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戦国時代

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戦国150年史

伊勢新九郎(北条早雲)と今川家家督問題

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■伊勢新九郎盛時(宗瑞)
北条早雲といった方がなじみのある方も多いと思いますが、本人が存命中その名を名乗ったことはありませんでしたが、名前だけでなくその出自も謎が多かった伊勢新九郎。

一介の素浪人といわれたり、伊勢貞藤(貞親の弟)の子で父が浪人となり伊勢に下ったとか、備中出身で伊勢貞通の養子とされるなど、さまざまな説がありました。しかし、近年の研究で、その素性が徐々に解明されてきているようです。

父は幕府の申次衆・伊勢盛定。母は幕府政所執事・伊勢貞国の娘という説が有力のようで、一介の素浪人どころか逆に立派な血筋。文明13年頃には幕府申次衆さらにその数年後には奉公衆に任命されることになります。ちなみに備中出身は正しいようで備中荏原荘の半分を領する領主だったそうです。

今川義忠の正室は伊勢盛定の娘・北川殿なので義忠と新九郎は義兄弟問いことになります。義忠の嫡男・龍王丸(のちの氏親)は新九郎の甥ということになりますね。


■今川家家督問題
文明7(1475)年末から翌年正月ごろ、遠江の国人、横地秀国・勝間田修理亮は今川家と対立していた斯波義良と通じ今川家に敵対します。

文明8(1476)年2月(1月?)、今川義忠は、500の兵を率い、遠江の横地・勝間田討伐に出陣。横地城と勝間田城は、今川軍の攻撃で落城。横地秀国・勝間田修理亮は討ち死。ちなみに横地秀国の当時2歳だった子・元国は甲斐に落ち延び、武田信虎・信玄・勝頼の三代に仕え滅亡後は徳川家康に仕えることになります。

2月6日、今川義忠は帰国の途上、遠江にて横地・勝間田残党の一揆に襲撃され、抗戦するも討ち死。

残されたのが6歳の嫡男・龍王丸(のちの氏親)。幼いことを理由にその家督相続反対派は、義忠の従兄弟・小鹿範満を擁立。両者は対立します。

堀越公方・足利政知(前将軍・義政の弟)の執事・犬懸上杉政憲は孫に当たる範満を今川家の家督に据えようと画策。扇谷上杉家家宰・太田資長(のちの道灌)とともに兵を率い駿河に向かいます。

この一触即発の状況の中、京から伊勢新九郎盛時が調停のために下向。龍王丸・小鹿範満両派を説得。龍王丸が成人するまで範満が家督を代行するという調停案が受け入れられなければ一戦を交える覚悟であることを告げます。上杉政憲や太田資長もこの案に納得し両派は和睦。

11年後のこと。小鹿範満は龍王丸が成人しても家督を返上せず、長享元(1487)年、伊勢盛時は再び駿河に下向。11月、龍王丸とともに挙兵。駿河館を攻め範満を討ち取ります。

この功により興国寺城を与えられ今川家の家臣となった伊勢盛時は、この城を拠点に5代100年にわたる関八州の覇者・後北条家の礎を築くことになります。

1476年(文明8年) 〜今川家家督問題と関東騒乱〜

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【天皇:後土御門(103代)、将軍:足利義尚(9代)】

2月6日、【遠江】今川義忠、横地・勝間田両城を攻略するも残党に襲撃され戦死。6歳の嫡男・龍王丸(のちの氏親)と義忠の従兄弟・小鹿範満が今川家の家督を争うことに。

3月、【駿河】範満の祖父・堀越公方の執事の上杉政憲(犬懸家)は孫を今川家の家督に据えるため扇谷上杉氏の家臣・太田道灌とともに兵を率い駿河に入る。
(※道灌が政憲の家臣と誤って記載していました。申し訳ありません)

3月8日、日野富子、禁裏番衆に現銭(現金)一万疋を贈り、改めてその財力を示す。

6月、【駿河】今川義忠の正室・北川殿の弟・伊勢盛時(新九郎・北条早雲)が今川家の家督争いを調停するため下向。龍王丸が成人するまで範満が家督を代行することで決着。

6月、【武蔵】上杉政憲・太田道灌の留守をついて長尾景春が鉢形城で挙兵(長尾景春の乱)。主家・山内上杉顕定の拠る五十子城(いかご・いらこ:埼玉県本庄市五十子)を包囲する。

