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戦国時代

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戦国雑学

信長は女装の趣味があったのか?

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最近、『世界一受けたい授業』(見逃しました!)や他の歴史関連特番(見たんですが番組名忘れました・・)で「信長は女装の趣味があった」とする説が立て続けに紹介されたようですが、本当に信長は女装の趣味があったのでしょうか?

まず結論から言ってしまうと『NO』。間違いというか大きな誤解だと思います。

信長が女装をしたというのはウソではありませんが、信長が女装をしたのは私が知る限り1回のみ。それらしい記事を含めても2回。

それらしいというのは、前回の『左義長』での信長の扮装。『信長公記』に記されている“描き眉の化粧”をしたことが女装となるかは分かりませんが、一説にこの信長の女装が起源となって近江八幡で行われる左義長祭りでは、山車を担ぐ男性が女物の長襦袢を着たり化粧をしたりするようになったとも言われています。ただ、最近は少なくなったそうですが・・

そしてもうひとつは、同じく『信長公記』に登場する話で、弘治2(1556)年(信長23歳)と推定される7月18日に津島(愛知県津島市)で行われた盆踊りで天人に扮して女踊りをしたというもの。この“天人”も女踊りをしたことから考えると『天女』(女装)の可能性が高いと思いますが、実はこれもはっきり女装したとは書かれていないのです。

上記のような2回のみ(※私が知る限りです)のエピソードで、『信長は女装が趣味』というのは、的確な表現ではなく、『信長は女装したことがある』というのが正しいと思うのですがいかがでしょう?

信長と囲碁

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先日のお約束。今回は信長と囲碁について書きたいと思います。

現在囲碁の世界で本因坊戦というタイトル戦がありますが、この本因坊とは、徳川幕府が認めた囲碁の家元四家の筆頭だそうです。
その筆頭・本因坊家の祖は日海という人物で信長や秀吉・家康も囲碁の指南を受けたようです。日海は後に本因坊算砂と名乗ることになります。

天正6(1578)年、囲碁が強いことで話題になっていた日海を信長は引見。その対局を見た信長は、見事な腕前に日海に「名人」の称号を与えます。これが「名人」という言葉の始まりといわれているようです。

そして、この日海が利玄という日蓮宗の僧と運命の対局を行います。
時は天正10(1582)年6月1日夜。そうです本能寺の変の前日のことです。信長の御前で二人は対局を始めます。

この対局中、コウ(説明は省略します)と呼ばれる形が三つもできる三劫(さんこう)という非常に珍しい状態になります。ちなみにこれは数千・数万回に一回という確立らしいです。

この形が出来た場合は無効試合ということで、夜も更けて来たので日海と利玄の二人は本能寺をあとにします。その数時間後、本能寺は明智光秀の軍勢に囲まれ信長は非業の死を遂げることになります。

この出来事をきっかけに「三劫は不吉な前兆」といわれるようになったそうです。
別の説ではこの時代、すでに「三劫は不吉な前兆」という言い伝えがあり、それを恐れた日海と利玄は急ぎ本能寺を離れたという話もあるようです。

いずれにしても「三劫は不吉な前兆」。私もゲーム中、この状況になったら・・・どこに逃げればいいんでしょう??実家?

【参考】※三劫ではありません(笑
日本棋院:囲碁の歴史(4)
■All About:織田信長の命運は囲碁に予言されていた!? 死を呼び込む不吉なゲーム

今回の記事を書くためいろいろ調べていたらこんなの発見!
■信長 囲碁の陣
岐阜新聞とパンダネットが提携して運営していて、ネットで多くの人達と対局できるようですが利用料がかかるそうなので本格的にやってみたい人向きかもしれません。
無料の囲碁対局サイトいっぱいありますからね・・・

信長と相撲

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陣幕と雷電取組の図 (江戸時代)
ここ一ヶ月余り、朝青龍問題で何かと騒がしい大相撲ですが、日本の国技である相撲が本場所以外で“しか”盛り上がっていないような気がする現状は寂しいというか悲しいですね。早く日本人の横綱も誕生して本場所の方を盛り上げて欲しい気がします。

さて前回の記事でも相撲について触れましたが、相撲といえば鷹狩りと共に信長のお気に入りの趣味のひとつ。少年の頃から鍛錬の意味もこめて仲間内で楽しんでいたという話もあります。

その相撲が『信長公記』で初めて触れられるのが、元亀元(1570)年3月3日。
この時も前回の記事同様、近江の国中から力士を召し寄せ安土の常楽寺で相撲大会を催します。

百済寺からは鹿や小鹿・たいとう・長光など、河原寺からは鯰江又一郎・青地与右衛門・はし小僧・大進など多くの力士が参加しました。この時活躍した鯰江・青地の二人は金銀飾りの太刀を与えられ信長の家臣に召抱えられ相撲奉行になっています。

天正6(1578)年2月29日にも近江の力士を集め安土山で大会を催します。
この日大活躍したのが日野の長光(上記の百済寺の長光と同一人物?)で、信長は身近に呼び寄せ(扇の)骨に金銀の彩色をした扇を与えます。
この日、長光も含めた23人が優秀な力士として選ばれたようです。

この年8月15日には近江や京都などから1500人もの力士が安土山に集まり大規模な相撲大会になります
このときの記述で「各部将が配下の力士たちを率いて参加」とあるので各部将も多くの力士を召抱えていたのかもしれません・・・というよりは配下の力自慢の者が相撲大会に参加したのでしょうか?

なんにしても大人数のため相撲奉行も青地与右衛門の他、津田信澄・堀秀政・万身重元・村井貞成・木村重章・後藤高治・布施公保・蒲生氏郷・永田正貞・阿閉貞大が加わります。この11名が相撲を取り仕切り“自らも”力士として参加したようです。
ちなみに行司は木瀬蔵春庵・木瀬太郎大夫(父子?)の二人のみ。二人だけで1500人の取り組みの行司を務めたため大会は夕刻まで続いたそうです。

この日も信長は活躍した14人をそれぞれ100石で召抱え太刀を与えます。
さらにこの年9月9日にも安土山で相撲大会を催し織田信忠・信雄が見物しています。

さらにこの年10月5日には畿内・近江の力士を召し寄せ、京の二条新邸にて大会を催し、これを摂家・清華家の公家に見物させています

天正7(1579)年8月6・7日、連日に渡り安土山で相撲大会が催され18才位の伴正林という力士が7人抜きの大活躍。両日活躍し信長に召抱えられます。
ちなみに伴正林は本能寺の変で信長と運命を共にすることになります。

