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戦国時代

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諸国漫遊記

ブログで紹介しきれなかった城の写真、公開しました!

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まずは、今年も多くの方の御訪問ありがとうございました!帰省(といっても近くですが・・)のため、今回が年内最後の更新となります。

今年の後半は、「信長の野望」新作にはまったり、ツイッターにはまったり、ただ単にブログを書く気力がわかなかったりで、更新が滞ることが多く、特に「戦国150年史」は情報収集不足で中断したままになってしまい申し訳ありませんでした。

ネットだけでなく図書館でもいろいろ調べたかったんですが近くの図書館は、書籍数が少なくかなりの苦戦で、来年もいつごろ再開できるか未定ですが、他の記事はいつものように“超のんびりペース”で書いていこうと思うので来年もよろしくお願いします!


さて、このブログでも旅行に行くたびに『諸国漫遊記』として写真を公開していましたが、各地で撮る写真は毎回100枚超。まあ、うまく撮れていない写真が大半ですが・・・。

写真の整理の意味も込めて、放置しっぱなしだったホームページで、ごく一部ですが、ブログで紹介しきれなかった写真を公開することにしました。HP自体もまだ中途半端な状態ですが、興味のある方はご覧ください!

 ⇒ 織田 創のHP 『諸国漫遊記』(仮)

では、皆様よいお年をお迎えください!


(更新再開は1月3日予定です。)

“日本最後の城” 福江城

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福江城 (石田城)・大手門今日、ちょっとした事情で写真を整理していたら福江城の写真を発見!そういえば戦国時代とは無関係だったので紹介していなかったな〜と思い今回ご紹介。
一般的には「石田城」と呼んだ方がいいのでしょうか?江戸時代末期の文久3(1863)年、坂本龍馬が勝海舟の下、各地を飛び回っていた頃、完成した日本で最後に作られた(※現代の観光目的の城は除く)福江藩主・五島氏の居城・福江城。
1872年、建物は解体され現在は城域に五島高校や観光資料館・図書館などが建てられています。ちなみに写真は福江城の大手門で、9年前の2000年に撮影したもの。

五島邸・心字が池城内に残る建物として貴重なのが、五島氏30代盛成公の隠居所として建てられた邸宅。安政5(1858)年に作られ、庭園にある“心字が池”は金閣寺の丸池を模したそうで、上から見ると“心”の字に見えるそうです。


武家屋敷の塀福江城の近くには、わずかながら江戸時代初期の武家屋敷跡がありますが、写真は武家屋敷の塀。塀の上に丸い石を積み並べ端はかまぼこ型の石で押えているのが特徴。塀を乗り越えてこようとする敵を撃退する目的があるものと思われます。建物自体は残っていませんが、『福江武家屋敷通りふるさと館』という資料館が武家屋敷跡に作られておりかつての城下町の模型や郷土民芸の実演、写真の展示などがあります。



五島市立図書館“福江城天守閣”と言いたいところですが、実は市立の図書館。当時は福江市でしたが、周辺地域との合併で現在は五島市。富江町・玉之浦町・三井楽町・岐宿町・奈留町の町名が表舞台から消えてしまったのは実に悲しい・・・なぜ?



常灯鼻写真の常灯鼻は灯台ですが、福江城築城時、防波堤の役割も果たすように作られており、かつて海に面していた“海城”である福江城の城壁といってもいいかもしれません。小規模ながらこのような作りは日本の城の中ではまずらしいと思われます。



明人堂天文9(1540)年頃、明の貿易商人・王直はかつて福江を拠点に活動。このお堂に安全を祈願したようです。王直は第17代藩主・五島(当時宇久)盛定公にこの周辺の土地を与えられたようで、唐人町と呼ばれており、当時掘られた六角井戸も近くにあります。ポツンと井戸があるだけなのでさびしい感じですが・・・


福江島・景色1市街地から離れたとある場所。さて、今回なぜ長崎県の五島列島・福江島なのか?というと実は私の故郷・・・といっても両親の代までのことで私自身の生まれは違うんですが・・・
写真の地は代々ご先祖様が暮らした地。ご先祖様は海賊だったという話もあり、この近海を任されていたとも伝わりますが、まあおそらく普通の漁師だったのでしょう?
離島のため戦国時代、天下取りとは無縁の地でしたが、五島列島もそれなりに争いがあったようです。


ちゃんここ型公衆電話おまけ。福江にはチャンココと呼ばれる8月のお盆行事の念仏踊りがありますが、写真はその際に着る衣装をかたどった公衆電話。現在もあるのかは不明です・・・不況のためかこの公衆電話のある商店街はシャッターの閉まっている店が多いとか。

今回ご紹介の史跡の他、五島列島には堂崎天主堂や水之浦教会・井持浦教会ルルドなどキリスト教関係史跡も多く、特に堂崎天主堂は『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』として世界遺産暫定リストに登録されています。

さらに平家の落ち武者伝説のある「六方」や五島氏の祈願寺で狩野永徳の高弟・大坪玄能筆の天井画がある「明星院」などもあります。そして、なんといっても手つかずの自然が多く、きれいな海がありますので釣りやダイビングなど楽しむ方には最高の場所だと思うのでぜひ観光で訪れてみてください!
五島うどんや五島牛・新鮮な魚などおいしい料理も待っています!
・・・と最後は観光PRでしたが、戦国関連史跡はほとんどなし!ウ〜ン・・・


【五島情報サイト】
五島市観光協会
五島市ウェブ

諸国漫遊記 〜熱田神宮・名古屋城編〜

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いよいよ今回の名古屋遠征のご報告最終回です。二日目の雨の中の出陣。雨のため片手での撮影にピンボケの山。うまく撮れていると思いきや雨粒が写り込んだりして散々でしたが、まあ見てやってください。

熱田神宮
まずは、『熱田神宮』です。信長公が桶狭間の合戦の折、戦勝を祈願したことで有名ですね。この熱田神宮から煙の上がる鷲津・丸根の両砦が見えたといわれています。
祈願の最中、神殿の奥から甲冑の音が聞こえ、白鷺飛び立ったとも伝わっています。
信長の演出とも言われていますが、織田軍の士気は大いに上がったことでしょう。

信長塀
桶狭間の合戦に勝利したお礼に信長が寄進した『信長塀』。三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大棟塀と並び日本三大塀と呼ばれているそうです。




大楠
推定樹齢1000年といわれる『大楠』です。桶狭間の合戦が、およそ450年前。ということは、きっとこの楠を信長公も見たことでしょう。この楠は弘法大師が植えたと伝わっているそうです。



名古屋城 (天守閣)
説明無用の『名古屋城天守閣』ですね。
前回、3、4年前に来たときは時間がなく堀の外から眺めるだけでしたが、ようやく入城叶いました。昭和の再建ながら立派でした。外見は・・・内部はまあなんとも・・
この天守閣の前に「本丸御殿」がありましたが現在、再建のための募金を募っており僅かではありますが寄付してきました。いつの日かこの場所に本丸御殿が再建されればと思います。

名古屋城 (戦災焼失前)
天守閣内部に展示してあった焼失前の『名古屋城天守閣』です。第二次大戦の空襲で焼失してしまったのはホントに惜しい思いです。
全国には同じように焼失した城が多くありますが、この名古屋城も焼失しなければ国宝になったのは間違いないでしょう。
ちなみに天守閣の手前に写っているのが「本丸御殿」です。

金鯱 (戦災焼失前)
焼失前の天守閣に輝いていた『金鯱』。なんども盗難にあったため、こんな金網の中に閉じ込められていたんですね。この姿はちょっと・・・しかし、どうやってこの鯱を盗んだのでしょう?