9月14日、前将軍・義政、大内政弘に内書を下し東西和平を推し進める。

11月、【尾張】守護代・織田伊勢守敏広と美濃守護代・斎藤妙椿が織田大和守敏定を攻める。大和守敏定、守護所・下津城に火を放ち迎え撃ち、守護代軍を撃退する。

11月13日、室町第に隣接する土倉が一揆に襲撃・放火され、その火が花の御所・室町第に燃え移り焼失。近隣の禁裏や公家や武家の屋敷・門跡寺院なども被害を受ける。

12月20日、義政、弟・義視に身の安全を約束した書状を与える。


【その他の出来事】
4月11日、戦乱で衰退した兵庫津に替わり和泉・堺から初めて遣明船が出航。



【生】
狩野元信:絵師。狩野派の祖・狩野正信の子。永徳の祖父。8月9日誕生?
太田資康:太田道灌(資長)の嫡男。武蔵国江戸城城主。
佐竹義信:第14代当主・佐竹義治の四男。
斯波詮高:詮好とも。高水寺斯波家の当主。
相馬盛胤:陸奥相馬氏第13代当主。

【没】
今川義忠:駿河今川家6代当主。義元の祖父。2月6日没。享年41歳。
日野勝光:日野家当主。左大臣。富子の兄。6月15日没。享年48歳。
毛利豊元:安芸国人毛利家当主。元就の祖父。享年33歳。


【織田信長誕生まであと58年】



※主に戦国150年ニュース―戦国時代をフォーカス! (別冊歴史読本 (23))を引用・参考にさせていただいています。

1475年(文明7年) 〜拡大する戦乱〜

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【天皇:後土御門(103代)、将軍:足利義尚(9代)】

1月1日、乱のぼっ発以降途絶えていた朝廷儀式が再開される。この日は、京都御所・清涼殿の前庭で、四方を拝し一年の無病息災と豊作を祈る行事、四方拝の儀式が行われる。

2月19日、将軍・足利義尚、越前の甲斐八郎と対面。八郎は遠江守護代に任じられ、斯波義良と共に遠江に下向。

3月下旬、【加賀】冨樫政親に対し一向一揆衆が蜂起。

5月14日、東軍・成身院順宣らと西軍・越智家栄らが春日社で戦い東軍が勝利。山城の木津・天神河原では大和の筒井舜覚(順尊)と大内政弘が戦い、大内方の陶遠江守らが討ち取られる。

6月、【加賀】一向一揆がふたたび蜂起。

8月21日、【越前】本願寺中興の祖と言われる連如、加賀などでの一向一揆の拡大による戦乱を避けるため越前・吉崎御坊を離れる。のち小浜、丹波、摂津などを経て河内・出口に入る。

8月28日、幕府、遺明船を派遣。明に銅銭・書簡を求める。

10月、【安芸】徳政一揆蜂起。幕府、大内・毛利両氏に鎮圧を命じる。毛利豊元の活躍で一揆は鎮圧。同じ頃、大内氏の居城・鏡山城を包囲していた東軍も毛利軍が打ち破る。

10月、【近江】幕命、延暦寺に六角高頼討伐を命じる。六角氏本拠・観音寺城下延暦寺僧兵と六角軍が戦い延暦寺方が勝利。

11月【近江】六角高頼、西軍・美濃の土岐成頼や斎藤妙椿らの援軍を得て反撃。幕府軍を破る。

11月18日、【尾張】斯波義廉、・上四郡守護代織田敏広(西軍)に擁立されて尾張へ入国。東軍に属する下四郡守護代・織田敏定を破る。


【その他の出来事】
5月24日、京都で、この日から3日間、大雨。洪水の被害がある。

8月6日、京で、暴風雨。和泉や摂津の沿岸で津波が発生し、多くの犠牲者がでる。


【生】
天野興定:天野興次の子。安芸国の国人・天野氏当主。

一条房家:土佐国司。土佐一条氏の第2代当主。関白一条教房の次男。

宇都宮興綱:下野・宇都宮氏第19代当主。

木曾義元:木曾家豊の子。信濃木曾氏の当主

清原宣賢:公卿。吉田神社詞官神道家・吉田兼倶の三男。清原家養子。細川藤孝の祖父。

陶興房:大内氏の重臣。陶弘護の子で晴賢の父。周防守護代。

宗晴康:対馬の守護。宗氏の第16代当主。

畠山尚順:尾張守。畠山政長の子。紀伊・河内・越中の守護。



【没】
長尾定景 (足利長尾氏)文明7年2月6日内上杉家の家臣である足利長尾氏の第2代当主。


【織田信長誕生まであと59年】



※主に戦国150年ニュース―戦国時代をフォーカス! (別冊歴史読本 (23))を引用・参考にさせていただいています。

足利将軍家と日野家

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日野富子は、永享12(1440)年の生まれで、康正元(1455)年8月、八代将軍・義政の正室になっています。時に義政20歳、富子16歳。