次が前回触れた天正8年5月5日と17日にも開催。
17日の大会は甲賀地域からは30人の力士が参加しています。

この年6月24日にも開催しますが、この時は明け方から夜になり提灯をつけて続けたようです。この日も大野弥五郎が召抱えられています。
ちなみにこの直前の13日には円浄寺源七という力士が信長の勘気に触れ解雇されています。

天正9(1581)年4月21日には安土山で開催。
大塚新八・たいとう・うめが活躍します。
そしてこれが『信長公記』で触れられる信長最後の相撲大会になってしまいます。

このように信長はたびたび相撲大会開催
し、そのたびに多数の力士を召抱えました。本能寺の変がなければこの後も“大相撲安土場所”は続いたと思われますが、大相撲は形を変えつつ現代まで受け継がれることになります。
もちろん相撲は信長誕生のはるか前からありましたが・・・

ちなみに現在、その日の結びの一番のあとに行われる『弓取り』の儀式は信長が相撲大会で優勝した力士に褒美として弓を与えたのが始まりという説もありますがこれは誤りのようで、平安時代すでに存在していたようです。

余談ですが、両国国技館には相撲好きだった信長が相撲の取り組みを見物している姿が壁に大きく描かれているそうです(タイルを張り合わせた絵)。
情報提供: 『織田信長が好き!!』〜龍華成の安土城文庫〜の龍華成様

戦国時代と月食

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まだまだ残暑(というより、夏真っ盛りといった気がしますが・・)厳しいですが皆さんお元気でしょうか?

そういう私はバテバテ状態・・
しかし今日は朝から洗濯だ〜掃除だ〜買い物だ〜となぜか元気。勢いに乗ってめったにやらないブログの1日2回の更新。ついに暑さで頭がおかしくなったようです(笑

そんな暑さの中、暑さを忘れる?天文ショーがあるそうです。
あさって8月28日、6年ぶりに日本全国で皆既月食(月蝕)が観測できるそうです。
月食自体は毎年2回(ない年や3回の年もあるようです)あるそうで、特に珍しくはないようですが、部分月食のこともあり、今回は6年ぶりに日本全国で皆既月食が観測できるということで、非常に楽しみです。夜は晴れてほしいですね!

ちなみに時間は19時37分が最大でこの間、月が地球の影の中に入り込み月は見えなくなるのではなく、赤色に染まるそうです。
ちなみに東京の場合、東の空約15度の方向を見るといいそうです。結構低いので建物や山などない場所から見ないといけないようですね。

詳細⇒倉敷科学センター

さて、このブログは戦国時代が専門。またも無理やり戦国時代と月食の関連を探ってみました・・・が特にいいネタが見つかりません。
唯一、あるのが松永久秀の男女の夜のお話・・ロマンティックなネタから下ネタへと急展開(笑
(以下Hネタが含まれます。R-18?)続きを読む

塚原卜伝とジーコ

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暑い・・・暑いですね〜今年は特に暑い・・

梅雨が明けるまでは、夏休みになったら史跡めぐりの旅行に行く気満々だったんですが、(はっきりしない)梅雨明けと共にテンションは下がり続けて“やっぱり”今夏も断念。

しかし、明日からちょっとした縁がある茨城に行ってきます。特に史跡めぐりというわけではないのでブログで取り上げることはないかもしれませんが、せっかくなので剣豪・塚原卜伝とサッカーの神様・全日本代表監督のジーコに会ってきます!といっても当然、どちらも銅像の話です・・・

塚原卜伝とジーコといえば、地元の方はすぐにピンと来ると思いますが、私が向かうのは鹿嶋市。

ジーコは、Jリーグ発足前の住友金属サッカー部(現鹿島アントラーズ)に入団してJリーグ発展に大きく貢献し、最後は日本代表監督としてワールドカップでも指揮をとり、結果は残念でしたが日本のサッカー史にその名を残した名将だと思います。

さてこのブログ、戦国時代と銘打っているので、信長以外にもちょっと触れたいと思います。

剣豪として名高い塚原卜伝ですが、戦国時代初期の延徳元(1489)年、鹿嶋市にある鹿島神宮の神官・卜部(吉川)覚賢(うらべのあきかた)の次男として生まれ、後に塚原(城内原町有賀字塚原・現水戸市)の塚原安幹の養子になります。
塚原氏は鹿嶋市にある鹿島城を居城としていた鹿島氏の一族になります。

実父からは鹿島中古流刀術、養父からは天真正伝香取神道流を学び、独自の『一の太刀』を編み出します。(松本備前守から伝授されたとも)
鹿島新当流(新当流・卜伝流)の開祖。

戦国時代、各地で戦乱が続く中、17〜30歳の頃、武者修行の旅に出て、旅を終えてからも室町13代将軍・足利義輝や伊勢の国主・北畠具教らに出向き剣術を指南したようです。

足利義輝は上泉信綱にも剣術指南を受けており、永禄8(1565)年、松永久秀や三好三人衆に襲撃されたとき抜き身の刀を何本も突き立て、攻め寄せてくる敵兵を次々討ち取り剣豪振りを発揮していますが、多勢に無勢。あえなく討ち死に。

北畠具教も義輝同様、信綱にも剣術指南を受けていたようですが、天正4(1576)年、信長の命で信雄が北畠一族を襲撃した際、具教は一人で19人を討ち取ったとも言われていますが、やはりこちらもあえなく討ち死に。具教の剣術を恐れ事前に刀の刃をつぶされていて、なすすべなく討ち死にしたという説もありますが・・

卜伝自身は、元亀2(1571)年に83歳で死去しますが、真剣勝負で一度も負傷したことがなかったそうです。

板垣信方と甘利虎泰と政治家

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15日の大河ドラマ『風林火山』で両職(武田の最高職)である、板垣信方と甘利虎泰が死んでしまいましたね。中盤のクライマックスというところですね。

板垣役の千葉真一さんは(個人的には)意外でしたが、大河ドラマ初出演だったんですね〜。今回の大河を機に俳優業を引退するような噂も流れていましたがどうやら完全な引退というわけではないようなので、ちょっとうれしく思います。
千葉さんは武将役が非常に似合っていると思うので、ぜひまた戦国武将を演じてもらいたい気がします。私としては晩年の信玄役が似合いそうな気がしているんですが・・・

さて、今回の板垣は千葉さんの熱演で見事な死に方でしたが、実際の板垣はどうだったんでしょう?
『甲陽軍鑑』によれば、緒戦、村上義清軍を半数の手勢で板垣軍が打ち破ったようです。しかし、板垣は合戦が終結していないにもかかわらず首実検を行い、その間に村上軍が体勢を立て直し、板垣の陣に攻め入ります。板垣は慌てて馬に乗ろうとしましたが村上の兵に引き摺り下ろされ、そこを討たれたということらしいです。
ただ、『甲陽軍鑑』自体も信憑性に問題があるので真相は不明としか言いようがないかもしれませんね。

