。

さて、毎年恒例のネタ『今年節目の年を迎える戦国武将&出来事』(タイトルが毎年違うような・・・汗)、遅くなりましたが調べてみました。
※ウィキペディア参照(生没年が推定の人物も含まれます)

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鳴かれて困る信長と秀吉

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hooonnji-kakejiku-3「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」  ・・・織田信長
「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス」 ・・・豊臣秀吉
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」 ・・・徳川家康


三英傑の性格を例える有名なホトトギスの句ですね。
さて、今回は本当に?鳴かれてしまい困ってしまった信長と秀吉のエピソードを紹介します。

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関ヶ原合戦時の織田家

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oda-kamon-04関ヶ原の合戦が、慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)にあったのにちなんで、毎年今の時期に「関ヶ原合戦祭り」が開催されていますね。今年も今日と明日の二日間開催ということで現地はきっと盛り上がっていますね。うらやましいです・・・

さて、このブログは主に織田信長を取り上げていますが、今回は関ヶ原合戦時の織田家の動向について書いてみようと思います。続きを読む

大友宗麟とショーン・レノン

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sorin-001「今日は涼しいですね!」・・・という日が早くて欲しい今日この頃。8月も終りというのに厳しい残暑はいつまで続くんでしょか・・・

さて、記事のタイトルを見て「?」な方も多いと思いますが、今回は「ショーン・レノンは大友宗麟の子孫(かも?)」というお話。
今日、ツイッターのTLを何気なく眺めていたら、どなたか(誰だったかわからなくなりましたスイマセン!)のツイートで「オノ・ヨーコは戦国武将の子孫」というような内容のツイートを発見。管理人、この話を全く知らなかったので早速ネットで調べてみました。

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『戦国と鎌倉』 其之二 〜源頼朝と毛利・島津両氏の祖〜

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残暑と言いつつ毎日真夏並みの猛暑がつづきグッタリの管理人ですが皆様いかがお過ごしでしょうか?
このお盆休みもいつものように旅行するお金もなく、あまりの暑さに遠出する気力も湧かなかったので地元“観光”。ということで久々にこのネタ『戦国と鎌倉』。ようやく2回目・・・

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信長とバナナ

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今日8月7日は、バナナの日だとか。たんなる語呂合わせでバナナの消費拡大を図るため日本バナナ輸入組合が制定したそうです。

さて、日本におけるバナナの歴史を調べてみると意外な発見。バナナを初めて食べたのはなんと織田信長。『日本史』の著者で信長との縁も深いポルトガル人宣教師・ルイス=フロイスが信長に永禄12(1569)年に献上したとのこと。続きを読む

2012年、節目を迎える戦国武将や出来事

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今年早くも2回目の更新。奇跡!!
さてすっかりやり忘れてたネタやっときます。続きを読む

信長と平清盛

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遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。
6カ月も更新休止状態ですいませんでした。今年も更新は少なくなると思いますがよろしくお願いします。

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信長の娘たち 〜織田13姉妹はどうしてた?〜

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今年の目標、月一更新にギリギリ間に合いました〜!ホッ・・・

今年の大河ドラマ『江』ですが、宮崎あおいさんが主演し大好評だった『篤姫』の時と同じ脚本家の田渕久美子さんでありながら、出だしこそ高視聴率でしたが、信長と上野樹里さん演じる江を無理やりからませようとして、無理な年齢設定があだとなりなにかと批判されていていますね。
前回、秀吉が病になり、弟秀長を総大将、副将に甥・秀次と四国・長宗我部攻めということで1585年(天正13年)6月頃。江の生まれが1573年生まれ(他説あり)だとすると数え13歳。上野樹里さんが今年25歳になるそうなので、まだまだ年齢設定に無理があり厳しい状況ですが、主演の上野樹里さんは好きな女優さんの一人なのでバッシングに負けず頑張ってもらいたいものです。

さて今回は、浅井三姉妹ネタではなく“織田十三姉妹”ネタ。
信長には伝わっているだけで、実の娘・10人(9人?)と養女3人(4人?)がいたようです。信長の姪というだけで秀吉に都合よく政治的に利用されてしまった浅井三姉妹ですが、それならば信長の娘であればもっと利用されてもおかしくないような気がしますが・・・?
この頃、信長の娘たち“十三姉妹”はどうしていたのでしょうか?


■実子編
【長女・徳(五徳)】徳川家康の長男・信康に嫁ぎますが、家康の命で信康が自刃して果てると織田家に帰参。兄・信忠その死後は信雄の下に身を寄せ、小牧長久手の合戦後秀吉に人質として差し出されていたようです。その後、政治的に利用されることなく1636年に死去。

【次女・冬姫】蒲生氏郷の正室。1595年に氏郷が死去すると、秀吉は冬姫を側室として迎えようとしますが拒否。秀吉は激怒し、息子・秀行を会津92万石から下野・宇都宮18万石へ減転封したという逸話もあります。1641年に死去。

【三女・秀子(日栄)】筒井定次(順慶の従兄弟で嗣子)の正室。一説に明智光秀の娘で信長の養女になったともいわれているようです。1632年に死去。

※もし秀子が養女だとすると以下の順番が変わってきます。ご了承ください。

【四女・永姫】前田利家の長男・利長の正室。子供に恵まれず兄信雄の娘や、義理の妹・豪姫の娘らを養女にしたそうです。利長死去後は剃髪し、1623年に死去。

【五女・報恩院】丹羽長秀の長男・長重の正室。1653年に死去。信長の娘の中で最も長生きしました。

【六女・三の丸殿】唯一秀吉の側室になった姫。一旦蒲生氏郷の養女となってから秀吉の側室となっているようで、さすがの秀吉もかつての主君・信長の娘に手をつけることには遠慮があったのでしょうか?秀吉死去の翌年、公家の二条昭実と結婚しますが、1603年に死去。

【七女・於振】水野忠重の次男・忠胤(家康の従兄弟)の正室。後に江の最初の夫・佐治一成の継室となっています。

【八女・鶴姫】中川清秀の嫡男・秀政の正室。

【九女・名前不明】公家・万里小路充房の正室。嫡男・孝房が1592年生まれということを考えると信長死後に結婚したのでしょうか?

【十女・月明院】徳大寺実久の正室。実久は1583年生まれなので信長死去後の結婚になりますね。ちなみに長男・公信は1606年に誕生しています。


■養女編
【遠山夫人(菊の方)】信長の姪。苗木遠山氏の遠山直廉と信長の妹の子。1565年頃、信長の養女として武田勝頼に嫁いでます。嫡男・信勝を生みますが、1571年頃死去。

【さごの方】播磨・龍野城主 赤松氏の娘。1575年頃、信長の養女として二条昭実の側室になっています。昭実は後に六女・三の丸殿とも結婚しており、関白職を秀吉に譲ったのも昭実。

【深光院】信長の兄・信広の娘。信長の養女として丹羽長秀の正室となっています。長秀の長男・長重は信長の実の娘を娶っており、信長がいかに丹羽家を大事に思っていたかうかがい知ることが出来ます。

※ウィキペディア参照。

※akaiosorani様からの情報で毛利家家臣・宍戸元続の正室が織田家の女性らしく一説に信長の娘とも伝わっているそうです。情報ありがとうございました!


久々の更新&長文で疲れましたが、最後まで読んでくださった皆様ありがとうございます。ではまた一カ月後に・・・?!