応仁・文明の乱では、優柔不断な言動が目立つ将軍・義政と対照的に政治手腕を発揮することも度々あったような印象の富子。

その富子の実家・日野家は、代々朝廷に仕えた名門の公家で、足利将軍家に多くの正室を送り出していました。

3代義満の正室は大納言・日野時光の娘・業子。業子の死後、権大納言・日野資康の娘・康子。

4代義持の正室は権大納言・日野資康の娘・栄子。

6代義教の最初の正室には大納言・日野重光の娘・日野宗子。妹の重子は側室となって、7代・義勝と8代・義政を生みます。

このような関係から、日野家は将軍家に次ぐ権力を有し、6代将軍・義教は、その存在が疎ましくなり、日野家を排除する行動をとっています。
正室・宗子の死後、側室から正室となったのは日野家の出ではない三条尹子。しかし、子が出来なかったのか、結局、尹子は宗子の妹・重子が生んだ義勝を養子として迎えます。その結果、義教死去後、義勝が7代将軍に就任すると生母の重子の発言力が増し、再び日野家の影響力が復活。

7代将軍・義勝は10歳にして死去してしまい、急きょ弟の義政が8代将軍となります。義政が将軍に就任したのが宝徳元(1449)年。その6年後、富子が嫁いできて日野家の影響力は益々大きくなっていきます。さらに義政の弟で一時将軍後継候補でもあった義視の正室には富子の妹・妙音院がなっています。

富子は実子・義尚を将軍職に就けるため反義視派と手を組み、その9代将軍就任を成し遂げていますが、仮に義視が将軍になっていたとしても日野家としてはその影響力を保持することができ、その政略は抜け目のないものでした。

10代を継いだ義視の子・義稙(義材)の正室は不明ながらも、その母は日野富子の妹。

11代義澄の正室は日野永俊の娘で日野富子の姪にあたる安養院で、その子供が12代義晴ということで13代義輝と15代義昭にも日野家の血が受け継がれていることになります。

その日野家の権力を背景に富子の兄・勝光も応仁・文明の乱では暗躍し、最終的には左大臣まで昇進し、権威の大きさから「押大臣」とも評されたそうです(ウィキ参照)。なんとなく信長時代の近衛前久を思わせる活躍ぶりのような気がします。

しかし、日野家の絶頂期は応仁・文明の乱終結直後までだったようで、その後足利将軍家の衰退と共にその影響力は低下。その後、歴史の表舞台で活躍することは少なかったようですが、現代までその血は受け継がれているようです。

1474年(文明6年) 〜山名政豊と細川政元の和睦〜

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【天皇:後土御門(103代)、将軍:足利義尚(9代)】

1月11日、大内政弘、山城の寺社領返還。

1月18日、【越前】朝倉孝景、越前にて甲斐八郎の杣山城攻略。

4月3日、山名政豊と細川政元が和睦。しかし、和睦反対派の東西諸将の小競り合いはなお続く。

4月23日、山名政豊軍と畠山義就軍の足軽同士が小規模な合戦を交える。西軍内部対立が表面化。

閏5月5日、畠山義就、日野勝光を通じ東軍との講和と京への帰参を図る。

6月、【越前】美濃守護代・斎藤妙椿、越前へ赴き、朝倉孝景と甲斐八郎を和解させる。

6月26日、山名政豊ら西軍諸将が新将軍義尚と対面。西軍は義尚の叔父・義視を将軍後継に推していたがその方針転換を名実ともに天下に示す。西軍主力の大内政弘や畠山義就・土岐成頼らが反発。

7月、【加賀】越前に逃れていた富樫政親が蓮如の命を受けた本願寺派門徒を率い加賀の侵攻。

7月6日、山名政豊、山城守護に任じられる。

7月26日、大内政弘や畠山義就・土岐成頼ら西軍の諸将が上京・北野に放火。西軍総帥・山名政豊がこの鎮圧に動く。

9月20日、【九州】東軍方の菊池重朝や大友親繁が北九州の大内領への侵攻を画策。この動きを知った大内政弘は本国に帰国するため日野勝光を通じ、将軍・義尚や山名政豊らとの和睦を求める。

11月1日、【加賀】加賀一向一揆蜂起。西軍に属する富樫幸千代が高田派門徒と手を組み、東軍に属する兄の富樫政親を攻撃。政親は本願寺派門徒に援軍要請。この合戦で、幸千代方の守護代小杉某が討死。この後、政親、加賀守護に返り咲く。


【その他の出来事】
2月16日、一休宗純、大徳寺住持となる。



【生】
富樫稙泰?:加賀守護。富樫家16代当主。


【没】
土岐持益:美濃国守護。
島津立久:島津氏第10代当主。応仁・文明の乱では名目上東軍に所属。
今川貞延:遠江守護今川氏6代目当主。


【織田信長誕生まであと60年】



※主に戦国150年ニュース―戦国時代をフォーカス! (別冊歴史読本 (23))を引用・参考にさせていただいています。

足利義尚と義視 〜将軍職後継問題〜

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文明5(1473)年3月に山名宗全、5月に細川勝元が相次いで死去したことで応仁文明の大乱は大きな転換点を迎えます。
もともと管領畠山家の家督問題に端を発したこの大乱は、その後他家を巻き込みそれぞれが分裂し、畠山家の家督問題前からくすぶっていた将軍家の家督問題も絡み合い日本国内は大混乱に陥りました。

