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信長死後の織田家

関ヶ原合戦時の織田家

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oda-kamon-04関ヶ原の合戦が、慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)にあったのにちなんで、毎年今の時期に「関ヶ原合戦祭り」が開催されていますね。今年も今日と明日の二日間開催ということで現地はきっと盛り上がっていますね。うらやましいです・・・

さて、このブログは主に織田信長を取り上げていますが、今回は関ヶ原合戦時の織田家の動向について書いてみようと思います。続きを読む

信長の葬儀 〜秀吉の野望〜

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天正10(1582)年6月27日の清洲会議直後?(直前説など他説あり)、柴田勝家は信長の妹・お市を娶ります。これは従来、織田信孝が勝家を自分の陣営に取り込むため仲介したという説でしたが、近年羽柴秀吉が仲介したことをうかがわせる書状が見つかったそうです。これが事実だとすると秀吉の勝家懐柔の策だったかもしれません。

7月3日、信孝は本能寺の焼け跡で収集した多くの遺骨や信長の太刀を廟に納め、本能寺を信長の墓所と定めます。信長の遺骨と断定できるものは見つかっていませんが、この中に信長の遺骨の一部が含まれているかもしれません。

また、本能寺の変直後にも信長と親交のあった阿弥陀寺の清玉上人が信長の家臣が信長の遺体を火葬しているところに遭遇し、家臣から遺骨を託され阿弥陀寺に埋葬したという説もあります。この話自体は真偽不明ですが、清玉上人は変直後、明智光秀の許しを得て本能寺の焼け跡で多くの遺骨を収集し阿弥陀寺に埋葬したそうなのでこの中に信長の遺骨も含まれていた可能性は高いかもしれません。
この時、阿弥陀寺で行われた法要で信長の法名は「天徳院殿」とされます。

8日、秀吉は新たに所領となった山城国の検地を実施。京の公家などの有力者は次の天下人は秀吉とみて次々挨拶に訪れていたようで、秀吉自身もその野望実現のため動き出します。

織田家中では主導権争いが激化。美濃を領国とした信孝と尾張を領国とした織田信雄が領国の分岐点を国の境でわけるか、川を境とするかで対立。織田家臣不在となった甲斐・信濃には徳川家康が軍をすすめ、敵対行動に出てきた北条氏や上杉氏などから織田家の所領を守るという口実で事実上占拠。

岐阜の信孝のもとにいた三法師の安土城入りも、秀吉の動きを警戒し三法師を手元に置いておきたい信孝や勝家の引き伸ばし策や丹羽長秀の安土城普請の遅れなどもあり実現しないまま時は流れます。

こうした混乱により信長の正式な法要は営まれないまま9月を迎えます。
9月11日、妙心寺で勝家やお市などが主催し百日忌が営まれます。この時の法名は「天徳院殿龍厳雲公大居士」で清玉上人が命名した「天徳院殿」の流れを汲むものでした。

12日、一方の秀吉は養子としていた信長の四男・秀勝を立て大徳寺で同じく百日忌を行い、この時命名された法名は「惣見院殿(総見院殿)」。

秀吉は当初、阿弥陀寺にて葬儀を行いたいと清玉上人に申し入れていましたが、すでに法要は済んでいるとして拒否。秀吉は法事料など三百石を進呈するのでお願いしたいと粘りますがこれも拒絶。秀吉は断念して大徳寺で百日忌を行い大徳寺内に惣見院を建立。

10月8日、秀吉の要請により信長に従一位太政大臣が追贈。

9日、この日から京の町は秀吉派の武将により厳重に警護されます。

13日、播磨から秀吉が上洛。

14日、丹波から秀勝が上洛。

15日、秀吉の弟・羽柴秀長を筆頭とした1万もの兵が警護する中、信長の葬儀は実施されます。
秀吉は二体の信長の木像を造り、一体を棺に納め、棺の前を池田恒興の嫡子・輝政が後ろを秀勝が担ぎます。そして、位牌は信長の十男・信好(当時9歳?)、太刀を秀吉が担ぎ3000人の葬列がつづきます。この時棺に入れられた木像は荼毘に付され、もう1体は寺に安置されます。