そして、もう一人、重臣・甘利虎泰ですが、ドラマでは村上に寝返ったフリをし、義清を討ち取ろうとして失敗して死んでしまいましたが、当然ドラマの演出。実際はどうだったのかな〜?とネットで調べてみました。やはり寝返ったということは無いようで、板垣が討たれ総崩れになりかけた武田軍でしたが、その中で武田晴信(信玄)を守って初鹿伝右衛門らと共に討ち死にしたようです。

さて、今回の記事の「〜政治家」というところですが、甘利虎泰について調べているとき驚きの発見をしてしまったんですが、現・経済産業大臣の甘利明氏(父・正氏も衆院議員)が、武田信玄の庶流(武田家と同じ甲斐源氏)で甘利虎泰の子孫で、ご本人曰く、信玄の末裔ということです。(本当)と書いてありました。
これって有名な話なんでしょうか??

思えば幕末から明治にかけ活躍し、自由民権運動の中心的役割を果たした板垣退助も板垣信方の子孫(自称らしいですが)でしたね。
こちらは、信方の孫・正信(父は信憲)が山内一豊の家臣・乾彦作の養子となり、その子孫が乾退助であり、後に板垣の子孫ということで板垣退助と名乗ったそうです。(ウィキペディア参照)

両職を勤めた板垣信方と甘利虎泰の子孫が、時代こそ違いますが共に政治家の道を歩むとは不思議な縁のような気がします。

今日は信長公の誕生日

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突然ですが今日は、信長公の誕生日です。
上様おめでとうございます!


さて、信長の誕生日は旧暦でいうと天文3(1534)年5月11日または12日という説が一般的ですね。他にもいくつか説があるようですが、個人的には5月12日かなと思っています。11日にお産が始まって12日に生まれたみたいな・・・

まあ、いずれにしても旧暦の5月の話。現代の暦(グレゴリオ暦)で考えると今日7月3日が旧暦の5月12日になります。ちなみにユリウス暦だと6月23日です。(・・・あってますか〜?)

5月といわれると気持ちの良い暖かい春のイメージがありますが、実は今のような蒸し暑い梅雨時に生まれたことになるんですね〜。当日は雨だったんでしょうか??


ちなみに本能寺の変で不慮の死を遂げなければ今年で数え474歳!(←いくらなんでもそんなに生きないだろ!!)

ということは、あと26年で生誕500年!!・・・・あと26年ですか〜長いですね〜
私は生きてるんでしょうか〜?

生誕500年祭ってきっとあるんでしょうね〜。信長ゆかりの地はかなり盛り上がりそうな、そんな予感がしています。

でも、きっとその頃にはこのブログはやってないと思いますが、今と変わらず信長ファンやってるんでしょうね〜。

26年後、かならず名古屋行くぞ〜!っと、その前にも行きたいですが・・・

戦国時代の殺人事件〜京都四条糸屋事件〜

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戦国時代は各地で合戦があり、人が死ぬことは特に珍しいことではなかったかもしれませんが、現代と同じように合戦以外でもいわゆる“殺人事件”がありました。

今回紹介するのは、『信長公記』に取り上げられている「京都四条糸屋事件」。
著者の太田牛一が“前代未聞”と記しているので、殺人事件は戦国時代にあっては珍しいことだったのかもしれません。現代の日本は戦国時代と逆の傾向ですね・・・

織田軍が摂津・播磨方面に出陣中の出来事です。

天正7(1579)年4月24日、下京四条小結町(京都市下京区)に糸屋の後家である70歳くらいの老女とその娘(50歳前後か?)さらに下女が住んでいました。

娘はこの日の夜、酒屋で酒を買い、母親に振舞います。母親がもう飲めないというのに無理やり飲ませ酔い潰します。完全に酔ってフラフラの母親を土蔵に担ぎこみ夜更けを待ちます。人が寝静まった頃を見計らって娘は母親を刺し殺してしまいます。

娘は遺体を箱に入れ厳重に縛ります。後ろめたい気持ちもあったのか、それともたたりを恐れたのかはわかりませんが、僧を呼びます。しかし、自家は法華宗であるのにもかかわらず浄土宗の僧を呼び、密かに寺に運び込みます。

娘は事件の発覚を恐れ、下女に小袖を与え口を封じます。
しかし、下女はもしこのことが発覚したら自分もただではすまないと思い、京都所司代である村井貞勝に事件を告げます。


娘はすぐに捕まり、取調べを受けます。
動機については書かれていませんが、4月28日、娘は市中引き回しの上、京都・六条河原で処刑されます。

この六条河原は鴨川の河原で処刑場として名高いですが、戦国期には本能寺の変で光秀と行動を共にした斎藤利三や関ヶ原合戦の折には西軍の石田三成・小西行長らもこの地で処刑されています。

信長と森乱丸

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前回、登場した森乱丸ですが、今回はその略歴について触れたいと思います。

生まれは、信長が足利義昭を奉じ上洛を果たす三年前の永禄8(1565)年で、皆さんご存知のように天正10(1582)年6月2日の明智光秀の謀反に遭い本能寺で討ち死。

前回触れたように「蘭丸」とかかれることが多いですが、『信長公記』をはじめ信頼できる歴史資料では、「乱丸」や「乱法師」と記述されています。諱は一般的には「長定」が有名ですが、自著に従えば「成利(なりとし)」でこれが最も可能性が高いと思われます。他に「長康」という説もあります。

乱丸の父・可成(よしなり)は、信長が弟・信勝(信行)と家督争いをしていた頃、信長方として活躍し、尾張統一に貢献。その後も美濃攻めや上洛戦、対浅井・朝倉戦でも活躍。元亀元(1570)年、信長が摂津の三好討伐出陣中に京へ迫った浅井・朝倉連合軍3万へわずか3000の兵で応戦。あえなく討ち死するも浅井・朝倉軍は苦戦を強いられたため入京に手間取り、その間に信長は京へ帰還し危機を脱します。

可成の死によりわずか13歳の次男・長可(乱丸の次兄)が森家の家督を相続します。ちなみに長男・可隆(乱丸の長兄)は元亀元(1570)年の朝倉・手筒山城攻めで討ち死しています。

『森家先祖実録』によると乱丸が信長に仕えるようになったのは、天正7(1579)年4月上旬とされており、『信長公記』に登場する時期と一致しますが、これを信じると小姓となってすぐに使者として抜擢されたことになりやや無理があるように思います。
これよりもやや早い時期に小姓として仕えるようになり信長の身の回りの世話をしつつ、実務に関しての教育も受けたのではないでしょうか?