ちなみに宗全・勝元が死ぬ前の両陣営の顔ぶれは以下のようになっています。(すでに没した武将も含まれています。ちなみにあってますか〜?)
【東軍】八代将軍・足利義政、細川勝元、畠山政長、斯波義敏、土岐政康、大内道頓、朝倉孝景(西⇒東)など

【西軍】義政の弟・足利義視(東⇒西)、山名宗全、畠山義就、斯波義廉、土岐成頼、大内政弘など

さて将軍継嗣問題ですが、義政は当初、浄土寺に入っていた義尋(ギジン)を還俗させ養子とし、義視と名乗らせその後見に細川勝元を指名していました。
しかし、寛正6(1465)年11月義政の妻・富子が義尚を生んだことで状況は一変します。

富子は義視にわが子は仏門に入れると約束していましたが、義尚の成長と共に将軍職につけたいと考えはじめ、兄・日野勝光や山名宗全と協力し、義視・細川勝元陣営と対立。
文正元(1466)年9月、富子や宗全らの動きに危機感を覚えた義視は細川邸に逃げ込みます。

応仁元(1467)年8月、西軍方の大内政弘が周防から大軍を率い上洛すると義視は東軍の敗北を予感し伊勢に逃亡。しかし、翌応仁2年4月に将軍義政は、義視を後継者とするつもりだったようで伊勢より京に呼び戻します。
義視はこれを機に日野勝光らの排除を訴えますが聞き入れられず、幕府内の対立が深まり義視は孤立。細川勝元も反義視派の意見を抑えることができなくなり、義視に出家を勧め、比叡山に上らせます。

これにより義尚が次期将軍最有力候補となり幕府内は将軍家の問題は収まるかに思えましたが、義視に野心があったのか、山名宗全が幕府での実権を握りたかったのか不明ですが応仁2年11月義視が西軍・山名陣営に入ったため対立は長引くことになります。
文明2(1470)年になると宗全は南朝・小倉宮の末裔とされる人物を擁立、義視もこれに賛同し“幕府的”機構を成立させます。
こうして東西両陣営は泥沼の対立をつづけますが、長引く対立でしだいに両陣営に凱旋気分が漂い始めます。

文明4(1472)年1月、宗全は勝元に和睦を提案。しかし東軍の赤松政則の反対で和平交渉は決裂したため、宗全は死をもってこの混乱を収めようとします。しかし、自刃するも家臣に引き留められ一命を取り留めます。細川勝元も隠居しようとしたという説もあります。

文明5(1473)年3月、自刃した時の傷がもとでに山名宗全が死に、5月には細川勝元も病死(暗殺されたとも)。12月、将軍・義政もこれを機に隠居を決めわずか9歳の義尚に将軍職を譲ります。これにより将軍継承問題も一応の決着をみます。

文明6(1474)年4月、細川勝元の子・政元と宗全の後を継いでいた山名政豊の間で和睦が成立しますが、これに異を唱える者が多く応仁文明の乱は終結までこの後4年を費やすことになります。

1473年(文明5年) 〜東西総大将の死と将軍職継承〜

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【天皇:後土御門(103代)、将軍:足利義政(8代)/義尚(9代)】

2月21日、【美濃】将軍足利義政、東軍に属する信濃の小笠原家長(松尾家)に信濃守護・小笠原政秀(鈴岡家)とともに西軍の美濃守護・土岐成頼を征伐するように命じる。

3月17日、【美濃】将軍足利義政、美濃の富島為仲に小笠原家長や木曽家豊と協力して出陣するように命ずる。小笠原家長・木曽両軍は、東美濃に攻め込み、守護代・斎藤妙椿が守る土岐氏の居城・大井城と荻島城を攻め落とす。

3月18日、山名宗全、自害の際の傷がもとで病没。

4月、幕府?、後ろ盾の宗全を失った畠山義就に対して畠山政長との講和を提案するが義就は拒否。

5月11日、細川勝元が流行病で死去。謀殺説も。8歳の嫡男・政元が家督相続。

6月23日、【武蔵】五十子の陣中で山内上杉氏の家宰・長尾景信死去。

6月24日、義政と義視がそれぞれ父で6代将軍の義教の33回忌法要を行う。

8月26日、義視が大内政弘の館に入る。

11月24日、【武蔵】古河公方・足利成氏が五十子の上杉陣を急襲し、扇谷上杉政真が討死。

12月19日、義政、子・義尚を元服させ将軍職を譲る。弱冠9歳。


【その他の出来事】
11月29日、幕府、紙商人九郎三郎光次に取引の独占を許可。


【生】
朝倉貞景:朝倉家9代当主。義景の祖父。(2月5日)