戦国武将の成人式 ~元服~

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本日、成人式を迎えられた皆様、おめでとうございます。
そして、当ブログご訪問の皆様、今年もよろしくお願いします。

さて、成人式といえば戦国時代でいうところの元服になりますが、その元服の儀式が日本で行われるようになったのは奈良時代(約1300年前)の頃。元服の「元」は首(頭)、「服」は着用を意味し、頭に冠をかぶせることから「首服」や「冠礼」とも言われ13歳から15歳または18歳くらいまでに行われていました。現代の中学生から高校生くらいになりますね。例外もあり、早ければ6~8歳、遅ければ20歳過ぎといったこともあったようです。中世以降の武家では15歳ごろに元服し幼名から改名。その際、烏帽子親(烏帽子をかぶせる親代わり)の諱の一字をもらうことも多かったようです。

戦国時代に注目すると、織田信長が13歳で元服、幼名の吉法師から三郎信長に改名。先祖代々の諱の一字“信”を使います。徳川家康は今川義元の人質となっていた14歳頃、松平竹千代から元信に改名。義元の諱の一字“元”をもらっています。ちなみに翌年、元信から祖父の一字をとり元康と名乗ります。
長宗我部元親の嫡男・千雄丸は、11歳の時、信長を烏帽子親とし元服。信長の諱の一字“信”をもらい信親と名乗ります。

また、元服時の悲話として伝わっているのが、武田勝頼の嫡男・武王丸(信勝)。
天正10(1582)年、武王丸は16歳でしたがまだ元服の儀式が行われていませんでした。織田・徳川との戦いが激しさを増す中のことで儀式を行う余裕がなかったのかもしれません。そんな中、3月、織田・徳川連合軍が遂に武田討伐のため本格的に攻め込んできます。勝頼は次々と家臣に裏切られ、つき従った家臣も各地で多くが討ち死に。命運尽きたことを悟った勝頼は嫡男・武王丸がまだ元服の儀式をしていないことを不憫に思い戦乱の中、儀式を行います。武王丸は太郎信勝と名乗り織田軍とたたかいますが間もなく自刃して果てます。
ただ、この話ですが、元服自体はすでに天正7(1579)年に行われており、「環甲の礼」(武田家の嫡子が元服の際に甲斐源氏の「楯無鎧」を身につけ、世継ぎであることを公表する儀式)が、この時行われたという話もあるようです。


【主な戦国武将の元服年齢】
・武田信玄:16歳。天文5(1536)年に元服。勝千代から晴信。

・上杉謙信:14歳。天文12(1543)年に元服。虎千代から長尾景虎。

・浅井長政:15歳。永禄2(1559)年に元服。猿夜叉丸から当時、主筋の六角義賢の一字をとって賢政と名乗る。

・伊達政宗:11歳。天正5(1577)年に元服。梵天丸から政宗に。余談ですが政宗は15代将軍足利義昭から「昭」一字をもらい「昭宗」と名乗る予定もあったようですが、義昭は京から追放され備後に下向中だったため実現しなかったともいわれています。

・蒲生氏郷:14歳。永禄12(1569)年、信長に人質として預けられ、小姓として仕えていた時に元服。鶴千代から忠三郎賦秀。「忠」は弾正忠の一字。

・佐竹義宣:13歳。天正10(1582)年に元服。徳寿丸から義宣。

・島津義弘:11歳。天文15(1546)年に元服。又四郎から忠平。

・真田信繁(幸村)は19歳になっても幼名の弁丸と書かれている史料があり、元服していなかった可能性もあるようです。※20代前半で元服か??

・長宗我部元親も元服の年齢は不明。戦国時代、元服した直後または翌年に初陣というパターンが一般的だったと思われるので、元親の初陣が22歳と遅いことを考えると元服もかなり遅かったのか??


【参考書籍】
『歴史読本』(1997年11月号「初見参!戦国武将の初陣」:新人物往来社)
『戦国武将ものしり事典』(奈良本辰也監修 主婦と生活社)
『日本人のしきたり』(板倉晴武編著 青春出版社)

SPEC瀬文のご先祖様のお役目?! ~戦国のセブミ~

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「命、捨てます!」
のセリフが印象的な?元SITの瀬文さん。あっドラマ『SPEC ~』のお話ですが・・・
前回の放送では「命、捨てます!」という部下に対し「バカ!命、捨てんな!」と言っていましたが残念な結果になってしましましたね。

さて、ここまで読んで「何のことだ?戦国時代と全く関係ないし・・・」とお感じの方も多いと思いますが・・・・実際関係ありません(笑

しかし、戦国時代(それ以前からありましたが)、合戦の際、“セブミ”という役割があり、このお役目もまさに命がけでした。漢字で書くと「瀬踏み」ですが。

合戦時、軍勢の移動の妨げになったのが川。川を渡るには、橋や渡し船、舟橋の設置などいくつか方法はありましたが、労力や金銭そして時間がかかるなど問題点がいろいろありました。そのため手っ取り早く川を渡るには浅瀬を探して徒歩で進むのが一番でした。

その浅瀬を探りながら一番手で川を渡る役が「瀬踏み」でした。万が一、見誤り深みにはまれば川に流され溺れ死ぬ可能性もあり、実際に亡くなった兵もいたと思われます。まさに「命、捨てます!」の覚悟がないと出来ない役であり、見事渡り切れば大手柄。そのため軍記物でもこのお役目が記述されることが多いそうです。

その一例をあげます(『戦国合戦の舞台裏』盛本昌広著より)
信玄が小田原北条氏を攻める際、酒匂川を渡ろうとした際、増水していたため使い番の初鹿野伝右衛門に瀬踏みを命じます。伝右衛門はムカデの旗指物を翻し、馬に乗り川を渡りきり武田軍は無事、渡河できました。
ちなみにこの話が記されている軍記とは『関八州古戦碌』だそうです。


ブログ休止中、買いためた戦国関連書籍を読みまくっていましたが、その中で知った今回のような話題。まだまだ読んでいない本がたくさんあるのでまたネタが見つかったらブログで書きたいと思います。次回、いつ更新になるかわかりませんがよろしくお願いします!


【参考書籍】
盛本昌広著『戦国合戦の舞台裏』(洋泉社 歴史新書y)


【関連リンク】
SPEC 〜警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿〜 (TBS公式サイト)

丹波亀山城と藤堂高虎

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今日は6月2日ということで本能寺の変が起きた日ですね。そんな日に鳩山首相が辞任という衝撃的?なニュースもあり誰かに裏切られての辞任か?!なんてくだらないことも考えたりしとります。

さて、これまで何度か本能寺ネタは書いてきましたが、今回は変とは直接関係はありませんが、明智光秀が本能寺襲撃直前に入城した居城・丹波亀山城について書きたいと思います。

丹波亀山城は今年築城400年の節目の年。2010−400=1610年築城・・・あれ?光秀が築城したはずなのに死後に築城されたことになってしまう?と思ってしまいますが実はこれ1610年の天下普請から400年ということになるようです。
ちなみに光秀が築城したのは天正4(1577)年頃ということで433年前のこと。

丹波亀山城は光秀の死後、秀吉配下の堀尾吉晴・信長の四男で秀吉養子となった羽柴於次秀勝その死後、小吉秀勝(秀次の弟)・豊臣秀俊(後の小早川秀秋)、前田玄以・茂勝父子と城主が次々と変わり、関ヶ原合戦の2年後、丹波亀山城は徳川家の居城となります。一時、代官として北条氏勝が在城後、慶長14(1609)年徳川家臣・岡部長盛が城主となり、その翌年、天下普請が行われます。

この天下普請には藤堂高虎や日向の秋月種長らが参加。建てられた天守閣は高虎が一時居城とした今治城(愛媛県)を解体・移築したもの。現在は石垣や堀などが残るのみのようですが、明治10年までその天守閣は存在していたとのこと。光秀時代の勇姿は分かりませんが、明治期まで存在した高虎築城の丹波亀山城を観たいと思う方は古写真などを研究して再建した愛媛の今治城を見に行くというのもいいかもしれませんね。

ちなみに今回参考にした以下のサイトのフォトギャラリーに明治期の丹波亀山城の子写真が掲載されています。興味のある方はご覧になってみてはいかがでしょうか?