『森家先祖実録』は先祖の事績をまとめているため、やや誇張した部分もあると思われ前述の「長定」という名も、この『〜実録』が出典のようで、信長の「長」の字を貰っていたという形にしたかったのかもしれません。

信頼できる史料での乱丸の活躍は主に織田家中や降伏した武将への使者としての役目が多く実戦での活躍はありません。しかし、小姓衆の筆頭ではあったようで、本能寺の変の直前、織田家の“当主”である信忠が父・信長に会うために乱丸に腰を低くして依頼した文書もあるようです。

さらに、小姓衆でありながら岩村城主に任命され5万石の領地を与えられています(他説あり)。結局、領国に赴くことはありませんでしたが・・・。
ただ、岩村城や5万石の領国を与えられたのは、乱丸の活躍というよりは、父・可成や長兄・可隆の戦死に報いるため信長が取り計らったものかもしれません。

それと共に森家からこれ以上死者が出ないようにするためか、乱丸は危険な敵地への使者に出ることは無く(年齢や経験が少ないということもあると思いますが)、弟の坊丸・力丸と共に信長の側近くで仕えることが多かったようです。結局はこれがあだになってしまいますが・・・
余談ですが森家は次男・長可が後の小牧・長久手の戦いで戦死し、六男・忠政(乱丸の弟)が津山藩の初代藩主として生き残ります。

乱丸は逸話の多い武将ですが、そのほとんどが江戸期の創作のようです。実際の乱丸はどのような人物だったのでしょう?

信長と山本勘助

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気が付けばもう3月・・・時が経つのは早いものですね。いまだ仕事は忙しく毎日長時間の残業、週休二日のはずが日曜しか休めない状況が続いていてブログの更新もままなりません。

唯一、見ているドラマは大河ドラマ『風林火山』のみ。しかし山本勘助いまだに武田晴信(信玄)に仕官しませんね〜(そろそろ仕官ですか?)

その『風林火山』に信長が登場するか気がかりなところですが、勘助が死んだのが永禄4(1561)年9月の第4次川中島の合戦のとき。桶狭間合戦で信長が今川義元を破った翌年のことなので、『風林火山』で信長が登場する可能性はわずかながらありそうですね?

山本勘助に関しては実在を疑われたり、信玄の軍師ではなく単なる使者だったなど謎が多い人物ですが、その活躍が記されているのは江戸時代前期に成立した『甲陽軍鑑』のようで、この『甲陽軍鑑』も信憑性が議論される歴史資料でまだまだ研究が必要なようです。

その『甲陽軍鑑』を研究している群馬県立歴史博物館の黒田日出男館長(東京大名誉教授)が最近、桶狭間合戦についての新説を発表され、信長が今川義元の首を取れた理由を「桶狭間合戦の前哨戦で勝利した今川軍が乱捕り中(略奪)に織田軍がドサクサ紛れに義元の首を取った」とされているようです。まあ、ありえなくもないかな〜といった感じですね??

さて、タイトルの「信長と山本勘助」。例によって?関係を“こじつけ”たいと思います(笑)

桶狭間合戦で義元を討ち取った信長は、その戦利品として義元が帯刀していた名物『宗三左文字』(別名:義元左文字)を手に入れます。
この『宗三左文字』は三好宗三が信玄の父・武田信虎に贈り、それを義元が引き出物として贈られた名物でした。

信長は義元を討ち取った記念に刀の茎(なかご・手で握る部分の中)に『永禄三年五月十九日 義元討補刻彼所持持刀』 『織田尾張守信長』と刻ませ生涯大事に保管していました。

信長の死後は、豊臣秀吉・秀頼父子に受け継がれ、秀頼はそれを徳川家康に贈り、以後徳川将軍家に代々受け継がれ“天下人が手にする刀”とも一部では言われているようです。明治になり徳川家達は建勲神社に刀を奉納し、現在は重要文化財として京都国立博物館に保管されています。

左文字は刀匠・筑州衛門三郎の略称で、多数の刀が存在しているようです。信長自身も数本所持していたようで、まさにお気に入りの愛刀だったようですが、実は山本勘助も左文字を愛刀としていたという話があります。
 
以上信長と山本勘助のつながりでした・・・・ちょっと強引過ぎでしたね(汗)

信長と“女性の下着”

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久々の記事が下ネタ?でスイマセ〜ン!
なぜ“信長と女性の下着”なのか?

それはasahi.comのこんな記事を発見したからです。
グンゼ、ネットで「パンツ検定」3月から

その「パンツ検定」の問題に
『日本で初めて女性用パンツを手にした人は?』
(1)織田信長 (2)豊臣秀吉 (3)徳川家康


なっ!なんだこれは?
答えが気になる!気になってしまい早速調べてみました(笑)

答えは!続きを読む

信長と“納豆ダイエットデータ捏造問題”

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今、関西テレビの「発掘!あるある大事典II」で納豆ダイエットデータの捏造が行われて大問題となっていますね。

「納豆ダイエット」放送以来、店頭で納豆を見かけなくなっていましたが、あまり好きでありませんが健康のために納豆を食べていたので、店頭にフツーに納豆が並ぶようになるのかな〜と少々安心している織田創です(笑)低レベルな問題意識です・・・

さて、本題です。『織田信長』と『納豆ダイエットデータ捏造』にどのような関係があるのか?!
これは分割して考えなくてはいけませんが、まず『ダイエット』と言う意味ではまったく関係ありません。“捏造”です。スイマセン!(笑)

次に『納豆』についてですが、強引ですが少々関係があります。
本能寺の変の百日後の10月11日、信長の実子で秀吉の養子となっていた秀勝が喪主となり京都・大徳寺で葬儀が執り行われました。

その大徳寺は、室町期にこの寺の住職を務めた“一休さん”でお馴染みの一休宗純がその製法を伝えたとされる「大徳寺納豆」が有名です。ただこの納豆、すぐにイメージするネバネバの納豆ではなく、粘りの少ない麹菌を使った黒い粒の塊のような物で味噌に近い味だそうです。
【参考】⇒京都こだわりどっとこむ


そして本命の戦国時代ネタですが、『データ捏造』と言う意味では大きな関係があります。
これは、天正4(1576)年の本願寺攻め、天王寺合戦が行われたときの話です。この合戦は、織田軍わずか3千で、1万を越える本願寺勢を相手に戦い信長自身も銃弾を受け軽傷を負いながらも辛勝した合戦で、余談ですがこの戦いの先陣を命じられた荒木村重は、あまりの無謀な戦いに命令を断っています。