金鯱
現代の『金鯱』。昭和34年に“誕生”した二代目ですが、現代はしてないんですが盗難の心配は・・きっとないですね。



二之丸 (那古野城跡)
現在の『名古屋城二之丸』付近は、信長公が誕生(異説あり)、そして幼くして城主を務めた那古野城がかつて建っていました。やはりこちらの方が信長ファンとしては気になりますね〜。
現在は庭園となっています。


北西隅櫓 (清洲櫓)-1
こちらは『西北隅櫓』別名『清洲櫓』
!?と思われる方も多いかもしれませんが信長ファンとしては気になる名前ですね。実はこの櫓、清洲城の建材を用いて建てられたと伝わっています。現在、清洲城は、城跡の近くに模擬天守が建てられていますが、この櫓のほうが、当時の清洲城の姿に近いのかもしれません??

西北隅櫓(清洲櫓)-2
同じく、『西北隅櫓』ですが、堀の方から見たところです。堀沿いに藤棚が続いていてきれいでいたが雨の為、撮影は断念。お見せできず残念です。






清正の石曳き
徳川期の名古屋城は、慶長14(1609)年に築城されましたが、その中心となったのが加藤清正をはじめ福島正則や前田利光ら豊臣系大名20名でした。豊臣系大名の財力を削ぐ狙いもあったのでしょう。
清正は巨石を運ぶとき、石の上に乗り、石を引く者たちに気合を入れたようです。
その身長は190cm(逆に160cm説もありますが)の大男。石を引く人たちの不満の声が聞こえるような・・・(「重いから降りろよ〜」なんて・・・笑)


清正石
『清正石』と名づけられている巨石です。周りの石と比べてもその大きさがわかると思います。この上に清正は立っていたのでしょうか?しかし、説明を記した立て札には「この付近は黒田長政の持ち場だったので清正石というのは単なる伝説であろう」となっています。
さてその真偽やいかに?!


以上で、今回の名古屋旅行でのご報告終了です。
さて次回はいつどこに行くのやら?いずれにしても天気がいいことを祈るばかりです・・・

諸国漫遊記 〜万松寺・總見寺編〜

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今回は、名古屋旅行二日目に訪れた大須の万松寺總見寺です。雨がパラつく中、“うつけ”と呼ばれていた若き日の信長公の足跡を追ってみました。

万松寺
これは何?と思われる方が多いと思いますが、信長の父・信秀が建立した万松寺です。そう、信長が父・信秀の葬儀で焼香を投げ付けたというエピソードを持つあの万松寺です。
昭和期に戦災で焼失しており現在の建物は再建。
名古屋城築城の際は、加藤清正がこのお寺を宿舎にしたそうです。

なんとアーケード街の中にあるんですね〜。ずらりと商店街が並ぶ中、多くのお客さんがいました。写真撮るのは少々照れましたが、勇気を持ってパシャリッ!
この万松寺へは名古屋市営地下鉄『上前津』(かみまえづ)で下車

織田信秀公 墓碑
信長公の父・信秀公のお墓です。万松寺中央の地下通路?をくぐった所にあります。

お寺の方に入っていいのか確認したところ「どうぞ」ということだったのでカメラ片手に侵入!そこに見知らぬ50前後と思われる男性がついてきました。
どうやら私と同じ信長公のファンのようで、二人異様な空間の中、無言で撮影会・・・怪しい二人でした。



からくり人形 うつけ信長焼香投げ
こちらは万松寺右手奥にある『信長からくり人形』尾張はからくり人形がたくさんあるそうです。まったく知りませんでした。ちなみにこのからくり人形は例の『焼香投げ』のエピソードを再現したもの。投げた瞬間白い煙が出るはずがこの日は雨のためか?不発でした・・・

からくり人形 幸若舞『敦盛』
こちは『焼香投げ』の後、登場する『敦盛』を舞う信長公です。「人間五十年〜」の歌声とともに信長公が舞います。
ちなみにこの『信長からくり人形』は、(たしか)9時から18時の偶数時間に登場奇数時間は『白雪稲荷』になります。見に行かれる方は、時間に注意したほうがいいです。

地元の人は興味がないのか見物人は私一人。夢中になって撮影し終えて振り返ると、いつの間にやら見物人が数十人・・・赤面。

大須・總見寺
万松寺から5分ちょっとだったでしょうか?こちらは『大須の總見寺』。總見寺というと安土のイメージですが、ここにもあるんですね。ちなみにこの大須・總見寺は、信長の次男・信雄がもともと伊勢にあった西明寺を信長の菩提のため清洲に移し、總見寺に改名。慶長16(1611)年に清洲から現在の大須に移築したそうです。

大須・總見寺の門
この日は、門が閉ざされていたため中に入れず・・。普段は開いているのでしょうか?この中には、信長公ゆかりの品が収蔵されており、そのうち肖像画をはじめ9点が県指定文化財になっているそうです。







大須・總見寺の瓦
總見寺の瓦。織田家の家紋『織田木瓜』です。ほっ欲しい・・・写真で我慢します〜

そして今回は、行けませんでしたがこの大須には、若き日の信長を諫めるために切腹して果てたといわれる守役・平手政秀の菩提を弔うために信長が建立した『政秀寺』もあります。また、いつの日か行きたいと思います。


というところで今回はここまで。次回、『熱田神宮』『名古屋城』一挙に公開!!と気合を入れるほどでもありませんが・・・それではまた来週。

諸国漫遊記 〜犬山城編〜

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さてお待たせしました。今回は名古屋旅行初日、桶狭間古戦場の次に訪れた犬山城です。別名「白帝城」と呼ばれる国宝の城の中では最も古いすばらしい城です。

犬山遊園駅からが近いようですが、犬山駅から江戸時代を思わせる古い建物を見ながら城へ向かうのもいいかもしれません。ちなみに私は犬山駅から向かいました。


犬山城-001
犬山城は天文6(1537)年に信長の叔父である織田与次郎信康が築城
主要な部分は戦国当時のままで関ヶ原合戦頃を中心に補強・増築など城郭の整備がされていったようです。

信長死後、天正12(1584)年の羽柴秀吉vs織田信雄・徳川家康連合の小牧長久手合戦では、秀吉が12万の軍勢を率い犬山城に入城。秀吉軍の重要拠点となります。

そして、この犬山城を築いた織田信康公のご子孫である雪姫様が綴っているブログが『物集女街道まっしぐら』です。

武具置き場
模型は犬山城の骨組みですが、両脇に写っている棚は武具置き場です。かつてはこの棚に、甲冑や武器が置かれていたのでしょうか。部屋の広さとしては12畳ほどだったと思いますが、あまり多くの武器は置けなかったかもしれませんね?