【参考サイト】
丹波亀山城築城400年

愛媛県今治市HP『今治城の歴史』

伊達家の猛将・原田宗時・・・『樅ノ木は残った』 の原田甲斐のおじいちゃん

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今日の昼間、放送された『THE 戦国グルメ』、録画するのすっかり忘れて外出してしまったんですが内容はどうだったんでしょうね〜?ぜひ再放送してほしいんですが・・・

さて気を取り直して、本日のネタに移りますが、数日前 Twitter上で流行っていたのがTwitter戦国時代。自分のツイッターIDを入力すると自分のIDが戦国武将に例えると誰になるかを表示してくれるというモノ。まあ、まったく根拠のない武将名への変換で、単なるお遊びですが、やはり戦国ファンとしては気になるところ。やってみました。
ちなみに管理人のTwitter IDは、『 sengoku_walker
結果は、『原田宗時』・・・・密かに信長を狙っていましたが見事に玉砕!

原田氏は伊達家に代々仕えた家柄で、宗時も若い頃から政宗に仕え数々の武功を立てた猛将。信長の野望で、政宗でプレイするときは戦場で大活躍!政治能力が低いのが難点でしたが・・・(笑
同じく政宗に仕えた智勇兼備の名将・後藤信康に決闘を申し入れたという逸話もあるようです。この件は、信康の「忠臣を二人も失ってはお家のためにならない」という言葉を受け和解し、以後二人の関係は良好だったとか。

政宗と共に多くの戦場を駆け回った宗時ですが、朝鮮出兵後、病にかかり対馬で死去。享年29歳という若さでした。
宗時には実子がなかったようですが、その名を惜しみ主君・政宗は桑折宗長の子・宗資に原田家を継がせます。その息子、宗時の孫にあたる原田甲斐宗輔は伊達家の家老になり、仙台藩のお家騒動を描いた、山本周五郎の小説『樅ノ木は残った』でも有名な人物。

『樅ノ木は残った』は、大河ドラマにもなったことがありますが、その『樅ノ木は残った』が、今月20日(土)、田村正和さん主演で、テレビ朝日系スペシャルドラマで放送されるようですね。(なんというグッドタイミング!)

実は管理人、『樅ノ木は残った』有名ですが、小説も大河ドラマも見たことがありませぬが、放送直前『原田宗時』に巡り合ったのも何かの縁。今回の放送で“孫”の活躍を見てみようかな〜と思います。今度はちゃんと録画予約しよ〜っと!


【関連サイト】
Twitter戦国時代

テレビ朝日系 『樅ノ木は残った』公式サイト

管理人ツイッター『sengoku_walker』

『戦国と鎌倉』 其之一 〜東慶寺 :豊臣秀頼の娘・天秀尼が住持を務めた鎌倉の寺〜

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東慶寺・門今日は休みにも関わらずなぜか早く目が覚め、寒いのにまぶしい太陽を見たら突然やる気スイッチ?が全開!(わしは太陽電池で動いとるのか?)家の掃除やら洗濯やら家のことを午前中に一気に片付けてしまい午後は久々にのんびり過ごすことが出来ています。

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信長とハロウィン

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いや〜今日はハロウィンですね!・・・・・と特に思い入れもない管理人ですが、強引にハロウィンネタ(笑

最近、日本でも徐々に浸透し始めた?ハロウィン。クリスマスやバレンタインデー同様、関連する業界がイベントを盛り上げて一儲けしようとする“謀略”ではありますが、まあ、それで多くの人が楽しめればそれはそれでいいのかな〜と思います。ちなみに本場の?アメリカではハロウィンパーティをする家庭は5割程度だとか・・・。日本においてもキリスト教の教会でハロウィンのお祝いをするところは少ないそうです(最近はどうなんでしょ?)

さて本題の「信長とハロウィン」ですが、残念ながら関係ありません!(言い切った〜!?)。タイトルは訪問者を増やすための“謀略”です(笑
と、このままでは怒られてしまうので、いつものように“こじつけ”ます!

ハロウィンと言えば思いつくのが「カボチャのお化けのような提灯(ジャックランタン)」や「仮装」、あとは「キリスト教の行事」と言ったところでしょうか?

ハロウィンは、11月1日の「カトリックの諸聖人の日(万聖節)」の前夜祭で、古代ケルト民族の年越しの祭り(ケルト民族は10月31日が一年の終わり)だそうで、キリスト教だからと言って必ず行われる行事でもないようです。だから、アメリカでもパーティをする家庭は少ないのかもしれませんね?

カボチャをくりぬいた中にキャンドルを灯すのは日本のお盆の送り火や迎え火と同じような感覚のようです。

おっと!また話がそれてしまいましたが、信長と言えば「キリスト教」に寛大であったのはご存じの通りですね。(一つクリア・笑)

そして、「仮装」といえば信長の十八番??。『信長公記』にも記されている津島踊りの際、領民の前で信長は天人(天女?)の扮装をして女踊りを披露した話は有名なところ。(二つ目クリア)ちなみに家臣たちも滝川一益は“餓鬼”、織田信張は“地蔵”に扮するなどほかの家臣たちもいろいろ仮装して領民たちを楽しませたようです。

さて、難題の「カボチャ」と信長のつながりですが見つかりません・・・
しかし、じつはこのカボチャ、日本にはじめてお目見えしたのが戦国時代!(ふ〜なんとかクリア?)