荒木田守武:伊勢神宮祠官・連歌師。

今川氏親:今川家7代当主。義元の父。駿河守護職・遠江守護職。文明3年生まれ説も。

松平長親:松平氏の第5代当主。家康の高祖(祖父の祖父)。


【没】
山名教之:山名熙之の子。伯耆・備前守護。(1月16日没。享年不明)

伊勢貞親:伊勢貞国の子。室町幕府政所執事。(1月21日没。享年57歳)

山名宗全:守護大名。応仁・文明の乱の西軍総帥。 (3月18日没。享年69歳)

細川勝元:細川氏嫡流・京兆家の当主。幕府管領。応仁・文明の乱の東軍総帥。(5月11日没。享年44歳)

長尾景信:山内上杉氏の家宰。古志長尾氏とは別人。五十子の戦いで陣没。(6月23日没。享年61歳)

上杉政真:扇谷上杉家当主。上杉顕房の子。相模国守護。五十子の戦いで敗死。(11月24日没。享年23歳)


【織田信長誕生まであと61年】



※主に戦国150年ニュース―戦国時代をフォーカス! (別冊歴史読本 (23))を引用・参考にさせていただいています。

1472年(文明4年) 〜山名宗全、切腹事件〜

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【天皇:後土御門(103代)、将軍:足利義政(8代)】

1月15日、西軍・山名宗全が東軍・細川勝元に和睦を提案。

1月16日、西軍・山名方は畠山義就や大内政弘らすべてが賛同したものの、東軍細川方では赤松政則が強硬に反対し和平交渉は決裂。

1月21日、和平交渉決裂による絶望のためか、宗全が切腹。家臣らに引き留められ一命は取り留める。※5月だったという説もあり。

2月、関東では古河公方・足利成氏が結城氏らの支援を得て古河城を奪還。

3月16日、細川勝元が隠居しようとするが家臣に引き留められる?

8月6日、朝倉孝景、南条郡府中(武生市)の越前守護所にいた西軍の甲斐八郎や守護・斯波義敏の子・松王丸らを攻める。甲斐・斯波方が敗北し京都や近江・加賀などに落ち延びる。

8月14日、朝倉孝景、越前府中に入る。

8月、山名宗全、隠居。孫(子という説もあり)の政豊に家督を譲る。

9月3日、近江・坂本の馬借が蜂起。日吉十禅師社の下殿を焼く。

9月25日、山城国土一揆が奈良に乱入し、薬師寺などを焼く。

10月3日、幕府が朝鮮に使節を派遣。

12月2日、松王丸元服。斯波義良(よしすけ)と名乗る。


【その他の出来事】
12月、一条兼良の『花鳥余情』 (中世の『源氏物語』の注釈書)成立。
・中禅寺の宝殿修復が行われる。
・周防国庁が焼失する。

【生】
近衛尚通:政家の子。右大臣や関白・太政大臣など歴任。(10月12日)
佐野秀綱:佐野盛綱の子。下野国・佐野氏12代当主。

【没】
鷹司房平:右大臣鷹司冬家の子。内大臣や右大臣・左大臣・関白など歴任。(11月16日没。享年63歳)


【織田信長誕生まであと62年】



※主に戦国150年ニュース―戦国時代をフォーカス! (別冊歴史読本 (23))を引用・参考にさせていただいています。

和田合戦と朝倉敏景の越前国盗り

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長禄3(1459)年7月23日、態勢を立て直した守護・斯波義敏派の堀江利真は越前に侵攻。坂井郡長崎に着陣。

8月11日、越前国足羽郡和田荘(福井市和田)にて朝倉敏景(英林孝景)を中心にした守護代・甲斐派の軍勢と堀江軍の戦いが始まります。甲斐派の軍には甲斐一族はじめ朝倉敏景や織田氏そして反利真の堀江一族が参戦。一方の堀江軍には、利真の兄弟や越前国人衆さらに反敏景の鳥羽・朝倉将景やその子・景正、朝倉景契、阿波賀・朝倉良景らが参戦。守護・斯波派と守護代・甲斐氏の戦いは朝倉氏や堀江氏の同族争いでもありました。

戦いは甲斐派が圧勝。堀江利真やその一族、そして反敏景の朝倉一族もことごとく討ち死に。守護代・甲斐派が越前を制圧するとともに朝倉敏景も朝倉一門を統一することに成功します。