ちなみに安土城の伝二の丸にある信長廟は天正11(1583)年、信長の一周忌の法要後に秀吉が信長の太刀や烏帽子などを納め建立された廟所になります。

秀吉は、信長の葬儀を行うことにより信長後継者は自分であることを事実上宣言し、織田家は完全に分裂。秀吉は翌年、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り滅亡させ、信雄を利用し信孝を自害に追い込み、さらに信雄や家康との対立に勝利すると一気に天下統一を成し遂げ、「天下人・豊臣秀吉」となりその野望を実現します。

清洲会議 〜信長後継の決定と遺領の分配〜

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天正10(1582)年6月27日、尾張・清洲城(愛知県清須市)にて信長の後継者と遺領の配分を決める重要な会議が開かれます。

この会議の参加者は、柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興。本来ならば重臣の滝川一益もこの会議へ参加すべきだったかもしれませんが、北条氏との戦い(神流川合戦)に敗れ所領の伊勢を目指し敗走中のため参加できませんでした。
さらに信長の次男・信雄は北畠家、三男・信孝は神戸家(三好家説も)をそれぞれ継いでいたため会議には参加しなかった(させなかった?)ようです。

勝家は織田家重臣で北陸方面の指揮官、秀吉は中国方面の指揮官であり明智討伐の功労者。長秀や恒興(信長の乳兄弟でもある)は信長の尾張統一以前からの古参の家臣でこの二人は秀吉と共に明智討伐に功のあった立場でした。

この頃、すでに織田家の家督をめぐり、信雄と信孝の対立は表面化していたようで、早期の決着をつけるため越前から重臣筆頭的立場にあった柴田勝家が清州に到着したこの日、すぐに会議が開かれたようです。

一般に勝家は信孝を後継者に推し、秀吉が信長の嫡孫・三法師(後の秀信)を推し議論が交わされますが、秀吉はすでに長秀や恒興に根回しして会議を思うように勧めたように伝わっています。しかし、これは秀吉の旧臣・川角三郎右衛門が著したとされる『川角太閤記』が出典で真偽は不明。実は家督相続に関しては織田家の家督はすでに長男の信忠が継いでいたので、その嫡男である三法師が後継者となることですんなり決まったのでは?という考えもあるようです。

いずれにしても信長・信忠の後継者は数え三歳の三法師で決定。信雄と信孝の二人はその貢献になります。

そして議題は信長・信忠の遺領と明智及び明智に従った諸将の領国の配分をどうするかに移ります。

まず決められたのが信忠の遺領・尾張と美濃。尾張及び清洲城は信雄、美濃及び岐阜城は信孝が継ぐことに決定。三法師は近江・坂田郡及び安土城(天主閣及び本丸御殿はすでに焼失)を継ぐことが決まります。

その他の信長直轄領や明智領は重臣で分け合うことになります。
柴田勝家は越前及び近江三郡。この中には秀吉の所領・長浜も含まれていましたが秀吉はこれを承諾。
秀吉は播磨に加え山城国という重要な地を得た上、養子として迎えていた信長の四男・羽柴秀勝は光秀の旧領丹波を与えらたます。

秀は若狭国安堵の上、近江・坂本を含む二郡。恒興は摂津国の大半を領することになります。

そしてもう一人、信長の側近で当時中国・毛利攻めの軍監を務めていたため本能寺の変の難を逃れていた堀秀政が山崎合戦で功があったため近江中郡(蒲生・神崎・愛知)と佐和山城を与えられます(北ノ庄攻めの後という説もあり)。さらに秀政は三法師の傅役にも任命されます。