天文10(1541)年、ポルトガル船がカンボジアから豊後国(大分県)に持ち込んだのが始まりと考えられているそうです。ちなみに?カンボジア”がなまって?カボチャ”になったとか。
カボチャは、火縄銃(1543年頃)やキリスト教(1549年)よりもはやく日本に来ていたんですね。ちなみに初めて持ち込まれたカボチャを献上されたのはキリシタン大名としても有名な豊後の大名・大友宗麟(信長じゃなかった、残念!)だそうです。


最後に、キリスト教の宣教師と関係の深かった信長がハロウィンパーティを行ったかを考えてみたいですが、文献にハロウィン自体一切記述されていないうえに、上記のように現在のアメリカ家庭の状況や日本でのキリスト教系の教会や一般への普及状態を考えてみてもやった可能性はゼロだったと思われます。


【参考サイト】
ウィキペディア「ハロウィン」

DAISUKI KABOCHA BATAKE

戦国時代の皆既日食

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こちら関東、例年より早い梅雨明けで夏真っ盛り・・・と思いきやここ数日はっきりしない天気。そんな中、いよいよ天文ファン以外も楽しみにしている今月22日の皆既日食が明後日に迫ってきましたね〜。最新の天気予報を見ると天気は全国的に悪い感じ、何とか晴れてもらいたいものです。

さて以前このブログで「戦国時代と月食」というテーマでちょっと下ネタ系の記事を書いてしまいましたが、今回は“ちゃんとした”「戦国時代の皆既日食」について書きたいと思います。

部分日食は数年に一度といった頻度で見ることが出来るようですが、皆既日食となると数十年に一度といった感じでなかなか見ることが出来ないようですね。今回も皆既日食が確認できるのは屋久島やトカラ列島そして奄美大島や種子島の一部のみで他の地域は部分日食のようですね。

ここから本題。今回調べたのは戦国時代(その時代区分はいろいろありますが、最大と考えられる1467〜1615年で調査)の京都と江戸の皆既日食。

利用させていただいたサイトは、過去とこれからの日食年月日がわかる『日食データべース』様。
このサイトの製作者の方に感謝!ということで、調べた結果以下のように。

(京都)
西暦1524年7月31日(※大永4年6月20日)と西暦1553年1月14日(※天文21年12月20日)
  

(江戸)
西暦1460年7月18日(※長禄4年6月21日、今回の調査範囲外ですが・・・)と西暦1524年7月31日(※大永4年6月20日。この日は京都と同じなので全国的に見ることが出来たのでしょうか?)

※データベースの日付はグレゴリオ暦で表記されていると思うので歴の変換サイト『換歴』様のツールを利用させていただき、和歴に変換してみました。日付がもし間違っていたらぜひお知らせください!


この皆既日食のあった日、戦国日本で何があったのか!?公家などの日記には何が書かれているのか?!
頑張って調べましたが残念ながら何も見つからず・・・ということでグダグダの結論になってしまい申し訳ありません。何か情報をお持ちの方ぜひコメントお願いします!

唯一発見できたのは戦国時代とは無関係ながら戦乱の日本での出来事。
1183年11月17日
平家物語や源平盛衰記に記されている水島の合戦のさなかに起こった日食。食分は95%程度とされる。天文博士を擁する朝廷側の平家はこの日、日食が起こることを知っていて、太陽が欠けていくことに恐れ混乱する木曽源氏に対して戦いを有利に進め、平家が勝利した。以下は、源平盛衰記の記述。(ウィキペディアより一部抜粋)


最後に、日食を観測する際は、黒い下敷き等は失明する恐れがあり大変危険だそうです。専用のサングラスを使用するか、鏡などを使用しての間接的な観察などがいいそうです。詳しくは「国立天文台」2009年7月22日 皆既日食の情報をご覧ください。

『秀吉の接待―毛利輝元上洛日記を読み解く』 〜輝元も初上洛は大変でした〜

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先日の『天地人』で無事越後に帰国した上杉景勝・直江兼続主従でしたが、上杉氏が上洛したのが、天正14(1586)年5月の事(大まかな日程はmansaku21さんの 『関ヶ原ブログ』に記されています)ですが、それから約2年後、初めての上洛を果たしたのが西国の雄・毛利輝元。

ちなみに輝元は天文22(1553)年生まれ、景勝は弘治元(1556)年の生まれということで、同世代の二人はのちに豊臣政権下で、大老に抜擢されることになります。

ドラマ中で景勝が秀吉はじめ北政所や福島正則その他多くの大名家を訪問してかなり大変な思いをしていましたが、読みかけのまま放置していた二木謙一先生の著書 『秀吉の接待―毛利輝元上洛日記を読み解く』のことを思い出し再読。ドラマに描かれていたことが大袈裟ではないことがわかりました。

上杉家の世話役をドラマでは千利休の娘がやっていましたが実際は石田三成がその役だったようですが、毛利家の世話役は主に黒田官兵衛孝高がやっていたようです。

輝元は天正16(1588)年7月7日朝、安芸の吉田郡山城を出立。海路を200隻の船に3000の将兵で上洛の軍を進めます。16日午後4時頃兵庫。19日午前10時頃大坂に到着。この時、豊臣秀吉は、大坂城ではなく京の聚楽第にいたため輝元一行は京へ向かいます。22日朝6時頃、京へ向け出発。22日の夜は祖父・元就の代から付き合いのある医師・曲直瀬道三邸に宿泊。輝元は道三をとても慕っていたようで京滞在中何度か道三邸に足を運んでいます。23日朝、輝元は京の宿泊所・妙顕寺に到着。24日正午ごろ、輝元は初めて聚楽第で秀吉と対面します。

輝元は、小早川隆景や吉川広家はじめその他の重臣らと共に9月中旬まで京を中心に近江や大和・大坂にも足を運び観光も兼ねた挨拶回りをします。約2カ月余り、ほぼ毎日早いときには朝4時ごろから挨拶回りのために出発、帰りは夜の8時は当たり前。10時や12時頃になることもしばしば。

ちなみに滞在中に挨拶または招待されて訪問したのは、主な人物だけでも大政所(秀吉の母)、豊臣秀長・秀次・秀勝、徳川家康、金吾秀秋(後の小早川秀秋)、宇喜多秀家、上杉景勝、前田利長、前野長康、浅野長政、石田三成、増田長盛、長岡玄旨(幽斎)・忠興、池田輝政、織田信雄・信包、足利義昭、千利休などなど。さらに訪問したかはよく分からないですが、前田利家や島津義弘、龍造寺政家、大谷吉継、立花統虎(宗茂)、大友義統、藤堂高虎、蜂須賀家政、北条氏規らとも顔を合わせ、本願寺顕如・教如父子の訪問もうけています。さらにほとんどの公家衆にも挨拶回り。日記の著者が「記し難し」と書くぐらい多くの有力者宅を訪問。

挨拶だけでなく酒宴や謡・茶の湯、時には蹴鞠の見物などイベントも盛りだくさん。一日に10件くらい回るのは当たり前。その度に刀や馬・銀子などを贈るなど出費も莫大なものでした。もちろんいただくことも多数有りましたが・・

そして宿所・妙顕寺にいるときは来客も多数。全く気の休まる暇がないハードスケジュール。
これは初上洛を歓迎する秀吉の計らいもあったようです。私だったら「ちょっと休ませて〜」と言いたくなる気もしますが、輝元の心境はどうだったんでしょ?

上洛日記には、訪問先や来訪者の記載だけではなく、贈答品の種類やその日の天気、そして秀吉との対面時の大名や公家衆の座配図や装束についてなど詳細が記されていたようで、それを 『秀吉の接待―毛利輝元上洛日記を読み解く』 では、わかりやすく解説してあります。興味のある方は、一度読んでみてはいかがでしょう?


二木謙一著 『秀吉の接待―毛利輝元上洛日記を読み解く』 (学研新書)

坂本龍馬ファンは必見!?今月の『一個人』

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一個人 7月号 『坂本龍馬を巡る旅』さてこのブログ「戦国時代」と題していますが今回は「幕末」にちょっと浮気を・・・
管理人、戦国時代では「織田信長」の大ファンですが、幕末では「坂本龍馬」が大好きという、よくありがちなパターン?で、まあ、お許しください!