12日、京で病床にあった守護代・甲斐常治は病没。越前の戦いの結末は知らぬままだったといわれています。

甲斐常治の死により甲斐派の中核だった朝倉敏景の立場は急浮上。
越前の守護は周防に追放された斯波義敏の子・松王丸(のちの義寛)が継いでいましたがわずか3歳。実権は朝倉敏景や甲斐常治の子・敏光が握っていました。

寛正2(1461)年9月、松王丸は朝倉孝景らの策で将軍・義政から廃嫡を命ぜられ、相国寺に預けられます。守護の座は、足利一門で斯波氏とも血縁がある義廉が継ぎます。ちなみに結婚の時期はわかりませんが義廉の妻は応仁文明の乱で西軍の大将となる宗全の娘と朝倉敏景の娘になります。

寛正6(1465)年12月3日 斯波義敏は赦免され息子松王丸とともに将軍・義政に拝謁。

文正元(1466)年7月24日、将軍・義政は政所執事・伊勢貞親の意見を容れ、斯波義廉を退け、再び義敏を斯波氏の惣領に立てたため、斯波家の内紛に発展。

8月25日、斯波義廉は斯波邸(武衛陣)の明渡しを拒否。義廉は防御を固め、義父の山名宗全も軍勢を差し向けます。

9月6日、 文正の政変で山名宗全に追われ伊勢貞親は京から逃亡。斯波義敏も近江に落ち延び再び斯波義廉が復権。

文政2(1467)年1月、山名宗全は斯波義敏を幕府管領職に推挙。これを義政は受け入れたため畠山政長は解任のうえ畠山家の家督も失います。

1月18日、畠山政長が上御霊社にて挙兵。
すでに書いたようにこれが応仁・文明の大乱のきっかけとなります。

4年後の文明3(1471)年、かねてより越前守護の座を狙っていた朝倉敏景は、西軍・山名方に属していましたが、東軍・細川勝元が越前守護の座と引き換えに東軍に着くよう持ちかけられ寝返り、越前を支配下におさめます。

朝倉敏景は越前守護・朝倉氏5代100年にわたる礎を築き、その子・朝倉宗滴は朝倉義景の代まで朝倉氏を支え続けることになります。

文明13(1481)年、敏景が54歳で没すると、当時の公家・甘露寺親長は「・・・格別に結構である。天下の悪事を始めた張本人である」と日記に記すなど多くの貴族や寺社・荘園領主の非難を浴びています。戦国大名の先駆けといわれる敏景の行動はやがて全国にも広がり150年近い戦乱の世を迎え織田信長はじめ多くの戦国武将が全国各地で活躍し歴史に名を残すことになります。

長禄合戦 〜越前守護・斯波義敏VS守護代・甲斐常治〜

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戦国大名の先駆者といわれる朝倉敏景(孝景)が越前(福井県)を支配するきっかけとなったのが、応仁・文明の乱が勃発する約10年前の長禄2(1458)年7月から長禄3(1459)年8月にかけて越前守護・斯波義敏と守護代・甲斐常治の間で争われた長禄合戦とそれにつづく和田合戦でした。


享徳元(1452)年9月1日、三管領筆頭で越前・尾張・遠江守護の武衛・斯波家当主・斯波義健が18歳という若さで死去。義健に子がなかったため一族の斯波(大野)持種の子・義敏が養子となり家督を相続します。しかし、実権は守護代の甲斐常治が握っており、義敏や堀江利真を筆頭とする越前の国人衆はこれに不満を抱いていました。

康正2(1456)年5月、義敏は守護代の専横に堪りかね幕府に直訴。しかし、この頃各地の守護の台頭に頭を悩ましていた幕府は、その力をそぐため守護代との連携を強める傾向にあり、義敏の訴えは退けられます。

康正3(1457)年1月、義敏は実父・持種と共に斯波家の菩提寺である東山東光寺に籠ってしまいます。

一年余り、緊迫した状況が続く中、幕府は鎌倉公方・足利成氏討伐を計画し、総大将を管領職の義敏に命じるため甲斐常治に和睦を斡旋。

長禄2(1458)2月29日、常治が義敏方の国人の所領を返還することで両者は和睦。義敏は幕府に出仕。

6月、幕府は義敏や甲斐氏に関東への出陣を命じます。義敏は近江まで進軍しますが越前の情勢が不安定なため動けずにいるところ、京にいた常治が病に臥せったとの情報を得ます。

7月、これを好機ととらえた義敏派の越前国人衆が蜂起。長禄の合戦が勃発。しかし、甲斐派の反撃にあい敗退。

8月、義敏は配下の堀江利真に命じ越前・敦賀城を包囲。緒戦、優勢だった甲斐派の勢力は敗北。甲斐一族や配下の者は越前から逃げ出します。

11月、病床の常治は息子・敏光に命じ、同じ家老職の朝倉孝景や織田氏と手を組み反撃に転じますが、堀江利真の頑強な抵抗により越前侵攻は進みませんでした。

長禄3(1459)年、越前の内乱の長期化を危惧した幕府は再び両者に和睦を持ちかけます。甲斐氏はこれを受け入れましたが、義敏は無視して甲斐派を攻撃しますが敗退。将軍・足利義政は関東に出兵せず守護代を攻めたことに激怒し、守護代甲斐氏に味方します。