このように会議は光秀討伐に大きな功のあった秀吉の思い通りに進みますが、この決定に不満を抱いた勝家や信孝・信雄と対立を深めていくことになります。

本能寺の変後の諸将 〜其の八 明智光秀と山崎の合戦〜

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今回は一度触れていますが、本能寺の変後の光秀の動きを少し詳しく追ってみたいと思います。

天正10(1582)年6月2日、本能寺・二条御所を襲撃し信長・信忠を殺害した明智光秀は昼過ぎまで京市中を捜索して織田軍の残党狩り及び信長の遺体の捜索を行います。

昼過ぎ、信長の遺体を確認できないまま光秀は近江へ出発。しかし、近江の武将・山岡隆景は信長の恩義に報いるため瀬田橋と自らの居城を焼き光秀へ敵対。光秀はこの日、安土攻めを断念し居城・坂本城に入城。
この日、光秀の与力でもある、大和(奈良)の筒井順慶は京に向っていましたが、途中で信長横死を知り慌てて帰国しています。

3日、瀬田に仮設の橋を架け明智軍は近江東部に進軍。

4日、近江の多くの武将が光秀に投降・協力を約束。
大和に戻っていた順慶も家臣に少数の兵を預け光秀のもとへ向かわせますが、光秀に合流することなく退却。去就に迷っていた順慶は日和見を決め込みます。一説には秀吉が京に向かっているとの噂が流れていたとも言われています。

5日、光秀は、無人に近い状態だった安土に入城。手つかずになっていた金銀財宝を使い、朝廷や京周辺の町衆・寺社などに贈り支持を得ようと画策。
斎藤利三は秀吉の居城・長浜城を攻略。山崎片家も佐和山城を攻略。近江の大部分を光秀は制圧します。

7日、誠仁親王が派遣した吉田兼見が安土に到着。光秀に都の秩序回復を要望します。

8日、光秀は明智秀満に安土留守居を命じると京へ向かいます。

9日、光秀、上洛。正親町天皇と親王に銀子50枚を献上。夕食後に京・下鳥羽に出陣。吉田兼見らはこれを見送ります。この頃、細川藤孝・忠興父子に味方になってくれるよう願う書状を送り、さらにオルガンティーノには摂津のキリシタン大名・高山右近の説得を依頼。

信長の死の直後、細川藤孝は剃髪し幽斎と名を改め信長への弔意を表し、忠興も髻を切り、妻で光秀の娘である玉子(後のガラシャ)を幽閉して光秀の誘いを拒否する姿勢を示していた細川父子。
これに対し光秀は書状で、「当初、腹も立ったがその気持ちもわかる」としながら「望みの領地を与える」「事を起こしたのは忠興たちを取り立てるためで他意はなく近国を平定したのちは十五郎(光秀の嫡男)や与一郎(忠興)に譲り自らは引退」するという内容を書き記し味方になるよう懇願しますがそれでも細川父子は拒絶。右近もオルガンティーノの説得を聞き入れず光秀に味方しませんでした。

10日、光秀は山城八幡洞ヶ峠に着陣。籠城の準備をはじめた順慶を説得するため藤田伝吾派遣。しかし、この頃には秀吉の到着が確実なものとなっていて順慶は光秀に与することを拒否。

11日、羽柴秀吉の軍が尼崎に到着。順慶は秀吉に使者を送り敵対しないことを約束。この頃、「藤田伝吾が切腹した」とか「徳川家康が安土城に入った」という“風聞”が流れ明智軍は動揺。
織田信孝や丹羽長秀が秀吉と合流。光秀は淀城の普請を命じ、秀吉との合戦に備えます。