坂本龍馬といえば来年2010年の大河ドラマ『龍馬伝』の主人公。福山雅治さんが演じられることが決まっていて、今年に入ってから関連書籍もいろいろ出ていますね。

そして今回ご紹介するのが月刊誌『一個人』。あまり読まれない方も多いかもしれませんが、個人的には結構好きで、いつも“立ち読み”させていただいとります(←好きなら買え!)。
先月も最近のブームを意識してか、仏像特集で国宝・阿修羅像が表紙を飾っていましたね。

現在、発売中の7月号では、『坂本龍馬を巡る旅』と題して、龍馬の特集。内容的には龍馬ファンならだいたい知っていることが書かれていると思うんですが、雑誌内で使われている龍馬の写真4種類がA4くらいの大きさで掲載されていたり、龍馬が姉の乙女に宛てた手紙数種類、その中でも有名なあの霧島新婚旅行のイラスト入り手紙がカラー写真で紹介されていたりと感動モノ!思わず管理人も買ってしまいました〜。さすが表紙に“保存版特集”と書かれているだけのことはあります。龍馬ファンなら買って損はないと思いますがいかがでしょ?


さて、このブログ冒頭でもふれたように『戦国時代』メインなので、「龍馬」と「戦国時代」をつなぐ、多くの方がご存じの“あの説”に触れたいと思います。

『坂本龍馬は明智光秀の末裔である』

(・・・というか光秀の娘婿・明智秀満といった方がいいでしょうか?)

その根拠とされているのが、
・坂本家の家紋『違い枡に桔梗』ということで、明智家の家紋の“桔梗”が含まれている。
 ⇒確かに入っていますね〜 “桔梗の紋”

・秀満の娘が土佐に落ちのび長岡郡植田郷才谷村に住んでいて、龍馬が変名(正体を隠すために使った名)として使用したのが「才谷屋(才谷梅太郎)」。
 ⇒龍馬の先祖が才谷村にいたのは事実のようです。才谷屋には江戸時代に「先祖は明智光秀である」という言い伝えもあったとか。

・坂本家の初代・太郎五郎の墓に、「弘治・永禄の頃(1555〜1570年)畿内の乱を避け土佐の国殖田郷才谷村に来り住む」とある。
 ⇒ただ、これだと本能寺の変以前になってしまいますが・・・

・山崎の合戦後、光秀の重臣・斎藤利三の妻や息子(山崎で討ち死にしたはずの次男の利康?)、娘の福(後の春日野局)は、京の三条西公国を頼りみに危機が迫り、利三の義兄である土佐の長宗我部元親のもとへ落ち延びたという説があり、その時、明智家の一族(龍馬の先祖?)も一緒だった可能性がある。
 ⇒お福らは、土佐に落ち延びてはいなくて、三条西公国に養育されたという話や延暦寺に住んでいたなど諸説あります。しかし、光秀は織田家と長宗我部家の取次役だったので、その縁を頼り明智家の一族が落ち延びてもおかしくはないですが・・

・坂本の姓は、光秀の所領だった近江の“坂本”からつけられたともいわれています。
 ⇒坂本姓に関しては、龍馬の先祖は三代目まで長岡郡才谷村にいたようで、その後、高知城下で才谷屋として商いを始めます。そして、六代目・直益の時、郷士株を譲り受け、直益の長男兼助が郷士になり、家業は次男が継いだそうで、坂本の姓は、郷士株(※)を譲った人物が、たまたま光秀の所領名と同じ「坂本」だったのではという意見もあったりします。

※郷士株・・困窮苦からか、生活のために郷士の身分を譲渡するようになった。当初は武士身分の者への譲渡(このケースは耕作地の売却が主)であったが、しだいに、豪農・豪商が郷士株を買って、郷士となる者が現れている(ウィキペディアより一部抜粋)

等々、他にもいろいろな“証拠”があるようですが、この説、かなり疑問視もされているようです。もし事実であるとしたら管理人としては複雑な気持ちです。

信長を討った光秀の子孫が龍馬とは・・・


※引用参考文献・サイト
中央公論新社 『坂本龍馬』(池田敬正著)

高知建坂本龍馬記念館--「坂本家と明智家について」


おススメ! ⇒ 一個人 2009年 07月号 『坂本龍馬を巡る旅』

絵師・岩佐又兵衛 〜生き残った荒木村重の子〜

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毎週日曜日の朝、見ているNHK教育テレビの『新日曜美術館』。今回、取り上げられたのが「岩佐又兵衛」。「?」いまいちピンときませんでしたが、荒木村重の子と紹介され「あっ!そういえば」と思いだしました。『織田信長 101の謎』(川口素生著)で松永久秀の子孫の俳人・松永貞徳とともに紹介されていた人物。

又兵衛は、天正6(1578)年に村重の子として摂津・有岡城で生まれています。何月の誕生かは不明ですが、この年10月、父・村重は信長に反旗を翻し、又兵衛波乱の人生が始まります。
翌天正7年、村重が逃亡後の12月、有岡城に残された村重一族の多くが処刑される中、乳飲み子だった又兵衛は乳母の機転で落城寸前に城を脱出し石山本願寺で匿われ母方の姓「岩佐」を名乗り生活。(過去の記事参照 ⇒ 有岡城陥落 〜其の三 人質の処刑〜 )
天正8(1580)年には保護してくれていた本願寺も信長に降伏。しばらくは京で暮らし絵師として活躍していたようです。40歳くらいの時、越前福井藩に召し抱えられたようです。60歳くらいのときには三代将軍徳川家光に請われて江戸に出仕。多くの名作を残し慶安3(1650)年江戸で没しています。ちなみに又兵衛は“浮世絵の元祖”ともいわれているようです。

今回、番組で取り上げられていた作品は『山中常盤物語絵巻』を中心に、『上瑠璃物語絵巻』や『旧金谷屏風』『三十六歌仙図』『洛中洛外図屏風』など。

『山中常盤物語絵巻』では、源の義経の母・常盤御前が盗賊に殺害される場面や義経が母の敵を討つ場面が恐ろしげなタッチで描かれている一方、『洛中洛外図屏風』(信長が謙信に贈った屏風とは別)では京の人々の生活が楽しく描かれているのが印象的でした。

今朝の放送を見逃した方は、今晩20:00から同局で再放送があるので興味がある方はご覧になってみてはいかがでしょうか・・・ん? 20:00といえば大河『天地人』の裏番組になりますね〜お気をつけあれ(笑


岩佐又兵衛―浮世絵をつくった男の謎 (文春新書) 『岩佐又兵衛―浮世絵をつくった男の謎 』辻惟雄著 (文春新書)


余談ですが松永久秀の子孫「松永貞徳」に関しては過去の記事でも少し取り上げています、良かったら読んでみてください。
⇒ 2007年11月4日:「斎藤道三の子孫 俳諧師・斎藤徳元」

『愛』ってなんだ?!