この戦いにかろうじて勝利した信長は、勝ちに乗じ本願寺勢の士気低下を狙い“捏造報道”をします。
本願寺勢の指揮を執った大将格の下間頼廉とそれに協力した雑賀衆の首領・鈴木孫一を討ち取ったとして、二人の首を京都にさらします。しかし、これはまったくの偽物。当時の公家山科言継も、その話を信じ自身の日記『言継卿記』に書き記していますが、その後も下間頼廉と鈴木孫一は、本願寺の主力として信長と戦い続けることになります。

戦国の世、情報捏造は茶飯事。負け戦を「大勝利」としたり、敵方の家臣が内応してないのにしているなどその手法もさまざま。
それは現代でも同じですね。

さまざまな情報であふれるかえる現代。マスコミの報道だけではなくネット上の噂話等々、それらの情報に振り回されることのないよう、その真偽を見極める能力を身につけたいものです。

信長と荒木村重

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今回、荒木村重の謀反について取り上げる予定でしたが、その前に信長と荒木村重の関係について触れておきたいと思います。

まず出会いについてですが、謀反を起こす10年前、信長が足利義昭を奉じて上洛した1568(永禄11)年9月のことになります。

当時、荒木村重は、摂津の池田勝正の配下に属し信長と一戦を交えますが、池田勝正はすぐに降伏し、摂津・池田城を任されることになります。このとき村重自身が、信長と顔を合わせることがあったかははっきりしません。

この2年後には池田家に内紛が生じ、池田家の実権を握り、さらに浅井・朝倉・本願寺相手に信長が苦戦し、摂津が手薄になると、この機に乗じて同じく摂津・高槻城を任されていた和田惟政を討ち滅ぼし摂津の大半を領します。

1573(元亀4・天正元)年に将軍・足利義昭と信長が対立すると、村重は細川藤孝と共にいち早く信長へ挨拶に訪れ臣従を誓います

織田配下となった村重は、信長の許しの下、摂津統一を進め、翌年、伊丹城の伊丹忠親を滅ぼし、摂津を平定し本拠を伊丹城に移し、城名を有岡城と名を改めます。

以後、摂津周辺の合戦に従軍し信長に忠勤を励みますが、1578(天正6)年10月、突如謀反を起こすことになります。


ここでひとつ信長と村重の有名なエピソードを紹介しておきます。
とある宴席でのこと、信長は突如、刀で側らにあった餅(饅頭とも)を突き刺します。すると村重の前に歩み寄り、その餅を村重の眼前に突き出します。一同騒然とする中、村重は動ずることなく、刀に突き刺さった餅にかじりつき、餅を食べつくします。
さらに餅で汚れた信長の刀を自分の袖でふき取ると言う徹底振り。
この振る舞いに信長は、大いに感心し、以後村重を厚遇することになります。
村重の豪胆さと信長の奇抜な人物鑑定方法を物語るお話でした。

参考資料⇒樋口晴彦著 『信長の家臣団―「天下布武」を支えた武将34人の記録』『信長の家臣団―「天下布武」を支えた武将34人の記録』あまなつAdhover 信長の家臣団―「天下布武」を支えた武将34人の記録

イメージイラスト⇒秋月まんじゅ様 『秋月草紙』 (餅を喰らう荒木村重です)

信長と万見仙千代

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最近の『織田信長史』を読んでいて、ある人物が頻繁に出てくることに気付かれた方はおられるでしょうか?

その人物とは、万見仙千代重元です。『信長公記』の巻11(天正6年)になるとその活躍が、多く記されるようになります。

万見仙千代とは、どのような人物なのか?
生年は不明で、没年は、大活躍を見せる天正6(1578)年になります。信長の側近で、この時期、信長の寵愛を最も受けた小姓です。

仙千代の活躍が最初に記されるのが『松江松平文書』の1575(天正3)年9月10日付の秀吉らへ宛てた信長書状のようです。

そして既に記述したように、神吉城攻めの検視役を勤め陣の構築を指示および信長への報告、そして前回書いた、南部政直の接待役、そしてそれ以外にも武蔵・太田道誉宛ての信長の書状の副状を発給し、安土で開かれた相撲会の奉行まで務める活躍ぶりで、内政から外交に関することまでこなし、信長の身の回りの世話もしなくてはいけない忙しさ。まさに寝る暇も無いと言うような状況でした。

信長の“英才教育”を受け、次代を担う若手の筆頭でしたが、初めてと思われる出陣であっけない最期を遂げることになります。
その最期を遂げることになる戦いが、次回触れる予定の荒木村重の有岡城攻めです。

万見仙千代の死により、信長の小姓として最も有名な森乱丸(蘭丸)が登場することになりますが、仙千代が長生きしていたら乱丸の出番は無かったかもしれません?

ただ、不思議なことに『信長公記』の巻14(天正9年)の9月、織田信雄の伊賀攻めに関する項で、再び万見仙千代が登場し、知行を得たと言う一節があります。単なる間違えなのか、それとも死んだ仙千代重元の息子もしくは一族なのかはっきりしません。

【万見仙千代についてもっと詳しく知りたい方におすすめの一冊】
『信長の親衛隊―戦国覇者の多彩な人材』信長の親衛隊―戦国覇者の多彩な人材あまなつAdhover 信長の親衛隊―戦国覇者の多彩な人材

【参考サイト】
『歴史の館Mizoe』様の万見重元の項

信長とクリスマス

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Merry Christmas!!

と戦国時代らしからぬ書き出しですが、実は?というか当然とも言うべきか日本で初めてクリスマスの行事が行われたのは、記録に残る限り、戦国時代真っ只中の1552(天文21)年のことでした。当時はクリスマスとは言わず“ナタラ"と言ったそうです。

ただ、キリスト教がフランシスコ=ザビエルによって日本に伝えられたのが1549(天文18)年なので、推定ではありますがこの頃にはクリスマスの行事があったのかもしれませんね。当然、キリスト教徒の間だけのことではありますが・・・

さて、キリスト教に対して寛大であり、宣教師ルイス=フロイスと親交のあった信長ですが、クリスマスを祝ったのでしょうか?それは謎ですが、信長が上洛した1568(永禄11)年のフロイスが記した記録にこのような一節があります。

「足利義昭を奉じて上洛した織田信長とそれまで京にて実権を握っていた松永久秀が争っていたがクリスマスの日一時的に休戦」

このように具体的に書いてはいなかったかもしれませんが「クリスマス休戦」をしたそうです。

ただ信長も松永久秀もキリシタンではなく、久秀に関して言えばむしろ1566(永禄9)にキリシタンに友好的だった13代将軍義輝を殺害し、キリシタンを京から追放するような考えの持ち主。
一方の信長は、キリスト教の存在は知っていたかもしれませんが、ルイス=フロイスと親交を深めキリスト教の布教を許すのは、上洛の翌年1569(永禄12)年のこと。

キリスト教と無関係の両者がキリスト教の祝いの日だからといって“クリスマス休戦”を本当にしたのかどうか真偽は不明です。

いずれにしてもキリスト教に寛大で好奇心旺盛な信長のこと。自らは祝うことがなかったかもしれませんが、きっとどのようなことをやっているのか一度くらいは見に行ったかもしれませんね??