12日、秀吉方の中川清秀らが天王山占拠。明智軍と羽柴軍の先陣が小競り合いを始めますが一時収束。

13日、雨の中、山崎にて明智1万6000と羽柴軍4万がにらみ合い。夕刻、明智軍の先鋒、松田政近・並河掃部隊が黒田孝高・中川清秀隊に攻撃を開始。兵力の劣る明智軍は序盤から苦戦を強いられます。主力の斎藤利三が池田恒興や加藤光泰らに包囲され敗走。明智軍は総崩れになり、光秀は勝龍寺へ退去。羽柴軍は追撃し勝龍寺を包囲。夜になり光秀は溝尾勝兵衛ら数名と共に包囲を抜け、坂本を目指すも途中、一揆に襲われ光秀は重傷を負い勝兵衛の介錯で切腹して果てます。享年55歳(近年67才説も浮上)

14日安土の留守居を任されていた秀満は、光秀敗死の報を受け坂本へ向かいます。
この日?丹波亀山城を守っていた光秀の長男・十五郎光慶も討死。

15日、秀満は光秀の妻子を殺し、坂本城の財宝を羽柴軍に引き渡し城に火をかけ自刃。坂本城近くの堅田に潜伏していた斎藤利三は光秀配下の同輩・猪飼野秀貞に捕らえられ秀吉方に引き渡されます。この日、本能寺では光秀の首が晒されます。

16日、織田信孝は安土城に入城。

17日、利三は市中引き回され六条河原で処刑。享年49歳(45歳とも)。光秀と利三は首と胴体をつなぎ合わせた上で粟田口で磔にされます。

22日、二人の首は首塚に埋葬。

余談ですが、光秀の娘・玉子はのちに細川ガラシャとして、利三の娘・福は春日局として歴史に名を残すことになります。

本能寺の変後の諸将 〜其の七 河尻秀隆と武田旧臣一揆〜

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天正10(1582)年6月7日か8日頃?、甲斐の河尻秀隆のもとにも信長横死の知らせが届きます。

10日、徳川家康は、家臣の本多信俊を使者とし秀隆のもとに送ります。信俊は甲斐国内で武田の旧臣が不穏な動きをしているので美濃に兵を退くよう進言。家康に不信感を抱いた秀隆は、この進言を拒否し信俊を殺害します。

数日後、甲斐国内で武田の旧臣が蜂起。

18日、秀隆は一揆軍と激突。状況不利と見て甲斐からの撤退を決意しますが、一揆軍に包囲され、岩窪(山梨県甲府市)において武田の旧臣・三井弥一郎に討ち取られてしまいます。享年56歳。

秀隆は、信長が尾張統一を目指している頃、弟・信勝(信行)謀殺の実行役を務め、武田攻めに際し、信長は嫡男・信忠に「秀隆を父とも思い従うよう」に忠告。信長から厚い信任を得ていました。

この武田旧臣の一揆の背後には家康がいたといわれ、一説には秀隆が死ぬ前から家康は武田旧臣に所領安堵を約束していたそうです。伊賀越えの際、甲斐の一部を領する穴山信君(梅雪)が一揆に討たれていますが、これも混乱に紛れ甲斐を狙う家康が先手を打って殺害したという説もあります。

ことの真相は不明ですが、この後、甲斐や信濃南部は徳川領に組み込まれることになります。

本能寺の変後の諸将 〜其の六 滝川一益と神流川の戦い〜

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天正10(1582)年6月9日(7日?)、厩橋(群馬県前橋市)に駐屯する関東取次役・滝川一益のもとに信長横死の知らせが届きます。
同じ頃、織田家と同盟関係にあった小田原の北条氏政のもとにも風聞(噂話)として変の知らせが伝わっていたようで、11日付の手紙で氏政は一益に事の真偽を確かめるとともに織田家との同盟関係は維持する内容を書き記しています。

数日後、北条氏は光秀の謀反で信長が死んだとの確証を得ると態度を一変させ敵対行動を取り始めます。一益は配下に加わっていた新参上野の国衆にも信長の死を正直に伝え協力を要請。

16日、上野国では北条軍が倉賀野城(群馬県高崎市倉賀野町)に攻めかかります。これを知った一益は出陣。

18日、滝川軍1万8000と氏政の嫡子・北条氏直率いる北条軍3万は上野と武蔵の国境辺りの神流川・金窪原(埼玉県児玉郡上里)で激突。一益は兵力で劣りながらも北条軍を撃破。(第一次神流川合戦)