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難問だ・・・誰か教えてください・・・

今回は『愛』について語りたいと思います。
ってもちろん“アノ”愛です。直江兼続の兜の前立てのことです(笑

今年の大河『篤姫』は宮あおいさんの好演で高視聴率をマーク。この後を受け『天地人』の“妻夫木”兼続もかなりのプレッシャーかもしれませんが、周りを固める役者さんたちも豪華な顔ぶれなのでかなり期待しています。気がつけば次の日曜から放送開始なんですよね〜。信長公の出番は少ないと思いますが戦国モノなので楽しみです。

さて本題の『愛』についてです。兼続はなぜ前立てに『愛』の一字を選んだのか?
いくつか説があるようです。
ひとつは、感情の『愛』。恋人や親子間の愛情などの愛。兼続は家族や領民を愛するということを意識して『愛』の一字を用いたかもしれません。

もう一つは愛宕大権現の『愛』。愛宕大権現というと信長ファンとしては真っ先に明智光秀の愛宕神社連歌会『ときは今〜』が頭に浮かんでしまいますが、多くの武将が勝軍地蔵を守り本尊として信仰していたようで、この勝軍地蔵は愛宕大権現の本地仏であったことから『愛』の一字を用いたというもの。

そしてもう一つが愛染明王の『愛』。愛欲や欲望などの煩悩を悟りの境地に導いてくれる仏様だそうです。上杉謙信が『義』を貫いたように兼続も煩悩を振り払い正義の道を突き進みたいと考えたのでしょうか?

どの説が正しいのか?それとも全く別の意味があったのか兼続本人に聞いてみなければ真相はわかりません。
死んだら閻魔大王様にお願いして兼続に会わせてもらい真相を聞いてみたいと思います・・・と思ったけどそれよりも信長の天下構想や光秀の謀反の動機の方が知りたかったりして・・・


では今年の更新は帰省のため今回で終了しますが、今年もご訪問ありがとうございました!
来年ものんびりマイペースで更新していくつもりですがよろしくお願いします!

信長、本能寺脱出?! 〜信長生存説〜

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無事『織田信長史』も連載終了、改めて応援してくださった読者の皆様ありがとうございます!
まだまだ仕事が忙しく更新ペースはゆっくりになりますが、今後もよろしくお願いします。あっ今までもスローペースでしたね・・・(汗

さて歴史上の有名人に生存説はつきもの。日本では源義経が特に有名ですが、明治維新で活躍した西郷隆盛や海外ではドイツのアドルフ・ヒトラーも有名なところ。
情報技術の発達した現代でも某テロ組織の中心人物や某国の総書記の生死がはっきりしないなど、過去・現代にかかわらず多くの謎がありますね。

戦国時代の人物も真田信繁(幸村)が豊臣秀頼と共に大坂城を脱出し薩摩(鹿児島県)に落ち延びた話や明智光秀も天海僧正となり徳川家康の側近になった話など他にも色々な武将の生存説がありますね。

信長も本能寺の変の際、その死を確認した者がなく、遺体も見つからなかったことから生存説が残っています。

有名な説としては、本能寺から脱出し薩摩に落ち延びますが、脱出の際の傷がもとで間もなく没したというもの。

また、別の説としては本能寺から脱出した信長が秀吉と合流しながら、その存在を邪魔に思った秀吉が、その生存を隠すため大坂城に幽閉してしまったという説もあるようです。

いずれの説もその出所が不明ですが、本能寺は1万前後の明智軍に囲まれた状況であり、もし本能寺から脱出できるような状況(よく言われる地下道など脱出口があったなど)であれば、信長のこと明智軍と一戦を交えることなく素早く脱出したと思います。そう考えるとやはり信長は本能寺の炎の中、その生涯を終えたというのが真実と考えるしかないように思います・・・

最後にひとつ。お気付きの方もいると思いますが、信長と豊臣秀頼・真田信繁の両説がともに薩摩に落ち延びたという共通点。これはおそらく関ヶ原合戦後、宇喜多秀家が薩摩に落ち延び島津家に匿われていたという実話をもとに、江戸時代以降の人たちが創作したものかもしれませんね。

天正遣欧少年使節の出航

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天正遣欧少年使節 (京都大学付属図書館蔵)
今回、信長と直接関係はありませんが、紀州雑賀で孫一と土橋兄弟が戦いを繰り広げている頃、遠く九州・肥前(長崎)から4人の少年が旅立とうとしていました。


天正10(1582)年1月28日、信長と親交のあった宣教師ヴァリニャーノとキリシタン大名大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として選ばれた、後に『天正遣欧少年使節』と呼ばれる4人の少年、伊東マンショ(14歳)・千々石ミゲル(14歳)・中浦ジュリアン(15歳)・原マルティノ(14歳)が長崎港を出港します。※年齢他説あり

目的は、「ローマ教皇やスペイン・ポルトガル国王から日本での布教活動の支援を取り付ける」ことや「少年たちに西洋の布教活動や生活を体験させ後の布教活動に役立てる」ことさらに「ローマ教皇をはじめヨーロッパの人々に日本人を理解してもらう」ためだったようです。

ヴァリニャーノはイエズス会総長宛ての書簡で「日本の王(信長)がカトリックに親近感を抱いている今こそ日本とヨーロッパを結びつける好機」と伝えており、信長から贈られた狩野永徳筆の『安土屏風』をローマ教皇への贈り物とするため船に積み込んでいます。

4人の少年は多くの夢や希望、そして不安と大きな責任を負って3年(片道)にも及ぶ長く苦しい航海を続け、この間に語学や科学などのさまざまな教養を身に着けていきます。

天正12(1584)年7月5日、ポルトガルの首都リスボンに到着。大歓迎を受けた少年たちはスペインやイタリアのフィレンツェなどを巡りローマを目指します。

天正13(1585)年1月30日、ローマでローマ教皇グレゴリウス13世との謁見を果たします。

天正14(1586)年2月25日、リスボンを出航し帰国の途につきます。
天正18(1590)年6月20日) 大役を果たした4人は無事、肥前に帰港しますが、日本を離れている8年余りの間に日本におけるキリスト教の状況は激変していました。

天正10(1582)年6月2日、キリシタンに寛大であった織田信長の死去。
天正15(1587)年5月6日 キリシタン大名・大友宗麟が死去。
天正15(1587)年5月18日、キリシタン大名・大村純忠が死去。
天正15(1587)年6月19日)、秀吉による伴天連(バテレン)追放令。
しかし当初は厳しいものではなかったようです。

天正19(1591)年閏1月8日、当初伴天連追放令は厳しいものではなかったようで、4人は聚楽第において豊臣秀吉を前に、西洋音楽を演奏したそうです。

しかし、取り締まりは厳しいものとなり4人は悲しい生涯を送ることになります。

伊東マンショ(正使。日向の大名・伊東義祐の孫)は慶長16(1611)年に当時豊前領主だった細川忠興に追放され、中津さらに長崎へ移り住み慶長17(1612)年11月13日に病死。

千々石ミゲル(正使。肥前国領主千々石直員の子で、大村純忠の甥・有馬晴信の従兄弟)は後に棄教。

中浦ジュリアン(副使。肥前国大村の中浦村領主の子)は寛永10(1633)年9月、小倉で捕らえられ9月10日長崎へ送られます。棄教を拒み、4人の神父や3人の修道士と共に穴吊りの刑で4日間苦しみ 9月20日死去。

原マルティノ(副使。肥前・波佐見町出身で最年少だったという少年)は寛永6(1629)年、追放先のマカオで死去。


※画像=左上・中浦ジュリアン、中央・メスキータ神父、右上・伊藤マンショ、左下・原マルチノ、右下・千々石ミゲル

※主にウィキペディア参照。すべて旧暦で記載しています。

16000貫って現在の価値でいくら?