以上、クリスマスとは“無関係”の織田創でした(笑)・・・(涙?)

参考サイト『日本クリスマス博物館』(日本のクリスマスの歴史|年表)

6月2日といえばやはり・・・

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今日は6月2日、このネタを書く人は多いのではないでしょうか?
そう今日は言わずと知れた“ドリームジャンボ宝くじ販売最終日”ということで一応10枚だけ夢を買っておきました・・・じゃなくって、信長ファンとしては忘れることの出来ない、『本能寺の変が起きた日』=『信長公の命日』ですね。
本能寺の変からきたのか、現在では6月2日は『裏切りの日』となっているそうです。何じゃそりゃ?

しかし、ご存知のように本能寺の変が起きた6月2日は旧暦。現代の暦だと今年の場合、“6月27日”が本能寺の変が起きた日になります。
ちなみに1582(天正10)年6月2日は、新暦で7月1日になります。

当時も現代も気候に大きな変動は無いと思うので、当時の京都は梅雨真っ只中ということになりますね。変の起きた日の天気は不明ですが、雨が降っていたという記述はどの本を見ても出てこないので曇りや晴れだったのかもしれませんね。あくまで推測ですが・・・

本能寺の変についてはいろいろ触れたい話題があるんですが、今書くのはやめておきます。連載中の『織田信長史』が終了後に特集したいと思います。しばらくお待ちください!

お詫びのしるしに雑学をもうひとつ。
「信長」と「宝くじ」と言うと何の関連も無いような気がしますが、少しだけ関係があります。
大阪府にある箕面山瀧安寺(京都の龍安寺とは無関係)。
この寺は信長により焼き討ちされ焼失した歴史がありますが、その信長が生きていた天正年間に日本で初めて宝くじ(当時は“富くじ”と言った)をはじめたお寺だそうです。天正は1573年から1591年までありますが、寺が再建されたのが江戸時代になってから。ということは信長に焼き討ちにされたのがいつか不明ですが、焼き討ちされる前に宝くじは始められたということになりますね。
宝くじにも長い歴史があるんですね。ヘエ〜・・・

検証 〜長篠・設楽原の合戦〜

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“長篠・設楽原の合戦”の大勝利により、苦しい状況を一時的に脱した信長ですが、この戦いは通説では単に“長篠の合戦”といわれ、“織田・徳川連合軍が鉄砲三千挺・三段構えで、突撃してくる武田の騎馬軍団を迎え撃ち撃破した”とされていますよね。しかし、近年はその説が否定され、考え方が変わってきているようです。

今回“検証”とえらそうなタイトルをつけていますが、“完全なる受け売り”で現在主流になりつつある新説を簡単に(といっても長いです)まとめてみたいと思います。

■合戦名について
以前は『長篠の合戦(戦い)』といわれていましたが、最近では『長篠・設楽原の合戦(戦い)』と言うのが主流になってきたようです。

実際に両軍の主力が激突したのが「設楽原」(あるみ原)というところで、長篠は別働隊および城兵とそれを包囲していた軍が戦った場所。
そのようなことから正確には『長篠・設楽原の合戦(戦い)』ということのようです。


■鉄砲の数について
まず、鉄砲の数ですが、信憑性の高いとされる太田牛一の『信長公記』では佐々成政・前田利家らが指揮した1000挺の鉄砲隊と酒井忠次別働隊に付けた500挺の鉄砲隊の記述しか出てきません。このほかに当然ながら徳川軍も鉄砲を所持していたとおもいますがその数は不明です。しかし、織田軍以上所持していた可能性は低く、この合戦に使用されたのは2000挺に満たなかったのではと思います。

通説の3000という数字は、創作や誇張が多く信憑性が疑問視される『甫庵信長記』が元になっているようです。ただ、太田牛一の『信長公記』は写しなどいくつか種類があり、その中のひとつに“千”の横に小さく“三”と加筆されている部分がありますが、本人の訂正のものか、後世誰かが訂正したか不明ですが『信長公記』成立年代を考えると後者の可能性が高いようです。


■鉄砲三千挺・三段構えの戦法について
これも『甫庵信長記』が出典です。1000挺の鉄砲隊を横に並べそれを三列に並べ一列目の隊が打ったら後列に回り、二列目が前に出る。二列目が打ったら後ろに回る・・・・
この戦法を実際にやろうとすると、「目の前に敵がいなくても鉄砲を打たねばならず弾や火薬をムダにしてしまう」「密集して鉄砲を撃つと火焔や焼けた火薬が飛び散り負傷する」「逆に広いスペースをとると戦線が広範囲になり指示が行き届かない」「臨時に編成した鉄砲隊で訓練されていないので交代時に混乱が生じる」等々の理由で不可能だったと考えられ、実際には信長に指名された「5人の指揮官たちがそれぞれの持ち場で個々に鉄砲隊を指揮していた」と考えられます。

信長のような合理主義的考えの持ち主が、このようなムダで危険な戦法を考えるわけはなく、さらにこの合戦のあった旧暦の5月21日は現代の7月9日ということでこの地域は梅雨で前日も雨だったということだそうです。
そのような状況で鉄砲が使えなくては戦いようがない作戦を信長が考案するとも考えられません。


■勝利の要因
この合戦で鉄砲が活躍したのは間違いありませんが、この合戦勝利の大きな要因は武田軍よりはるかに多い兵力を動員したことに尽きると思います。
兵力が多いことにより「陣城を短期に構築」したり「別働隊編成」などいろいろな作戦を可能にしました。

もう一点挙げるとしたら勝頼が自分の力を過信してしまったことでしょうか?
この合戦の前、父信玄が落せなかった高天神城はじめ多くの城を攻略したことにより慢心し、兵力が少ないにもかかわらず織田・徳川の主力にも勝てると思ってしまったのかもしれません。

「金ヶ崎の退き口」のときの信長のように状況を冷静に判断できていれば武田家の滅亡は防げたかも知れません???
勝頼的には「桶狭間の合戦」のように“少数でも敵将の首を取れば勝てる”という考えだったのでしょうかね?