19日、態勢を立て直した北条軍は再び滝川軍に攻めかかり戦意の劣る滝川軍は大敗を喫し一益は厩橋城に敗走。(第ニ次神流川合戦)

厩橋に入ってわずか3カ月の一益は、本領・伊勢長島に帰国することを決めると関東諸将から取っていた人質を解放し、別れの挨拶を交わします。関東の将兵の中には涙する者もいたようです。

20日以降一益は信濃の小諸・下諏訪・木曽福島などを経由し帰国の途に就きますが北条軍の追撃や武田の旧臣の蜂起などあり苦難を極めます。

27日、尾張清州に羽柴秀吉・柴田勝家・池田恒興・丹羽長秀らが集まり、信長の後継者をきめる会議いわゆる清州会議が開かれますが、この頃一益は未だ伊勢長島にたどり着いていなかったようで、重臣の地位にありながらこの重要な会議に参加することができませんでした。

以後主導権は秀吉が握り、一益は反秀吉派の柴田勝家らと手を組むも翌天正11年賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れ自害すると秀吉に降伏。秀吉配下として各地に転戦。
天正14(1586)年9月、越前(福井県)にて死去。享年62。

本能寺の変後の諸将 〜其の五 羽柴秀吉と備中高松城水攻め〜

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清水宗治自刃址天正10(1582)年6月3日夜、備中高松城(岡山市)を包囲する羽柴秀吉の陣に驚愕の情報が舞い込みます。
「光秀の謀反により信長が死去」この情報は明智光秀が毛利家に送った密使が誤って秀吉の陣に迷い込み露見したといわれていますが、信長に仕えていた京(堺?)の商人である長谷川宗仁の使者が秀吉に知らせたという可能性が高いようです。

この年3月中旬、羽柴軍は備中に侵攻。高松城の周辺の城を攻略する一方、高松城主・清水宗治に降伏を勧めますが交渉は不調に終わります。
5月、調略を断念した秀吉は高松城の周囲に堤防を築き近くを流れる足守川の水を引き込み城を水没させる水攻めにより城を包囲。救援に駆け付けた吉川元春や小早川隆景の軍とにらみ合いを続けていました。

信長の死を知った秀吉は陣中にかん口令を布き「信長死去」の情報を隠し、毛利軍と講和交渉を開始。
秀吉は信長存命の頃から毛利家と幾度となく交渉を重ね毛利家を降伏させようとしていたかまたは信長本隊の到着までの時間稼ぎをしていたようです。
当初、毛利領五ヶ国の割譲と清水宗治の切腹を要求していた秀吉は、なんとしても講和を成立させるべく清水宗治の切腹のみを要求。毛利家はこの条件を受け入れ講和交渉は成立。

4日、清水宗治は城兵の助命を条件に切腹を決意。小舟に乗り城外に出ると織田・毛利両軍が見守る中、自刃。毛利家から派遣されていた軍監・末近信賀も宗治一人を死なせるのは忍びないとして自刃。

5日、講和が成立すると堤防を破壊し、毛利軍の追撃を阻止。全軍を京に向かわせる「中国大返し」を実行。信長本隊を迎えるために準備されていた食料や街道の備えなどは秀吉軍が京に向かう絶好の進路になります。

6日、毛利家は信長が謀反で死んだことを知り、吉川元春は秀吉の策に激怒。羽柴軍追撃を主張しますが、この頃すでに毛利家中は織田家に通じていた者もいたため統率を欠いており、岡山では秀吉配下の宇喜多秀家らが防備を固め、さらに瀬戸内海の村上氏の一族が織田方に付くなどしていました。小早川隆景はこのような状況では追撃は不可能と考え、元春を説得し天下の情勢を見守ります。