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永楽通宝
前回の宿題?『岐阜城に蓄えられていた“16000貫”が現在の価値でいくら?』なのか早速調べてみました。

※あまり自信がないので参考程度にお読みください。

ネットでいろいろ調べてみましたが、基準によりいろいろな解釈があるようです。ということで、管理人が独断と偏見で有力と判断した説で計算してみました。といっても値幅が広いですが・・・

江戸時代の価値で1文=10〜30円(なかには5円や50円という意見も)くらいだったようで、1000文=1貫
とすると、岐阜城には、1億6000万〜4億8000万円くらいのお金が蓄えられていた計算(あってるのか?)。最大で考えても5億円弱(または8億円)と意外と少ない?!

信長の本拠・安土城にはいったいいくら蓄えられていたのでしょう??

ちなみに、この蓄えられていた銭の種類ですが、断定は出来ませんが、室町から戦国期、日本全国(主に尾張より東、特に関東)に流通していた信長の旗印でもお馴染みの『永楽通宝』だったかもしれません。

三人の羽柴秀勝

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さて、前回唐突に?その名が登場した羽柴秀勝ですが、どのような人物なのでしょうか?実は、この羽柴秀勝は三人もいたという説があります。二人は実在しますが、一人がその存在が疑われる人物です。

その一人とは、秀吉の長男とされる石松丸秀勝。元亀元(1570)年生まれ天正4(1576)年10月14日に7歳で夭折したと伝わっているそうです。
秀吉が近江・長浜時代に地侍の娘(南殿)に生ませた子と説明されることが多いようですが、秀吉が長浜を与えられるのが、浅井氏滅亡後の1573年とすると生まれ年の計算が合わないような?いずれにしても元服前で秀勝と名乗ったことがあるのか疑わしい感じですが・・・
また、某歴史番組では、秀吉の妻・おねが妬んで毒殺したという根拠もない説まで紹介されていましたね。その真偽は置いておくとして、秀勝の菩提寺とされる滋賀県長浜市の妙法寺には秀勝とされる肖像画(1953年焼失)や天正4年10月の銘文がある供養塔もあり、2003年には供養等と一体と思われる埋葬施設も発見されましたが、残念ながら遺骨は見つかっていません。その実在は、謎のままのようです。


二人目の秀勝は前回登場した、信長の四男・於次丸秀勝。永禄11(1568)年生まれで天正7(1579)年頃、子のなかった秀吉が信長に頼み込んで養子にしたようです。当然、秀吉は織田家中で影響力を強めようと画策したのでしょう。
本能寺の変後、喪主として秀吉に立てられ信長の葬儀を行ない、明智光秀の旧領である丹波・亀山を拝領。多くの合戦で活躍しますが、天正13(1585)年12月10日、19歳で病死してしまいます。
その天正13年7月11日には秀吉は関白になっており、もはや織田家の威光が必要なくなった秀吉の謀殺では?と個人的に考えてしまいます。信長三男・織田信孝や関白秀次を死に追いやったことを考えると疑いたくなってしまいます・・・まさか本能寺の変まで?!考えすぎですね・・


三人目は小吉秀勝。永禄12(1569)年生まれ。実父は三好吉房。母は秀吉の姉・とも(日秀)ということで、関白となる豊臣秀次の弟になります。於次秀勝死去後、秀吉の養子となり、・丹波亀山を引き継ぎます。その後、甲斐や美濃岐阜に移りますが、豊臣秀勝と名乗り、秀吉の後継者と目されていましたが、天正15(1587)年の九州攻めの論功行賞で秀吉を怒らせ家督継承はなくなります。
小吉秀勝は、織田信長の姪で淀殿の妹であるお江与と結婚して娘・完子を儲けますが、文禄元(1592)年9月9日、文禄の役で朝鮮に出兵中、陣中で病没。享年24歳。
ちなみに娘・完子は後に公家の九条幸家に嫁いでいます。もしかして、この系統の豊臣家の血は、健在??


以上のようにいずれの秀勝も短命の不運な生涯をたどりましたが、この他の秀吉の養子たち(実子もですが・・)も不運な生涯でしたね。他の養子たちに関してもまた機会を改めてお伝えしたいと思います。

直江兼続の誕生

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唐突ですが、NHK大河ドラマ『篤姫』が始まったばかりですが、来年放送の『天地人』の主人公・直江兼続を取り上げたいと思います。

直江兼続が生まれたのは、永禄3(1560)年のこと。信長好きの方ならすぐに思いつく桶狭間の合戦があった年です。信長が、その名を近隣に知らしめたその年、樋口兼豊の嫡男として生まれます。幼名は与六。余談ですが、石田三成も同年誕生しています。
父・樋口兼豊は上杉謙信の義兄であり上杉景勝の実父である長尾政景に仕えていました。

樋口与六は、幼くして長尾顕景(後の上杉景勝)に近侍し、顕景が謙信の養子になると一緒に春日山城に入ったともいわれています。

与六の活躍しはじめるのは、謙信死後の上杉家の家督争い『御館の乱』の頃で、上杉景勝の家督相続に貢献しますが、この間、越後の西方、能登や加賀では織田家が着々と領国を拡大していました。

そして、織田家が伊賀を平定する天正9(1581)年9月よりも少し前の頃かはっきりした月日は不明ですが、上杉家の家臣間で事件が起きます。

上杉家の重臣・直江信綱と山崎秀仙が会見中に毛利秀広が乱入し、秀仙に切りかかります。信綱はこれを仲裁しようとしますが、秀仙と共に斬殺されてしまいます。

信綱には、跡取りがなく直江家は断絶。しかし、直江家は代々家老を務めた名家。この断絶を惜しんだ上杉景勝は、与六と信綱の妻だったお船の方を結婚させ与六に直江家を相続させます。ここに直江兼続が誕生することになります。兼続は直江家を継ぐと越後与板城主となり、景勝の重臣としてさらに活躍していくことになります。


ここまでの経歴を見る限り信長との接点はほとんどなし・・
来年の大河ドラマも信長の登場はごくわずかかもしれませんね〜

戦国時代の年始挨拶

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記事が前後してしまいましたが、改めまして(もう5日ですが・・)

『明けましておめでとうございます
 今年もよろしくお願いいたします』


先月末に実家に行き、それから正月は親戚廻りと酒を飲みまくりというか飲まされまくりで、おとといようやく帰宅。気がつけば長い休みも明日一日になってしまいました〜。なんかぜんぜん休んだ気がしません・・・

さて、年頭の挨拶ですが、戦国時代はどうだったのでしょう?
松平家忠という徳川家康の家臣が書き記した『家忠日記』というものがあります。この日記は、家忠の日常生活が記されており、現物には落書きも書かれているそうで『信長公記』とは違った魅力ある日記です。

その日記を解説した『松平家忠日記』(盛本昌広著)によれば、戦国時代の武士たちも現代と同様、親戚や仲間が集まり、酒を飲んだり初詣をしていたとか。
そして、登城し主君への挨拶も行われていたようです。

家忠も基本的に毎年正月二日には出仕し、家康に挨拶していたようです。そして、「うたい初」という、能役者を招いての謡曲のうたいはじめの儀式が行われ、その後は重臣や他の家臣の所へもあいさつに回り帰国といった感じだったようです。ただ、出陣中のときなどは免除されていました。

では、織田家の場合はどうだったのでしょう?
『信長公記』の天正6(1578)年正月の記事では、信長の領国や近隣諸国の大名が安土の信長に挨拶のため出仕。
信長は信忠や重臣を集め茶の湯を催しています。茶の湯に参加した家臣たちは終了後出仕し、三献の作法で盃を頂戴しています。

その後の年は多くの家臣が出陣中で年頭の挨拶は免除されています。
しかし、天正10(1582)年は不思議なことに一門はじめ近隣の多くの大名などが殺到。
安土の山裾に積み上げていた石垣を踏み崩し死傷者が多数出る大騒ぎにもなっています。
この年の挨拶には、出仕した者達は年賀の祝い金として100文持参するよう命じられてもいました。上様にお年玉?(笑

信長は天主閣下の白洲で諸将に言葉をかけたそうです。この挨拶が信長との最後の対面になった家臣も多かったかもしれませんね?