犬山城内-001
右手に写る“ゲスト"と比較するとよくわかると思いますが、立派な梁が城内各所に使用され犬山城を支えています。このような立派な造りだからこそ400年以上たった現在もその原形を保ち続けることができるんでしょうね。

犬山城内-002
この部屋は「上段の間」。決して“冗談”ではありません・・・。城主が政務を行った部屋で最上の造りになっているそうです。奥に見える戸の向こう側は「武者隠しの間」で、家臣が待機し、万が一の時には、ここから飛び出し殿様の命を守る役目を負っていました。

犬山城武者走り
武者走り?武者溜まり?ちょっと忘れてしまいましたが、ここを多くの武者たちが行き来したのを想像するとまさに武者震いが・・・



桃型瓦
この瓦は桃がモチーフなのでしょうか?かつて秀吉が鬼門の方角(北東)に鬼瓦の代わりに桃型の瓦を葺いたと聞いたことがあるような・・・鬼を退治した桃太郎から来たんでしょうな?
この瓦が桃なのか、そして鬼門の方角かもわかりませんが、北東に「桃太郎公園」なるものがあります。今回は行きませんでしたが・・・。犬山は桃太郎と何か関係があるのでしょうか??

犬山城天守からの眺め
これは天守から見た西の景色です。遠くに移る山は伊木山(夕暮富士)。手前の川は木曽川です。木曽川といえば鵜飼ですね〜。こちらもまだ見たことがありません。

犬山城天守閣自体はさほど大きくはありませんが、景色は最高ですね。この日は初夏を思わせる暑さでしたが、城内は風がよく通りかなり涼しかったです。



成瀬正成肖像画 (成瀬氏初代城主)
この肖像画は、成瀬氏初代の犬山城主・成瀬正成(なるせまさなり)。他にも11代目までの肖像画(近代の当主は写真)が並んでいました。

犬山城は、なんと平成16年まで成瀬家の所有物だったということで驚きですね。もちろん住んでいた訳ではないようですが・・




小牧山合戦使用鎧
この鎧は、小牧合戦で使用された物だそうです。誰が着用したかは書いてありませんでしたが、初代・成瀬正成が、小牧合戦で初陣したそうなのでそのとき着用したのかもしれませんね?
他にも4領くらい甲冑が展示してありました。






長篠合戦図屏風(部分)
これは『長篠合戦図屏風』です。犬山城とは無関係ですが、偶然にも近くの犬山市文化資料館で特別公開されていました。(普段は公開されていないのでしょうか?)
現物を見るのは初めてで迫力があり、ホントにラッキーでした!
ちなみに、この屏風には成瀬正成の父・正一が描かれています。

そしてこの資料館には、もう一点、初代・成瀬正成が初陣し、本人が描かれている『小牧長久手合戦図屏風』も所蔵されておりこちらも拝見。こちらもすばらしかったです。残念ながら館内撮影禁止(ちなみに長篠の画像はパンフレットからです)だったので写真はありません。申し訳ありません。

この二つの屏風は(財)犬山城白帝文庫が所蔵するものです。リンク先に詳細は確認できませんが雰囲気だけわかる小さな画像があります。そちらでご勘弁を!


以上犬山編でした。次回は信長が父・信秀の葬儀の際、焼香を投げ付けたエピソードの舞台である『万松寺・總見寺編』です。来週公開予定です。

織田創、痴漢で逮捕!?(諸国漫遊記外伝)

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5月2日(水) □□新聞
戦国時代オタクの織田 創こと、●●●(××才)、女性用トイレ侵入の現行犯で逮捕。
覗き目的か?本人は「間違えて入ってしまった」と容疑を否認。

突然ですが、危うくこんな記事が掲載されるかもしれませんでした。

これは先日の名古屋旅行の帰り道での出来事です。

夜行バスでの帰り道、深夜2時過ぎだったでしょうか。トイレ休憩ということで某パーキングエリアに立ち寄りました。

私の前を二人組みの男性、その後ろをもう一人の男性が歩いていました。
三人の男性は次々とトイレに入っていきます。眠い目をこすりながら、私も「ボーッ」とそれにつづきました。

用をたそうと思い入り口付近の男子用便器を見ましたが、子供用で小さい。
これが勘違いの大きな原因になりました。

大人用を探すように4人の男性がキョロキョロ。なぜか個室ばかり・・・?

「なんだここのトイレ、個室ばっかり。地域によっていろいろだな〜」なんて思っていました。

そんな訳ありません!!同じ日本です!



そんな時、ジャーという音とともに個室から人が出てきました。その人と目が合いました。

女性です!!



ハッ!一気に目が覚めました!ここは女性用のトイレでした!
女性は私を見て固まっていましたが、私は謝ることも忘れ慌ててトイレから飛び出しました。

あの時のお姉さん、

ビックリさせてしまいホントにごめんなさい。


このブログは見てないと思いますが、この場を借りて誤ります。ホントにごめんなさい!

今度からはちゃんと自分の目で男女の確認をしてトイレに入ります。

皆さんもトイレ利用の際はぜひ気をつけてください!(こんなヘマは普通しないと思いますが・・・)



さて、戦国時代とまったく無関係の話で申し訳ありませんでした。ちゃんとした『諸国漫遊記』は週末ごとになると思いますが、徐々に更新予定です。そして、『織田信長史』もしばらく更新滞ってしまい申し訳ありません。まもなく再開します。

それではまた来週??