13日、途中、神戸(織田)信孝や池田恒興らと合流した秀吉は山崎(摂津と山城の国境)において明智光秀の軍と激突することになります。

本能寺の変後の諸将 〜其の四 神戸信孝と津田信澄〜

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天正10(1582)年6月2日、信長の三男・神戸信孝(直前に三好氏の養子になっていたという説も)率いる四国遠征軍は四国統一を目前にしていた土佐の長宗我部元親を攻めるため大坂・住吉周辺に集結。渡海を直前に控えてました。

信孝率いる四国遠征軍は直属の北伊勢衆の他、副将として丹羽長秀や蜂屋頼隆・津田信澄が付き、さらに三好康長や畿内周辺の各地からの応援部隊を派遣してもらうという寄せ集め的な軍勢でした。

津田(織田)信澄は信長が尾張統一の過程で謀殺した実弟・信勝(信行)の子。近江(滋賀県)・大溝城主。この地は安土城の対岸・琵琶湖の西側で京の東に当たる重要拠点。天正9(1581)年2月の馬揃えでは信忠(信長嫡男)・信雄(次男)・信包(信長の弟)・信孝(三男)に続き織田一門の五番目に行軍。信長に重要視され、さらに光秀の娘を娶り織田家の次代を担う20歳前後?の武将でした。

2日夜頃?信孝のもとに父・信長が明智光秀に討たれたとの情報が飛び込みます。四国遠征軍は大混乱に陥り、寄せ集めの兵の多くは逃走してしまいます。一説には1万4000ほどの軍勢が4〜5000ほどになってしまったということです。

信孝は光秀の娘婿である信澄を警戒。
この数日後、越後の上杉家には「信長は光秀と甥の信澄に討たれた」との情報がながれ、さらに景勝自身は会津(福島県)の蘆名氏に対し「織田軍は毛利軍に敗れ途中で信澄が変心して信長は切腹した」と伝えたそうです。これは計略だったという考えもあるようですが・・?

5日、単独で明智討伐が難しい信孝軍は、光秀と信澄が手を組むことを恐れ、まず信澄を攻め殺害。

12日?中国地方から引き返してきた羽柴秀吉軍と合流。軍議の結果、信孝は名目上、明智討伐の総大将とされ山崎の合戦で明智軍に勝利。

しかし、以後秀吉や兄・信雄と対立。翌天正11(1583)年4月29日(5月2日説も)尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺で自刃。享年26歳。

「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」

これは信孝が残した辞世の句と言われ、秀吉を恨む内容になっていますが真偽の程は定かではありません。また切腹した際、自ら臓器をつかみ取り壁に投げつけたといわれていますが、これは現実には不可能と考えられ後の創作ではないかと思われます。

本能寺の変後の諸将 〜其の三 柴田勝家と魚津城攻め〜

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天正10(1582)年6月3日、柴田勝家率いる北陸遠征の織田軍は上杉方の魚津城を攻略します。

この魚津城は越中(富山県魚津市)にある 松倉城の支城で越後(新潟県)との国境にあり、越後の上杉景勝の勢力下にありました。

天正10年3月、甲斐の武田家を滅ぼした織田軍は東国における次の目標を越後上杉家に定め北陸方面を担当していた柴田勝家やその配下に加わっていた前田利家や佐々成政、佐久間盛政らが1万5000(4万との説も)の軍勢で上杉家の属城・魚津城を包囲。城将らは景勝に救援を求めます。

しかし、前年末頃から年明け頃に越後北部の揚北衆と呼ばれる阿賀野川以北の国人領主の中で一大勢力を誇っていた配下の新発田重家が上杉謙信死去後に起こった御館の乱の恩賞への不満から織田家に内通し景勝に反旗を翻しており上杉家は窮地に立たされている状況でした。

4月23日付けの書状で魚津城の中条景泰・山本寺孝長・吉江宗信ら12人の城将は討ち死にする覚悟を上杉家の重臣・直江兼続に告げます。兼続は早速このことを景勝に報告。景勝は3日後に救援に向かうことを約束。