子年生まれの戦国武将

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今日はクリスマスイブですね〜・・・「でもそんなの関係ね〜っ!」(笑
ということで、年賀状書かなくちゃな〜と思いながらブログを書いています(←さっさと年賀状書け!)

来年の干支はネズミですね。ネズミといえば真っ先に思い浮かぶ戦国武将は、信長に“禿鼠”と呼ばれた羽柴秀吉でしょうか?他にネズミに関する武将を考えていたら子年生まれの武将が気になって調べてみました。以下、主な子年生まれの戦国武将です。
※推定の武将も含まれます。また、予想以上に多かったので1492年以前と1600年以降は省略しました。ご了承ください。


1492年 平手政秀(信長の傅役)、毛利興元(元就の兄)、尼子国久(出雲大名。経久の次男) 、小田政治(常陸大名。室町11代将軍義澄の弟)

1504年 飯富虎昌(武田家臣。義信の傅役)、長宗我部国親(元親の父)、蜂須賀正利(小六正勝の父)

1516年 織田信光(信長の叔父)、諏訪頼重(信濃大名。信玄の義兄弟)、林通具(美作守。秀貞の弟)、松永長頼(久秀の弟)

1528年 明智光秀(本能寺の変で信長を死に追いやる)、村井貞勝(信長家臣・京都所司代)、前野長康(秀吉家臣)、於大の方(徳川家康の母)、北畠具教(伊勢国司北畠家の八代当主)、種子島時尭(漂着したポルトガル商人から二挺の火縄銃を買う)、三好政康(三好三人衆の一人)、阿閉貞征(浅井氏から織田氏に仕える)

1540年 豊臣秀長(秀吉・弟) 島清興(左近。石田三成の重臣)、木曾義昌(武田家臣。織田に寝返り武田家滅亡のきっかけを作る)、鳥居強右衛門(長篠・設楽原の合戦で逆さ磔にされる)、北条氏照(氏康の三男。氏政の弟)
本庄繁長(越後・上杉家臣)、丸目長恵(肥後・相良氏の家臣)、成松信勝(肥前・竜造寺氏の家臣)

1552年 森可隆(森可成の長男、乱丸の兄)、高山右近(キリシタン大名)、二本松義継(政宗の父・輝宗を謀殺)、仙石秀久(漫画『センゴク』の主人公)

1564年 浅井万福丸(長政とお市の長男)、小瀬甫庵(後に甫庵信長記を著す。『公記』とは別)、酒井家次(徳川家臣・酒井忠次の長男)、黒田直之(官兵衛の弟)、河野通直(伊予大名・伊予守)、関一政(盛信の次男。蒲生氏郷の義兄弟)

1576年 織田信高(信長の七男。フィギアスケートの信成君の先祖)、秋田実季(安東愛季の長男。正室は信長の姪で細川信良の娘)、浅野幸長(長政の嫡男)、堀秀治(堀秀政の嫡男)、島津忠恒(島津義弘の三男で初代薩摩藩主。)

1588年 浅野長重(浅野長政の三男。忠臣蔵の内匠頭の曽祖父)、山野辺義忠(最上義光の四男)

1600年 織田信当(信長の弟・信包の四男)、伊達忠宗(伊達政宗の次男)、本多忠利(本多康紀の長男。岡崎藩主)


ちなみに織田信長は1534年生まれの午年>。※『丑』と誤った記述をしていました申し訳ありません!k2様、ご指摘ありがとうございます!
同年には細川幽斎、斎藤利三、蒲生賢秀、蜂屋頼隆がおり、一回り上(1522年生まれ)には柴田勝家、千利休、三好長慶、一回り下(1546年生まれ)には織田信直、武田勝頼、竹中重矩(半兵衛の弟)、黒田孝高、最上義光らがいます。

斎藤道三の子孫 俳諧師・斎藤徳元

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斎藤徳元(泉光寺蔵・部分)
今月、2日から12月2日まで岐阜市歴史博物館で、『道三ゆかりの武将俳諧師 斎藤徳元』展が開催されているそうです。
斎藤徳元?俳諧師?と疑問だらけでちょっと調べてみました。

まず俳諧師とはウィキペディアによると
俳諧(はいかい)とは、主に江戸時代に栄えた日本文学の形式、また、その作品のこと。誹諧とも表記する。正しくは俳諧の連歌あるいは俳諧連歌と呼び、正統の連歌から分岐して、遊戯性を高めた集団文芸である。(中略)俳諧を行う人を「俳諧師」と呼ぶ。』だそうです。(思いっきり手抜きでスイマセン!)

そしてなんといっても気になるのが「斎藤徳元」。
生まれは桶狭間合戦の前年、永禄2(1559)年で正保4(1647)年に89歳で没
しています。

岐阜市歴史博物館の企画説明によると斎藤道三の外曾孫(娘の息子の子)だそうですが、他にもいろいろ調べると、信長に仕えた道三の息子で『信長公記』にも何度か登場する斎藤新五郎の子ということで同じく新五郎を名乗っていた時期もあり、道三の孫に当る人物とも考えられているようです。ちなみに初代・新五郎は本能寺の変で討ち死にを遂げています。

徳元が武将として活躍していた頃は、豊臣氏や信長の嫡孫・秀信にも仕えていたそうで、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦の前哨戦・岐阜城攻防戦で秀信配下として参加しますが、敗れて浪人となり、若狭の京極忠高に身を寄せたのを機に俳人としての第一歩を踏み出したようです。

徳元は、俳諧を松永貞徳に学んだ(交流があっただけ?)ということですが、この松永貞徳は元亀2(1571)年に生まれ、承応2(1654)年に没した人物ですが、信長に謀反した松永久秀の孫(永種の子)とも言われており、細川幽斎や里村紹巴とも交流があり、俳諧の世界では「貞徳派」と呼ばれる一派を築いた名人。

斎藤道三と松永久秀。共に戦国の梟雄と言われ、戦国時代の悪役的存在の二人ですが、その孫(あるいはひ孫とも)が、俳諧という文化的な世界で交流を深めることになるとは不思議な縁を感じます。


最後に斎藤徳元の句を一部紹介。
『煙にも すすけず白し 富士の山』
『唐人も 渡るや霜の 日本橋』
『春立つや にほんめでたき 門の松』
『末期には しにたはごとを 月夜哉』
(辞世の句)


岐阜市歴史博物館『道三ゆかりの武将俳諧師 斎藤徳元』
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