諸国漫遊記 〜桶狭間編〜

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今回は初めて夜行バスを利用しての旅行。地元を深夜に出発。名古屋に到着したのが早朝6時頃。大雑把な計画で名鉄沿線(桶狭間古戦場や犬山城)を攻めようと考えていたので名鉄の一日乗車券を購入。3000円と聞いて躊躇しましたが、買えば気にせずどこでも乗降できるので買ってしまいました。

今回公開するのは、名古屋到着初日の桶狭間古戦場と二日目の鷲津砦・丸根砦・大高城です。

史蹟 桶狭間古戦場
名鉄中京競馬場前で下車。歩いて5分かからなかったと思いますが、念願の『伝桶狭間古戦場跡』に到着。ひっそりとした(早朝のせいか?)公園でしたがそこに桶狭間合戦に関する石碑や看板などが多数設置されていました。


七石表の一
写真は『七石表の一』といわれるもので、看板の説明によると「今川義元が戦死した場所を明示する最も古いもの」だそうで、元々塚があったようですが、明和8(1771)年に建碑されたそうです。既に合戦から二百年以上経過した頃に建てられたんですね。





今川義元公の墓
ご存知のように永禄3(1560)年5月19日、今川義元は討ち死にしたわけですが、この地に塚が建てられていたそうですが、明治9(1876)年有松の住人である山口正義氏が中心になり、この墓を建立したそうです。山口といえば織田家から今川家に寝返った鳴海城の山口教継の名が浮かびますが、その縁者なのでしょうか??





高徳院
桶狭間合戦時、今川義元が本陣を構えたと伝わる高徳院です。

今回、早すぎて中に入れる雰囲気でなかったので入りませんでしたが、中には「今川義元公本陣跡」の碑が建っているようです。以前はここに桶狭間合戦の資料館があったそうですが現在は閉鎖されてしまったそうで残念!


鳴海宿 本陣跡
お気づきのように桶狭間合戦とは関係ありません。東海道五十三次の宿場があったところで、この本陣は特に大名や公家などの身分の高い人たちが宿泊した場所です。

『鳴海』と聞いて思わず飛び降りてしまい、調べもせずにウロチョロ。『鳴海城跡』に行くつもりが『鳴海宿本陣』に辿りついてしまいました。どうやら通りを一本間違えたようです・・・


鷲津砦公園
かつて織田軍と今川軍が激戦を繰り広げた鷲津砦も今は子供たちが楽しむ公園になっていました。
この日は、雨だったせいか誰もいませんでした・・・



鷲津砦跡
合戦当日は、織田玄蕃(秀敏)が数百の手勢で、今川方の朝比奈泰朝軍2500を迎え撃ち壊滅。

大高の駅から数分と近いですが、標高数十メートルの小高い丘。思ったよりきつく、息切れしました〜。合戦当時は当然道も整備されていなかったと思われ、甲冑の重みも考えると攻める今川軍も意外と苦戦したのでは?と想像してしまいます。




丸根砦 戦没者慰霊碑
合戦当日は、佐久間大学(盛重)が、大高城救援に向かった松平元康(徳川家康)2000を迎え撃ち壊滅。
その合戦で命を落とした兵の慰霊碑です。
なぜか丸根砦跡だけに建立されています。


丸根砦跡
鷲津砦から約850メートル。途中、丸根橋というのが架かっているんですが、その周辺はかつて橋のない谷間だったと思われます。

鷲津・丸根両砦は、今川方の大高城・鳴海城の連携を絶つため作られ合戦当日は真っ先に攻撃の対象になりましたが、この両砦を攻めた今川軍もかなり被害を受けたようです。




大高城跡
合戦当時、今川方の鵜殿長照が約2000の兵で守備していました。松平元康は、今川軍の先方として参陣。
丸根砦を攻略し、大高城に兵糧を運び入れる活躍をします。

しかしこの直後、今川義元は、織田軍の攻撃により討ち死に。休息していた元康は一転、退却を余儀なくされる事になります。

写真は『大高城跡』の石碑です。


大高城跡公園
大高城跡公園は鷲津・丸根と駅を挟んで向かいにあり、間に川が流れています。小高い丘になっていてすぐにその場所はわかりますが、入り口が見当たりませんでした。周辺をグルグルかなり迷った末にようやく発見。

JR所有の空き地と廃墟となっている家の間の細い道を抜けたところにありました。もっとわかりやすい案内板を設置してもらいたいです・・・
公園として整備したのか、かつて城郭の一部であったためか不明ですが、意外と広い平地が数箇所確認できました。


さてお気付きの方も居ると思いますが、今回、もう一つの桶狭間古戦場伝承地・田楽坪の『桶狭間古戦場公園』『善照寺砦』『中島砦』『戦人塚』など下調べが不十分で、時間的関係もあり行かなかった場所がたくさんあります。また次回(いつになるやら・・)の楽しみにしたいと思います。

無事帰国しました!

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犬山城-1
今朝、無事名古屋より帰ってまいりました!強行スケジュールの上、天気もハード。初日は初夏を思わせる陽気で汗・汗・汗。二日目は、雨の上風もやや強く、寒く感じる天候で相変わらずの雨男っぷりを発揮??してきました(笑)

現地からケータイで投降しようと思っていたんですが、モバイル設定が変わってしまったのか送信できず断念。速報をお届けする事ができませんでした。
また留守中コメントしてくださった、龍華成様・勘兵衛様・春秋様、返信できず申し訳ありませんでした!


今回は初日、桶狭間・鳴海・犬山城。二日目は、名古屋城・万松寺・總見寺・熱田神宮・鷲津・丸根・大高へ“出陣”。なんとなく桶狭間合戦旅行になってしまいました。

各地での戦果(写真)約250枚
デジカメだとついつい撮りすぎてしまいます。(それもしょうもない写真ばかり・・・)

また後日改めて、写真&記事、掲載したいと思います。
取り合えず、帰国の報告でした。それではあまり期待せずに更新お待ちください。

諸国漫遊記 〜京都編〜

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さて今回、ついに3月のに行った旅行記完結編です。もう2ヶ月も経ってしまったんですね〜。報告遅くなりスイマセン!最後にふさわしく?『京都編』です。
信長公が天下統一の夢と野望を抱いて駆け巡りそしてその生涯を閉じた京都です。


本能寺・正門
長年の夢であった『本能寺』。ようやく行くことができました!意外と街中にあり驚き。
ご存知のように、この本能寺は再建であり場所も本能寺の変があった時と変わっていますが、なんと1415年に建立されてから現在に至るまでに焼失や破却が六度もあり場所も五ヶ所移転していたんですね。知りませんでした。


合祀墓
こちら本能寺の信長公及び共に討ち死にした家臣たちの『合祀墓』です。安土では遠慮してしまい撮影しませんでしたが、この時は後悔しないように撮影。この日はお彼岸でもありお花も供えてきました。



本能寺の変・戦没家臣名
こちらは『合祀墓の脇の立て札』のアップです。この立て札には本能寺の変で信長公を守って奮戦した家臣の名前が記されています。
森蘭丸やその兄弟をはじめ百名ほどの名が記されています。織田信忠の名前も記されているので、本能寺だけではなく二条御所での戦死者も含まれているようです。


信長公所用鎧(複製)
こちら本能寺の敷地内にある『大寶殿宝物館』に展示してある信長公所用の甲冑のレプリカです。
この日は「信長展」と称し信長公所有の茶道具や肖像画・書状等が展示してあったんですが残念ながら撮影禁止。撮影可能だったのがこのレプリカの甲冑のみでした。
小スペースながら展示されていたのは50点近くあり、なかなか見ごたえがありました。
有名な香炉「三足の蛙」見てきました!写真しか見たことがなかったので小さいイメージでしたが意外と大きかったです。
茶道具や刀は実際に信長公が触れたと思うと触ってみたい気がしたんですが当然ながらケースの中・・・残念!