2月、堀江利真は甲斐派の朝倉教景(敏景の祖父)が守る一乗谷を攻撃。阿波賀木戸口で合戦になりますが教景が利真を退けます。

5月13日、義敏軍は1万もの軍勢で甲斐方の敦賀城を攻撃。守備兵わずか200人ほどでしたが、悪天候のため大敗を喫します。さらに近隣諸国から将軍・義政の命を受けた軍勢が越前に侵攻。朝倉敏景も北ノ庄に着陣。堀江利真は大敗し国外に脱出、斯波義敏も降伏。守護職を解任された上追放され周防の大内氏のもとへ落ち延びます。

長禄合戦は守護代・甲斐常治の勝利に終わりますが、斯波義敏の家臣・堀江利真は反撃の機会をうかがっていました・・・

1471年(文明3年) 〜下剋上、朝倉敏景や長尾景信の台頭〜

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【天皇:後土御門(103代)、将軍:足利義政(8代)】

3月、古河公方・足利成氏派の小山・結城・千葉氏らが伊豆国三島の堀越公方・足利政知を攻める。古河公方派が序盤優勢であったが、山内上杉氏の援軍を得た堀越公方派が反撃。古河公方派は壊滅・敗走。

4月、太田道真(道灌の父)、上野国・舞木城を攻略。
4月、山内上杉氏の家宰で越後守護代の長尾景信(古志長尾氏当主とは別)、下野国に攻め入り、赤見城や樺崎城を攻略。

5月21日、将軍・足利義政、東軍・細川方に寝返った朝倉敏景(孝景)に越前守護への補任を密約。以後、越前平定に向け対立勢力と攻防を繰り返す。

5月23日、東軍に味方する長尾景信、古河公方の上野国館林城、館林舞木城を攻略。

5月30日、将軍・義政、越後守護上杉房定ら関東や奥羽諸将に古河公方・成氏討伐を命じる。長尾景信が古河公方・足利成氏を攻め居城・古河城を包囲。

6月24日、古河公方・成氏、下総・千葉孝胤のもとに逃走。

7月27日、本願寺法主・蓮如、越前・吉崎に北陸布教の拠点となる道場・吉崎御坊を設立。

8月26日、西軍山名氏が南朝皇胤・小倉宮を擁立。

閏8月、毛利豊元(元就の祖父)、京から領国に帰国すると、幕府への不信感から西軍に寝返り、大内政弘に従い旧領奪還。

9月11日、敏景、池田荘の池田勘解由左右衛門尉を攻める。

11月5日、幕府、薩摩・島津立久に琉球渡航船の取り締まりを命じる。

12月26日、大内道頓が豊前・馬岳城で自刃。

【その他の出来事】
1月、郡上八幡の歌人・東常縁(トウ ツネヨリ)、飯尾宗祇(ソウギ)に古今伝授を許す。
9月12日、桜島(向島)が噴火。文明大噴火。多数の死者が出る。

【生】
武田信縄:甲斐守護職武田家の第17代当主。信玄の祖父。

千葉勝胤:本佐倉城城主。

伴野貞祥:武田信玄家臣。信濃国前山城主。

長尾為景:越後守護代・越中国新川郡分郡守護代。上杉謙信の父。

二条尚基:公卿。二条政嗣の子。



【没】
北畠教具:伊勢国司北畠家の第4代当主。東軍所属。病死。(3月23日、享年49歳)

武田信賢:若狭武田氏の第2代当主。東軍所属。病死。(6月2日、享年52歳)

栂野和泉守:朝倉敏景(孝景)の家臣。池田荘攻めの際、討ち死に(9月11日、享年?)

山名豊之:伯耆守護。足利義政の御供衆。西軍所属。謀反により謀殺。(9月、享年?)

大内道頓:大内持盛の子。東軍所属。自刃。(12月26日(※1472年)、享年42歳)


【織田信長誕生まであと63年】



※主に戦国150年ニュース―戦国時代をフォーカス! (別冊歴史読本 (23))を引用・参考にさせていただいています。

1470年(文明2年) 〜大内政弘VS道頓 大内家の分裂〜

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【天皇:後土御門(103代)、将軍:足利義政(8代)】


1月14日、西軍山名勢、鳥取尾山の山名是豊を攻めるも敗北。

2月9日、大内政弘が上洛しているすきを狙って叔父・大内道頓(教幸)が赤間関にて挙兵。東軍細川陣営に加わる。東軍の細川勝元が大内家の分裂を狙ったもので、道頓は実子で政弘の養子となっている嘉々丸の安堵を求める。