【引用参考文献】
太田牛一著・中川太古訳 『信長公記』上巻
藤本正行著 『信長の戦国軍事学』
鈴木眞哉著 『鉄砲隊と騎馬軍団』
講談社 『週刊日本の合戦 武田勝頼と長篠・設楽原の戦い』

「私生活覗き見バトン」&「戦国武将の一日」

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『輝け。Flash制作日誌』の秋月殿から「私生活覗き見バトン」なるものが回ってきたのでやってみたいと思います。

戦国時代に結びつけるために信長の私生活についてちょっと触れたいと思います。

尾張の天沢という僧が甲斐に行った時の話です。

信玄が信長についてたずねると天沢は「信長は毎朝乗馬し、鉄砲や弓・兵法の稽古をし、鷹狩りにもよく行く。好みは舞でいつも『敦盛』の一曲だけ・・・(後略)」と答えたようです。
他にも水泳相撲合戦ごっこもよくやったようです。

ちなみに“うつけ”と呼ばれていた頃、信長が身に着けていたものは、太刀や脇差(普通より長かったようです)はもちろんですが、縄や火打石・ひょうたんなどを携帯していたようで、これは万が一城を締め出されたとき、城壁をよじ登るため持っていたとも言われています。

信長の起床時間や就寝時間は良くわかりませ〜ん!

起床や就寝について参考になるのが、北条早雲の定めた掟書き『早雲寺殿廿一箇条』でしょうか。

これをもとに武士の一日を再現すると「起床時間は午前3〜5時(ハヤッ)午前6時までに登城し、午後6時には家の門を閉め、そして就寝は午後8時(これも早い)」というようになるそうです。
そして、常に本などを懐に入れておき、人目を忍んで学ぶよう薦めているようです。

加藤清正も午前4時には起床し、武芸に励めと言っているので午前4時前後に起きるのは戦国時代には普通だったんでしょうか?

戦国時代(江戸時代も?)は一日二食だったようなので昼飯がないんでしょうか?

前置きが長くなりました〜。「私生活覗き見バトン」回答してみたいと思います。
つまらん私生活ですが、お付き合いのほどを・・・



■平日は何時に起きますか?
6時です。早雲公に怒られちゃいますね!

■休日の午前中は何をしてますか?
洗濯しながらパソコン。一息ついて掃除ですかね・・・はぁ〜

■お昼ご飯のメニューを教えて下さい。
平日はコンビニ弁当(涙)

■休日の午後は何をしてますか?
買い物したり、本屋で立ち読み。出かけないときは昼寝やパソコン

■帰宅後は何をしてますか?
仕事から帰ってきてからでしょうか?だとしたら定時のときは晩飯作って風呂入って・・・残業のときはまたもやコンビニ弁当(誰か作ってください!)

■何時に寝ますか?
12時までには寝てしまいます(早い!)

■いつも持ち歩いてる必需品は?
“ほとんど使わない”ケータイ電話と“ほとんど中身のない”財布ですね。

■バトンを回す10人
これが悩むところで・・・
同盟国の方に頼るほかなさそうです。雪姫様、流月殿、龍華様、リックドム殿、ボブ夫殿、差し支えなければバトン受け取ってください!
その他の同盟国の方はブログの内容にそぐわない気がするのでお願いしませんが、もし“やってやるぞ!”と思われたらバトン受け取っていただきたいです。

キリシタン武将

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前回、キリスト教について触れたのでついでに戦国時代のキリシタン武将・大名について書きたいと思います。

キリシタン大名で有名なのは、やはり大友宗麟でしょうか?ザビエルに領国内での布教を許し、熱心なキリスト教信者だった・・・というのは違うようです。
もともと禅宗に帰依していました。キリスト教の布教が始まると妻や子供らはすぐにクリスチャンになりましたが、宗麟自信が洗礼を受けたのは布教を許してから27年後のことで、その目的はキリスト教徒になることで西洋からの武器輸入や貿易をやりやすくするためだったようです。

熱心な信者として有名なのは高山右近や小西行長でしょうか。
小西行長は、関が原の合戦に敗れ、東軍にとらわれた際、キリスト教では自殺を禁じているので、行長は切腹はせず、結局六条河原で石田三成や安国寺恵瓊と共に斬首されます。

高山右近は、秀吉のキリスト教の禁教令に従わず領地を没収されても信仰を捨てず、家康による禁教令も拒み1614(慶長19)年、ついに国外追放を言い渡されます。
このとき、神父や信者200人余りと共にマニラに送られますが、現地マニラのクリスチャンには英雄として迎えられたようです。しかし、到着わずか40日後マラリアにかかりそのまま病死
してしまいました。死の直前「神父やキリシタンに囲まれて死ぬのは幸せだ」と言い残したそうです。

高山右近は、布教にも熱心に取り組み禁教令が出る前は、蒲生氏郷黒田官兵衛(如水)を入信させています。黒田官兵衛は息子・黒田長政そして毛利元就の八男・毛利秀包を入信させています。
キリシタン武将として他に有名なところでは、大村純忠有馬晴信もいます。

また、武将ではありませんが細川忠興の妻・ガラシャは有名ですね!ちなみに明智光秀の娘でもありますね。関ヶ原の合戦直前、西軍の人質になりかけますが、それを避けるため自害も考えますが、自殺は禁じられており結局、家臣の小笠原少斎に薙刀で胸を突かせ死にます。

ここでもう一人紹介します。名前は岐部果水。豊後の豪族で大友氏の家臣で家族そろって熱心なクリスチャンでした。
司祭になることを決意しイエズス会に入りますが、徳川幕府の禁教令で1614(慶長19)年、マカオに追放されます。そこでも司祭になることをあきらめず、インド・エルサレム・パレスチナを経由し、ついにローマにたどり着き、念願の司祭に叙階されます。入信から14年後の33歳のときでした。
しかし、果水はローマにとどまらず、日本への帰国を選択します。日本で再びキリスト教の布教を再開させたいという思いがあったのでしょうか?
1639(寛永16)年、日本に帰国した果水は幕府に捕らわれてしまいます。
拷問を受けながらも改宗を拒み続けついに処刑されてしまいました。


(以上、『戦国武将ものしり事典』・奈良本辰也監修を参考・引用させていただきました)
※尚この著書のなかで、キリシタン大名として石田三成の名が記されていますが、文章を読むと肥後半国のキリシタン大名という記述が出てくるので小西行長と勘違いまたは校正のミスと思われます。