本能寺跡の碑-1
こちらはよく雑誌等で紹介される『本能寺跡の碑』。ここが実際に信長公が最後を迎えた地です。十年ほど前までは小学校でしたが現在は老人福祉施設になっています。

信長公はどのような思い出その最後を迎えたのだろうと想像したら、ここに来た喜びと共に複雑な思いがよぎりました・・・

当時、本能寺は寺というよりは小規模な砦のようになっていたという話もありますが、それにしてもあまりにも率いた家臣が少なすぎましたね。光秀以外にも信長公の命を狙っていたものは多かったはずなのに・・・
信長公の人生最大の不覚でしたね。


本能寺跡の碑-2
こちらも同じく『本能寺跡の碑』です。別の通りに建てられた新しい碑だと思います。
写真では読めませんが、本能寺の創建から本能寺の変にいたるまでの略歴が書かれています。







阿弥陀寺・正門
こちらは信長公の遺骨が埋葬されているという噂のある『阿弥陀寺』です。本能寺の変の時、信長公と親交のあった阿弥陀寺の住職・清玉とその弟子が戦いのさなか、本能寺の敷地に潜り込み信長の家臣から信長公の遺骸を引き取り、その場で火葬し遺骨を阿弥陀寺に運び埋葬したと伝えられています。この清玉という人は変後、再び本能寺へ訪れ弟子と共にその他の遺骨も拾い集め丁重に埋葬したといわれています。真偽のほどは定かではありません。


建勲神社・本殿
こちら信長公が祭神として祀られている『建勲神社』です。ちょっとした小高い丘のひっそりとした雰囲気の場所に建っています。もとは山形・天童藩(信雄の子孫が藩主)に建立されていたものを明治になって京都に移築したそうです。ここには当ブログで最も参考にしている太田牛一自筆の『信長公記』が社宝として所蔵されています。展示スペースとかあるものと思って楽しみにしていたんですが残念ながら特別な時しか見られないようです。


三条大橋
こちらは信長公とは無関係の『三条大橋』です。京都で宿泊したホテルの近くにあったので行ってみました。ホテルから橋に向かう途中、幕末の大事件である『池田屋騒動の碑』がひっそりと立っていました。人通りが多かったので写真は撮りませんでした。幕末ファンの方ゴメンナサイ!

「京・三条大橋」といえば東海道五十三次のスタート地点。ここから東に492.8kmで「江戸・日本橋」にたどり着く。西国の大名が参勤交代のときこの道を何度も往復したんですね。

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※武士童様のご指摘によると『参勤交代の時は、伏見から山科へ抜けたらしいです。理由は、簡単で幕府が他の西国大名と朝廷の癒着を恐れたのです。(長州を除く)』ということでした。
早速調べてみたところご指摘の通り三条大橋は渡っていないと判明しました!記事、間違っていました〜皆様申し訳ありません!
今後も誤った記述に気付かれた方はぜひご指摘ください。よろしくお願いします!
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私は今回の旅で東海道線にて往復。片道7〜8時間位だったと思いますが、当時の人たちは何十日(藩によっては何百日)もかけて往復したと思うと便利な世の中になったな〜と実感します。

これで今回の旅日記は終了ですが、信長公関連の史跡だけでもまだまだ行っていないところが数え切れないくらいあります。出来れば年内に再びチャレンジしたいと思いますがどうなることやら・・・

諸国漫遊記 〜安土編 其の三〜

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さてかなり遅くなってしまいましたが、旅行記・安土編三回目です。
今回は二日目(06.3.19)に訪れた『安土城考古博物館』と『信長の館』の写真です。安土城跡から歩くと麓から10分くらいでしょうか?安土駅からだと歩きで25〜30分位で着くと思います。
着いた直後は一時雪に降られ、その後は晴れたり雨が降ったりと複雑な天気でしたが、室内だったのでゆっくり見物できました。

安土城天主閣(推定復元)
これは有名な『安土城天主閣』の原寸大推定復元ですね。1992年にスペインで開催された万博に日本館のメインとして出展されたもの。
ちなみに5・6階部分の復元です。
一応文献から推定して作ったようですが、ここまでキンキラだったのか、個人的には疑問です。
最近の発掘調査で、天主の構造もやや考え方が変わってきているようです。


安土城天主閣内部
これは『天主閣の内部』。これも文献にしたがって復元したものです。安土城の障壁画は、当時、超一流の画家であった狩野永徳が中心になって描いたといわれています。実際の絵は焼失してしまい不明ですが題材としては復元された通りのようです。

天主閣の周りに階段があるので間近で障壁画を見ることが出来ます。


金箔瓦
これは、発掘調査によって出土した『安土城の瓦』です。わずかではありますが金箔が施されていた跡が残っていました。写真では確認できませんが・・・スイマセン!
これ以外にも発掘調査では部分的に金箔が施されていることが確認できるシャチホコや真っ赤に焼けた跡が残る大量の瓦が発見されています。


信長肖像画(写実画)
これは、このブログでも初期のプロフィール画像として使用していた、『信長公の肖像画』です。
一見、写真のようにも見えますが、これは当時の宣教師が写実的に描いたとされるもので、天童藩の織田家に代々伝わっているものです。

ちなみに展示されていたのは、以前、日本テレビ「知ってるつもり?!」で使用されたパネルを譲り受けたものだそうです。私も欲しかった・・・(笑)



文芸の郷 信長の館
これは『信長の館』。この中に上で紹介した安土城の天主閣が入っています・・・というか天主の復元しかない(といったら言い過ぎか?!)
正直、ちょっと期待はずれでした・・・


県立安土城考古博物館
こちらは『安土城考古博物館』。滋賀県を中心とした弥生時代や古墳時代などの遺跡の紹介や遺物の展示があります。そしてもちろん安土城から出土した遺物も展示されています。安土城の発掘調査状況や復元CGのビデオを鑑賞できたり、復元ミニチュアも精巧で欲しくなってしまいます。
さらに信長に関する書籍(発掘の報告書や雑誌など)が大量にあり閲覧できるので、信長について調べたい方は行く価値があると思います。(私も近ければ毎日通いた!)
信長ファンには最高のおすすめスポットです!(ちょっと言い過ぎかな〜?)
残念ながら撮影禁止。ぜひ行って見てください!