5月1日付けの常陸・佐竹義重宛の景勝書状には織田軍を相手に討ち死にを覚悟する心境を伝えた内容の手紙が残っているようです。

5月19日(15日?)、景勝は5000の兵を率い魚津城の東・天神山に着陣。勝家軍と対峙。
23日、上野(群馬県)から滝川一益が越後に攻め込み、北信濃の森長可も上杉家の居城・春日山城に攻め込む動きを見せます。


27日、景勝は魚津城の救援を断念。魚津の城兵に「恥ではないから織田軍に降伏して越後に帰国するよう」進める書状を送り撤退。

6月3日、城将らは景勝の意思を拒んだのか、織田家が降伏を認めなかったのか不明ですが死を決意。魚津城内の将兵は耳に穴をあけ名前を書いた木札を結び付け自刃。
この時死んだ大将格の者は中条景泰・山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林家長・亀田長乗・藤丸勝俊・竹俣慶綱ら13人。兵の多くも運命を共にしたようです。

6日(7日?)、本能寺の変で信長が死去したことを知った柴田勝家らの織田軍は撤退を開始。
勝家配下の前田利家は領国・能登へ引き返しますが畠山旧臣らが蜂起。佐久間盛政と共に鎮圧にあたります。
佐々成政も越中・富山城に退去。上杉軍の反撃に備えます。
勝家自身も上杉軍の反撃に苦戦しながら退却。魚津城は上杉家に奪還されます。
領国越前にたどり着いたのは16日か17日ごろ
だったと思われ、明智討伐のため江北(滋賀県北部)に入った18日、山崎の合戦で羽柴秀吉が明智光秀を破ったという知らせを受けたようで以後織田家における主導権を秀吉に握られることになります。

本能寺の変後の諸将 〜其のニ 徳川家康と伊賀越え〜

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天正10(1582)年6月2日、徳川家康は穴山梅雪(信君)や信長の側近・長谷川秀一らと共に堺に滞在中。一説には信長の上洛を知り京に向かっている最中であったとも言われています。

家康は、信長に京へ向かうことを知らせるため、先行して本多忠勝を出発させていました。忠勝は途中で、家康と交流のある京の商人・茶屋四郎次郎と出会い凶報を知ります。四郎次郎は凶変を知らせるため家康のもとに向かう途中だったようです。忠勝は四郎次郎と共に家康のもとに急ぎ引き返します。

2日昼前後?、河内・四条畷辺り(大阪府四条畷市)で、信長の死を知った家康は自刃も覚悟したと言われていますが家臣らの説得で冷静さを取り戻し領国への帰国を決意急ぎへ向かいます。

この時、家康に従っていたのは酒井忠次・石川数正・本多忠勝・榊原康政・服部半蔵正成・大久保忠佐ら多くの重臣と小姓衆の井伊万千代直政・鳥居松丸忠政・青山虎丸定長など40名あまり。
そして、穴山梅雪も穴山五郎左衛門や跡部因幡守・馬場丹後守忠次らの家臣40名余りを従えていました。
徳川・穴山両軍合わせると100名近い勢力がありました。さらにその従者らを考えると数百名規模に達したかもしれません?

家康一行は四条畷から飯盛山麓さらに尊延寺(いずれも大阪府)を通り、3日午前10時頃?宇治田原(京都府畷喜郡)、そして、その日の夜には近江・信楽の小川城(滋賀県甲賀市)に到着。城主・多羅尾光俊から赤飯を出されるとほとんど飲まず食わずで移動し続けた一行は一気にそれを食べたそうです。一行はここで一泊。

4日早朝、家康一行は出発。丸柱・柘植(ともに三重県伊賀市)・加太(亀山市)を通り白子(鈴鹿市)の港に到着。ここから船で三河・大浜(愛知県碧南市)に無事到着。この頃になると徳川領内でも本能寺の変で信長・信忠父子が撃たれたということが確認されていて、家康が伊賀経由で三河に向かっていることも伝わっていたようで、家康家臣・松平家忠らは大浜まで一行を迎えに行っています。