ちなみに信長は無神論者のように言われていますが、決してそんなことはないと思います。特定の宗教には入信していませんでしたが、キリスト教には寛大で、既存の宗教も否定したのではなく、政治(大名)と結びつき利益を得ようとしたり勢力の拡大を狙ったりする、純粋な信仰ではない腐敗した体質が許せなかっただけのように思います。
桶狭間の合戦の際は、信長自身も熱田神宮に戦勝祈願に行ったりしているので、“困ったときの神頼み”は、するんです。やはり信長も人間ですね。

戦国国勢調査

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今日10月1日は、国勢調査の日ですね。
行政の基礎となる人口・世帯の実態を明らかにする統計調査ということらしいです。

ふと、戦国時代の人口が気になって調べてみました。

いくつかのサイトを見てみましたが、戦国時代の人口は1800万人〜3500万人と推定されているようです。今の日本の人口が約1億3000万人なので7分の1〜4分の1程度だったことになりますね。この頃中国の人口が6000万人位だったらしく、この当時から中国は世界一の人口だったようです。ちなみに日本は戦国の世で毎日どこがで戦があり、多くの人が死んでいるので、順位は下位かと思いきや、世界で2番目の人口だったそうです。
(水谷哲也氏のブログ参照)

そして、平均寿命ですが「人間五十年〜」と信長お気に入りの「敦盛」にうたわれていますが、あくまで推定ですが、戦国時代の“男子”の平均寿命は37歳位だったと考えられているようです。そうすると信長の49歳(数え)は長生きということになるんですね。う〜ん・・・

そんな中、長生きした武将が、後北条家の北条玄庵でしょうか。
戦国大名のさきがけとなった北条早雲の三男で、北条五代(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)に使えた人物です。98歳まで生きたとされています。(諸説あり)

また、武将ではありませんが、その正体が明智光秀ではないかといわれる、徳川三代(家康・秀忠・家光)に使えた天海大僧正がなんと108歳まで生きたといわれています。平均寿命の約3倍。現代に置き換えると男子の平均寿命が77歳くらいなので231歳・・・もう妖怪ですね!無駄な計算でした・・・

ちなみに現代の100歳以上の方は、9月末時点で2万5606人(このうち女性が85%を占めています)だそうです。

以上、戦国国勢調査でした・・・(なんじゃこの締め方は?)
さて信長史の続きを考えよ〜っと

織田宗家のその後

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いよいよ桶狭間の合戦ですが、ちょっと一休み。
前半の山場ですので、夏休みに入ってからじっくり書きたいと思います。

さて、岩倉城攻略で尾張を統一した信長ですが、ご存知の通り、信長は尾張守護代の三奉行の一人だった信秀の息子で本家ではありません。では、織田の宗家筋はその後どうなったのでしょうか?
信賢については不明ですが、信賢に追放された、その父・信安の足跡が残っています。ちなみに信安は、信長と従兄弟の関係になります。

信安は追放された後、京都に隠遁しますが、やがて信長に美濃にてわずかな所領を与えられます。そして、関が原の合戦後、土佐に向かいます。

かつて岩倉の織田信安の家老に山内盛豊という家臣がいました。そうです、来年の大河ドラマ「功名が辻」の主人公・山内一豊の父です。

その一豊が土佐の大名になったことを知り、そのおこぼれに授かろうとしたのかもしれませんね。
一豊もかつての主君が来たとあっては無碍にも扱えず、「勢州様(信安)、御堪忍分」として200石を与え、土佐に住まわせます。そして、この地で信安は亡くなったようです。今も、この地にお墓があります。

土佐以外にも、尾張に孫が建立したといわれる墓があります。
この孫がその後どうなったか残念ながら不明で、現代までその血筋が続いているのかまったくわかりません。
中途半端な結論になってしまいました。スイマセン!

ご存知の方、いらっしゃいましたらぜひ教えてください!


・・・では、いよいよ次回、今川との決戦です。お楽しみに!

山内一豊、関連ニュース

戦国時代の地震

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今日は休日出勤だったんですが、夕方の地震びっくりしました〜!
一時建物の外に非難しましたが、私の周辺は特に大きな問題はありませんでした。
休出だから早く帰してくれると思ったのにきっちり定時まで働かされました・・・
まあ、自宅も何事もなくPCも無事でホッとしてます。

ふと戦国時代の地震が気になって、検索してみたらやっぱりインターネットはすごい、詳しく調べてる人がいました。

吉井敏尅さんという方のHP『日本付近のおもな被害地震年代表』を見ると以下のような感じです。

続きを読む

織田家発祥の地

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斯波氏が尾張以外で守護を務めた国に越前国があります。(ちなみにその他、信濃国・遠江国があります)

この地は織田家発祥の地といわれています。

現在の福井県丹生郡織田町(なんと平成17年2月1日 朝日町、宮崎村、越前町及び織田町が合併し、「越前町」となり織田町」は無くなってしまいました。
ホント「平成の大合併」で日本各地、歴史のある地名がどんどんなくなってしまいますね・・・さびしい!)

古くは越前国丹生郡織田荘(「オタ」と読むようです)と呼ばれていました。

現在、大河ドラマ「義経」が放送されていますね。
これに登場する、平重盛(勝村正信)の次男・平資盛(小泉孝太郎)が西国に去った際、都に残った愛妾の一人が男子を産みます。

しかし、平氏一族のため身に危険が及び、都にいることが困難になり、近江国津田に身を隠します。
この地で、この愛妾は村長と再婚し数人の子をもうけます。

ある時、この地に越前劒神社の神官が跡継ぎを求めてやってきます。
そして、このとき貰われていったのが平資盛の子でした。

成人し、神官を継いだこの男子は名を親実とし、織田姓を名乗ります。

1398-9(応永5-6)年頃、この織田親実の八代後の子孫・常昌が越前守護・斯波義将に仕え、その子・義重のとき尾張守護代として織田常昌が派遣されます。

ここに尾張織田家が誕生します。

このため織田信長は平氏の末裔ということらしいです。一時は藤原姓も名乗っていましたが・・・

信長誕生の約130年前の出来事になります。
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■戦国情報ブログ「Sengoku Walker」と統合しました。あらためてよろしくお願いします。


■このブログは専門知識のない管理人が本やネット・テレビ等から得た情報を元に書いています。


■このブログに書かれている内容は一つの説にすぎません。またこのブログで紹介している人物の年齢は基本的に数え年で表記し、推定年齢の人物もいます。ご了承ください。


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