文芸の郷 文芸セミナリヨ
これは『文芸セミナリヨ』。文化交流などのコミュニケーション施設のようです。あまり興味がわかなかったのでスルーしてしまいました。
いったい中には何があるのでしょう?やっぱり入っておくべきだったか?!

今回写真は撮りませんでしたが、他にも『文芸の郷レストラン』というお食事処があります。まあ、正確には食堂というべきでしょうか?ここで『信長うどん』を食べてきました!といっても特に信長とは関係がなく、餅やシイタケなどが入っている、ちょっとボリュームのある“力うどん”でした。
でもそのパワーのおかげ?!で、このときWBC韓国戦を見ていたんですが(古い話題ですが・・・)、福留が見事、先制ツーラン(でしたっけ?)打ったんですね〜。
信長パワー恐るべし?!

以上、しょうもない話で「安土編」は終わりです。
次回、諸国漫遊記は「京都編」をお伝えしたいと思います。信長公が最後を迎えた本能寺も掲載します!

諸国漫遊記 〜安土編 其の二〜

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さて今回は旅行記安土編其の二ですが、二日目の『考古博物館』と『信長の館』は次回ということで、三日目に訪れた安土城跡・百々橋口を公開したいと思います。

京都からまっすぐ帰るつもりだったんですが車内の「次は安土」というアナウンスにまた安土城跡に行きたいという思いに駆られ夕方5時頃なのに飛び降りてしまいました。いや〜「青春18きっぷ」って便利ですね〜乗り降り自由はすばらしい!(笑)

歩いて安土城に向かっていては陽が暮れてしまうと思い、この日は駅前のレンタサイクルを利用。ちなみに料金¥500。大荷物はロッカーに預け(¥300)、カメラのみ持ってソッコーで安土城に・・・と行きたいところ、レンタサイクルの親切なオジさんがいろいろな独自の史料を持ってきてくれ説明をしてくれました。
「あ〜わかったから史料だけ頂戴!」と心の中で思いつつ説明を聞いていざ出陣!

安土駅前の信長公像
安土駅前に立つ信長公。信長公が指し示す方向に安土城は・・・ありません!あるのはお土産屋さんとお食事処。
そこのお土産屋さんで「安土城 信長」というこの店限定のお酒とキーホルダー2個を購入。安土城のキーホルダーを2個買ったつもりが、1個はなんと観音正寺のもの・・・。安土城の方は弟への土産。もうひとつは自分の手元に・・ハ〜(涙)

ちなみに安土城跡は右の方になります。


安土城跡・百々橋口
この日は大手道を通過してその西側にある百々橋口道へ向かいました。レンタサイクルのオジさんの情報で旧宛寺跡から見る琵琶湖がきれいとのこと。日暮れ間近、サイコーの景色を想像してチャリンコ飛ばしました。
この百々橋口道は通用口として一般の人たちが主に使ったと道とされています。大手道に比べはるかに狭く幅は3mくらいだったと思います。もう記憶が薄れてきてる・・・
ちなみにこの百々橋口から琵琶湖方面に安土の城下町が広がっています。


安土城跡・百々橋口(奥)
いざ百々橋口を登り始めるとすぐに行き止まりに!現在通行禁止になっていました〜!!宛寺跡を見ることが出来ませんでした。ついでに信長公も見たであろうサイコーの景色のはずの琵琶湖の夕焼けも・・・(涙)
ちなみにこの道をまっすぐ進むと大手道につながっていてその交差点?あたりに信忠公の屋敷があったとされています。


石部神社
百々橋口のすぐ脇にある石部神社です。信長公との関係はないのかもしれませんが、かつてはこの敷地も宛寺の一角であったと思われます。




安土から見える琵琶湖
この写真は石部神社の敷地内から見える琵琶湖を撮ったものなんですが分かりますか?遠くに見える山の麓あたりにわずかに琵琶湖が写っています。ちなみに手前の町がかつて城下町だった所です。



安土城跡・麓の現状
これは、大手道付近の現在(06.3.20)の様子です。調査を終え、修復作業をしている最中だと思います。かなりの重労働と思われますが、怪我のないよう元の状態に戻していただきたいですね。



繖山(観音寺山)
この写真は安土山の東側にある繖山(きぬがさやま?かさやま?)ですが、観音寺山と言ったほうが分かりやすいかもしれませんね。かつて信長公が足利義昭を奉じて上洛した際、抵抗をした六角氏の居城・観音寺城があった山です。観音寺城は正確には安土城の南東方向にあります。
かなり分かりづらいと思いますが山の麓、左側の水色の建物とさらにその左の建物が『考古博物館』と『信長の館』になります。次回あらためて紹介します。


安土山と夕日
これは見学を終え、駅に向かう途中見納めのつもりで見た安土山(の西側)。ちょうど陽が沈み始め慌ててカメラを用意。
信長公が別れの挨拶をしてくれているような気持ちになりました。ほとんどビョーキですね(笑)

いつの日か晴れた日に再び天主跡を目指して歩きと思います。

諸国漫遊記 〜安土編 其の一〜

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お待たせしました。久々の旅行での写真公開です。ずいぶん前に行った気がしますがまだ一ヶ月たっていないのかと思うと不思議な感じです。

本日は公開するのは、この旅の最大の目的であった安土城です。結局、三日連続で安土に行ってしまいましたが、今回は初日あいにくの雨の中で撮影した大手筋から天主跡の写真です。

安土山
安土駅から安土山麓まで歩いて25分前後で到着。駅前にはレンタサイクル(¥500)があるのでそれを利用すれば15分程度で到着です。あいにくの雨・・・歩いて城跡へ。安土山が見えたときは感動ものでした!
写真には写っていませんが右手の方角に六角氏の居城があった観音寺山があります。

安土城が焼失しなければ山頂写真中央の平坦なところに天主があったものと思われます。ホント残念です。


大手道
この写真は安土城の大手道。よく紹介されるアングルですね〜。いよいよ天主跡目指して歩くわけですが一段一段が高くて歩きづらい・・・さすが本物の城です。
天主に向かって幅の広いまっすぐの道が続いているため天皇を迎えるための道ではないかといわれていますが、道の両脇にはこの道を見下ろす形で家臣たちの屋敷もあり、この道自体も途中から大きく曲がり急になっていることから、天皇を迎えた道かどうか疑問視されているようです。ちなみに南側登城口とも呼ばれているようです。