家康は後に「神君伊賀越え」といわれるこの逃避行で伊賀衆ら数百名の助けや茶屋四郎次郎の“金の力”を借り無事帰国を果たしますが、この間、一揆らとの戦いで200名近い家臣らを失います。

一方の穴山梅雪は、2日家康らと協議の結果、別ルートで甲斐を目指すことを決めます。梅雪が家康を警戒したのか、何か別の策があったのか両者が別行動をとった理由は定かではありませんが、梅雪一行は家康らより遅れて出発。草内(京都府京田辺市)付近の木津川河畔で土民の襲撃にあい多くの家臣と共に討ち死に。享年42歳。
家康の謀略説もありますが、家康は梅雪の嫡子・信治に家督を継がせ、妻・見性院も大切に扱うなど謀略をうかがわせるような痕跡はあまり見当たらないような気もします?

もう一人、家康に随行していた信長の側近・長谷川秀一ですが家康とともに最後まで行動し無事難局を乗り越えます。この後、羽柴秀吉に仕え、越前・東郷(福井市)15万石を賜り、秀吉の天下統一事業に貢献します。

本能寺の変後の諸将 〜其の一 蒲生賢秀・氏郷と安土城〜

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これから数回にわたり、信長死後の織田家諸将や同盟国の動向について触れたいと思います。
一回目は日野城主の蒲生賢秀とその嫡男で信長の娘・冬姫の婿である氏郷(当時賦秀:ますひで)について書きたいと思います。

天正10(1582)年6月2日、本能寺の変勃発時、蒲生賢秀は津田(織田)源十郎信益(本丸留守居役)や木村次郎左衛門らと共に安土留守居役を務めており、賢秀自身は木村と共に二ノ丸に入っていました。

変の凶報は2日の巳の刻(午前10時頃)に早くも噂話として安土にもたらされていたようですが、事実かどうかはっきりしないため多くの領民はじっと事態を見守っていましたが、京から次々と下働きの者たちが逃げ帰ってきたため安土城下は大騒ぎになります。尾張や美濃出身の者はそれぞれ出身地を目指し、夜には山崎秀家も安土の邸宅を焼き払い領国に逃亡。

本丸留守居の津田信益らの動静は不明ですが、安土城二ノ丸にいた蒲生賢秀は信長の妻子を保護するため日野城にいた息子・氏郷に護衛の兵を送るよう指示。

3日、当初、安土城から落ち延びることを一部の婦人らが拒んだようで、賢秀に対し「安土城を退去するのであれば城内の金銀財宝を運び出し城に火をかける」よう訴えます。しかし、賢秀は「上様(信長)が心血注ぎ作り上げた天下に二つとない城を焼くのは恐れ多く、金銀などを持ち出すことは天下の嘲りを受ける」としこれを拒否。
結局、安土城は無傷のまま一旦は明智軍の手に渡ることになります。

安土城を退去した蒲生賢秀は、居城・日野城に信長の妻子を匿い息子・氏郷と共に明智軍を迎え撃つ準備を進めます。
この動きに対し明智光秀は蒲生父子に降伏を勧めます。しかし、蒲生父子は信長の恩を理由に拒否。
明智軍は日野城攻撃を決めたようですが、日野に攻め入る前に光秀は山崎の合戦で敗北。蒲生家は危機を乗り越えます。

信長と同年生まれの賢秀は、二年後の天正12(1584)年4月、51歳で死去。
信長の娘婿である氏郷は秀吉に仕え、小牧・長久手の戦い九州征伐・小田原征伐などに従軍。数々の戦功を挙げ、羽柴姓を賜り最終的に会津92万石という領国を与えられます。しかし、文禄4(1595)年2月、京・伏見屋敷で病死。享年40才という若さでした。
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