伝羽柴秀吉邸跡-1
上り始めて最初に目にするのは右手に見える伝前田利家邸だと思いますが、その斜め向かいに位置するのが伝羽柴秀吉邸跡です。いずれも伝聞なのではっきりしたことは分からないようです。一部には安土築城当時の秀吉と利家の地位を考えると同格の屋敷があるのは不自然との意見もあるようです。


伝羽柴秀吉邸跡-2
これ羽柴邸跡の礎石群です。この石の上にそれぞれ柱が立っていたものと思われます。写真で全面が赤っぽくなっているのが分かるでしょうか?これは焦土なんですが、安土城が焼け落ちた証です。発掘当時はもっと赤かったかもしれませんね。伝二の丸付近では焼け落ちた大量の天主の瓦が見つかっています。
※伝秀吉邸跡は、盛り土して本物の上にレプリカの礎石が置いてあるそうです。赤い土も焦土ではなく、調査では焼け跡は確認されていないそうです。誤った情報申し訳ありませんでした。k2様ご指摘有難うございました。


石仏
安土城築城に周辺から大量の石が切り出されましたが、それと同時に墓石や石仏も大量に使用されたという話がありましたが、大手道でも写真のような石仏が所々で発見されていました。実際に目にしてあらためて驚きました。ホントに使っていたんだな〜

私の前を歩いていた家族の一人・高校生くらいの男の子が気づかずに石仏を踏んでしまいお母さんに怒られていました。ちなみに中学生くらいの女の子もいましたがしきりにお父さんに質問していたようです。写真を撮るのに邪魔だな〜と思いつつ、こんな子がいるとは信長公のファン層の幅広さにうれしく思いました!


伝織田信忠邸跡
天主の南西で西からの百々橋(どどばし)口道と大手道が交差するあたりにある伝織田信忠邸跡。重要な地点に有りますが意外と敷地が狭いような気がしました。石垣などもはっきりしていませんでしたがまだ調査されていないんでしょうか?
※伝信忠邸跡は江戸時代総見寺の畑として使われていたようで発掘調査では何も確認されなかったそうです。k2様情報有難うございます。


伝武井夕庵邸跡
信忠邸の向かいにある伝武井夕庵邸跡。武井夕庵はあまり有名ではありませんが、信長の右筆なんですが、信忠と同格の屋敷を構えていたということは、かなりの内政面では重要な家臣だったのでしょうか?


宛寺
宛寺は1855(嘉永7)年に焼失し、その後現在の場所に再建されたものですが、創建当時は西の百々橋口道の中央に建っていました。宣教師フロイスの記録では、この宛寺は信長公自身が祭神となり毎年誕生日を聖なる日として参拝するよう諸国に命じたとされていますが、建立の実際の目的は不明とされています。ちなみにこれとは別に秀吉が伝二の丸跡に信長公のお墓(信長廟)を築いています。お墓参りしてきましたが、写真は控えさせていただきました。しかし、今思えば撮っておくべきでした・・後悔!


安土城天主跡
ここに本来なら豪華絢爛な天主がたっていたんですね〜。未だその形がどのようなものであったか不明ですが、安土屏風が見つかればある程度はっきりするんですけどね。可能性はかなり低いみたいですね・・・。
ちなみに宇喜多秀家が1590年に完成させた岡山城が安土城を模して築かれたそうですが、これも残念ながら第二次大戦で焼失してしまい写真が残るのみとなってしまっています。かえすがえすも残念です。現在の天守は昭和41年の復元。


天主跡の解説
天主台にある解説ですがほとんど読めませんね〜雰囲気だけ感じてください。スイマセン!

安土編まだまだ続きますが、早くても来週になるかもしれませんしばらくお待ちください!

諸国漫遊記 〜彦根編〜

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彦根城・天守
まずはご存知、国宝に指定されている『彦根城の天守閣』です。三層三階の天守は京極高次が築いた大津城から移築されたといわれ1606(慶長11)年に完成したそうです。ちなみに国宝になっている城は他に犬山城・姫路城・松本城です。


彦根城・天守閣正面
これは天守閣を正面から撮影したものです。右下の方が不自然に見えるかもしれませんが、人が写っていたのでフォトショで修正しました。ちなみに心霊ではありません(笑)

今頃は、この周辺に植えられている桜が満開なのでしょうか?
4月1日〜20日は桜まつり。1300本も桜の木があるそうです。見たかったな〜



佐和口多聞櫓
彦根駅から向かった場合、順番的に最初に通るのがこの佐和口多聞櫓だと思います。左側に松の木が見えると思いますが、これは『いろは松』と呼ばれ観光のひとつの名所のようです。この櫓に向かうまで松並木が続いています。写真撮る余裕がありませんでしたスイマセン!

馬屋
この地味な建物は元禄期に建てられた『馬屋』です。ちなみに重要文化財に指定されている建物。常に藩主のための馬が十数頭つながれていたそうです。城内に馬屋が残っているのは彦根城だけということです。


天秤櫓
この写真、撮り方失敗しました。正面からとるべきでした。『天秤櫓』といわれる重要文化財ですが、この写真では橋を中心とした左右対称の櫓がわかりませんね〜。せっかくすばらしい設計なのにスイマセン!


彦根城・階段
さて城内潜入ですがさすがに近年の観光用ではない本物の城、階段がすごい急角度。写真では分かりづらいでしょうか?現在は手すりをつけていますが、当時は昇り降りが大変だったことと思われます。攻め込まれても一気に敵が集団で上ってこられない設計に戦国の世の智恵を感じます。


武者溜り
この写真、一見何の変哲もない廊下に見えますが『武者溜まり』といわれる場所。外側の壁には鉄砲狭間や矢狭間(三角や四角の小窓)がいくつもあります。彦根城自体は大きな戦いは経験していないと思いますが、大津城からの移築だとするとこの「武者溜まり」に鉄砲や弓を持った武者たちが命を懸けて駆け巡ったのかな〜と想像するとちょっと身震いする気がします。


西の丸三重櫓
この建物は『西の丸三重櫓』・・・だったはずです。もし違っていたらスイマセン!雨が強くなってきたので慌てて“撤退”しながらの撮影でじっくり見ていることが出来ませんでした。ちなみに西の丸三重櫓も重要文化財に指定されています。


井伊家伝来甲冑
今回、最初に入ったのが実は『彦根城博物館』。同じ敷地内に有り井伊家の甲冑や古文書などが展示されています。フラッシュを使わなければ撮影可ということでしたが、私の未熟な腕では暗がりで写すのは困難を極め、ピンボケのヤマ。スイマセン!そんな中、まあまあ見れるのがこの甲冑です。何代目藩主の甲冑か忘れてしまいましたが、この隣にも同様の甲冑があり井伊家は代々このデザインの甲冑を着用したのでしょうか?しかし、この立物(兜の角)は大きいですよね〜。合戦の時、動きづらそうですが、そうでもないんでしょうか?

以上、彦根編の写真公開はこれだけですが、他にも何枚か撮影していますので、機会があれば公開していきたいと思います。

諸国漫遊記 〜岐阜編 其の二〜

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さて今回は岐阜城内に潜入!内部は資料展示室になっています。岐阜城(稲葉山城)に関係のある史料が充実しています。ただ複製というのも多くて残念なところもありますが、それでも見る価値は十分ありました!

写真撮影OKでうれしかったんですが、ガラスケース内に展示されているため蛍光灯やライトが写り込み見栄えはよくないですがご容赦ください!


二階堂氏肖像画
入場すると真っ先に目に付くのがこの肖像画でしょうか?
誰かと思い近づいてみると、岐阜城の前身・稲葉山城の創建者・二階堂氏でした。下の名前忘れてしまいました。申し訳ありません!







織田信長木像
ご存知、信長公の木像です。しかし、ホント蛍光灯消してください!と言いたくなるくらい光が映りこんでしまっています。こういう場合の対処法はないんでしょうか?



織田信忠
これも有名な信忠公の肖像画ですね。連載中の『織田信長史』でも間もなく家督を継ぎ、岐阜城を与えられます。
まあ、実権は信長が握っていましたけどね〜
父親があまりにも偉大すぎて気の毒な気がしますね。
茶道にはまりすぎて信長に茶道具を没収され、親子喧嘩になったというエピソードがありますが、信長とけんか(といっても殴り合いはしていないと思いますが)する度胸があるとは、信忠もなかなかの男のような気がします。


織田秀信
この肖像画は岐阜・織田氏最後の城主で信長の孫・秀信公です。本能寺の変で難を逃れたものの、その後は政治的に利用されて1610(慶長10)年、高野山で若干26歳で亡くなってしまい悲運の人生でしたね・・・思えば父信忠も26歳で亡くなっていますね。

今回の旅行で秀信にちょっと興味がわいてきてしまいました。
これからいろいろ調べてみようかな〜と思います。



織田秀信所用兜
秀信公所用の兜です。関が原合戦の折、当時16歳だった秀信。初陣で、どの鎧兜を身に着けようか迷っている間に戦況が不利になってしまったというエピソードもありますが、悩んだ挙句選んだのがこの兜なのでしょうか??真偽は不明ですが意外と地味な兜ですね〜






『天下布武』印
ご存知『天下布武』の印章です。稲葉山城を攻略し、岐阜城と改め、この『天下布武』印章を使い始めた信長ですが、この『天下布武』の意味はいろいろと解釈があるようですね。「武力を持って天下を治める」という解釈が一般的なようですが、『布武』とは中国では人の歩き方・姿勢を示す言葉だそうです。これは方針と考えてもいいと思います。そんなことから『天下布武』は信長は「これから天下統一を目指す!」といった目標を掲げたものではないかと個人的には思います。尚、この『天下布武』の印章は少なくとも4種類あるそうです。
写真は残念ながらレプリカです。

竹中半兵衛考案・一の谷兜
これは竹中半兵衛が考案したとされる「一の谷兜」です。他にも日根野弘就考案の兜など多数展示してありました。もちろん鎧やその他馬具や武器等も展示してありましたが、また機会をあらためて写真はアップしていきたいと思います。

諸国漫遊記 〜岐阜編 其の一〜

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大変長らくお待たせしました!ようやく今回の旅行で撮った写真を公開できる日が来ました〜。今回、250枚も撮影しながらイマイチの写真ばかり・・・そこそこ見れる写真をピックアップしてお届けしたいと思います。




『岐阜公園歴史博物館前』バス停
すべてはこの一枚から始まりました。バス停からいきなり岐阜城が見えました。わかりづらいと思いますが山頂左側に小さく岐阜城が見えます。

なお、岐阜城へは岐阜駅前のバスロータリー「E乗り場11番」長良鷺山行きバスに乗車。10〜15分くらいだったかな?料金は¥200(片道)






岐阜城・遠景
これはよく見るアングルの岐阜城です。なんかロケットのようにも見えてしまうのは私だけ?よくあんなところに城を建てたな〜





一豊と千代
金華山麓の公園を歩いていくといきなり目に付いたのがこの碑。
今年の大河の主役が山内一豊と千代なのでしょうがないところですね。写真だけ撮って早々に退散!一豊ファンの方ゴメンナサイ!詳細ありません・・・








水の手口
ロープウェイ発射時刻まで少々時間があったので公園内をウロチョロ。
金華山登山道「めい想の小経」なるものを発見。別名を「水ノ手口」と呼ぶそうで、関が原の合戦の時、信長の嫡孫・織田秀信が守る岐阜城を東軍・池田輝政の軍が攻めますが、この「水ノ手口」を守る斎藤助十郎・斎宮を破りこの道を進み岐阜城に一番乗りを果たしたそうです。織田秀信は降伏し高野山へ送られてしまいます。
これにより岐阜・織田家は滅亡となります。

ちなみにこの「水ノ手口」から山頂までは現在、距離2300m(標高ではありません!)、徒歩で50分だそうです。
私はもちろんロープウェイ使いました(笑)


岐阜城
ロープウェイで一気に山頂まで!ちなみに料金¥1050(往復)片道だけ買うことも可。山頂までは5分もかかりませんでしたが、その間ガイドのお姉さんが解説をしてくれました・・・・が景色に見とれていた私はまったく聞いていませんでした!お姉さんゴメンナサイ!

この天守自体は再建のため当時の面影はありませんが、間近で見るとなかなかの迫力です。天守の近くに当時の井戸(といっても溜めた水をくみ上げる形式のもの)がありましたが、大きさは2.5×1mくらいだったでしょうか?深さは不明でしたが、山頂にあるうえ、この金華山は山全体がひとつの岩のようなもので、水の確保は大変だったようです。貯水式の井戸が数箇所あるそうです。写真撮ろうと思ったんですが、金網が張っていて狭いスペースのため撮影してもなんだかわからないものになってしまったのであきらめました。撮影技術を上げなくては・・・


長良川
岐阜城天守から見た長良川です。かつてこの周辺で斎藤道三と息子・義龍が激戦を繰り広げたんだな〜と思うと感慨深いものがあります。

天守への入城料は¥200。天守内部は展示室になっています。次回、展示品の写真公開予定です!乞うご期待!・・・と言いたいところですがあまり期待しないでください!

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