3月、大内道頓、西軍・大内政弘に従っている重臣・陶弘護と仁保盛安を調略。仁保盛安が東軍に寝返る。

4月26日、大内政弘に従っていた仁保盛安の子・十郎も東軍に寝返る。

4月30日、西軍・山名方の畠山義就が東軍の拠る山崎を攻めるため鳥羽に布陣。

5月4日、淀にて東西両軍激突。

5月19日、摂津国・中島に大内政弘と共に陣を構えていた宗全の子・山名政豊と仁保弘有が東軍に寝返り兵を退く。この年、弘有は嫡子・護郷に家督を譲って隠居。

5月20日、東軍の野田泰忠や薬師寺与次らが摂津国茨木城を攻略。

5月22日、将軍・足利義政が道頓に大内家の分国の安堵状を与える。

6月18日、西軍の筑前国・麻生弘家の一族麻生家延が東軍・大内道頓に呼応し、弘家の被官を討つ。

7月19〜21日、西軍・大内政弘軍が勧修寺や醍醐寺を焼き打ち。山科などで合戦。

7月23日、大内政弘、南山城・綴喜郡八幡に下向。

8月10日、二条政嗣が関白に任ぜられる。

9月22日、京極氏の被官で東軍細川方の多賀高忠が西軍六角高頼に敗れ、近江国が西軍の勢力下になる。

?月、周防国にて大内政弘の重臣・陶弘護が京より帰国した益田貞兼と共に大内道頓と吉見信頼らの軍を撃破。道頓、吉見の領国石見に逃亡。この年、陶氏により若山城が築かれる。


【この年の他の出来事】
外交僧瑞渓周鳳が著した3巻から成る対外交渉についての書『善隣国宝起』(ゼンリンコクホウキ)が成立。余談、信長の野望・蒼天録の家宝の一つとして登場。
※前回記事で誤って1469年成立としていました。申し訳ありません。

9月、朝鮮国王・世祖が対馬国島主に使船の数の順守や渡航許可の濫発防止などの通交是正を求める。


【生】
姉小路済継:飛騨の大名で、姉小路基綱の嫡男。
佐竹義舜:常陸国の戦国大名。佐竹氏の第15代当主
塩谷孝綱:下野国の戦国武将。別名・泰綱。宇都宮正綱の四男。
天室光育:越後の僧侶。林泉寺六代住職。上杉謙信の師父。


【没】
島津忠国:島津氏第9代当主。(1月20日、享年64?)

逸見繁経:若狭武田氏被官逸見氏の一族。(7月19日、享年?)

京極持清:近江守護。京極高光の子(8月4日、享年64)

酒井氏忠:西三河の豪族左衛門尉系酒井氏の祖。(10月11日、享年?)

畠山政国:総州家。越前にて朝倉孝景に謀殺される(10月、享年?)

後花園法皇:第102代天皇。彦仁(ひこひと)。(12月27日、享年52)

北郷持久:日向守護島津氏の有力支族である北郷氏5代当主。(?)


【織田信長誕生まであと64年】



※主に戦国150年ニュース―戦国時代をフォーカス! (別冊歴史読本 (23))を引用・参考にさせていただいています。

1469年(応仁3年・文明元年) 〜「応仁」から「文明」へ〜

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【天皇:後土御門(103代)、将軍:足利義政(8代)】


1月8日、足利義視が山名宗全邸に「御成」。西軍諸将に馬や太刀を下賜。

3月14日、足利義視、山名宗全邸に再び「御成」。

4月28日、「応仁」から「文明」に改元。

6月16日、摂津の国人、36氏が大内政弘の配下となる。

7月12日、将軍・足利義政は大友親繁に豊後を与え、隣国大内領侵攻を命じる。親繁は対馬に逃れていた少弐頼忠らとともに大内教幸を擁して豊前や筑前・肥前に攻め入りる。

8月13日、雪舟らが乗り込む遣明船が帰国。摂津が大内氏に占拠されたため土佐に入港。

9月、備中領民の蜂起。細川勝元の入国を拒絶。
10月16日、西軍・山名宗全の子でありながら父と対立し東軍に与した山名是豊や赤松政秀らが摂津へ攻め入り大内軍を撃破。


【この年の他の出来事】
東軍・細川勝元に与する赤松政則が置塩城を築城。置塩城の建材は約100年後、姫路城に転用されることになる。


【生】
葛西晴重
九条尚経
相良長毎
高辻章長
長尾景長
矢部宗春


【没】
伊達持宗:伊達氏の第11代当主(1月8日、享年77)
大森頼春:小田原城の築城主。(1月18日、享年?)
尚徳王:琉球王国の第一尚氏王統の第7代国王(4月23日、享年29)
一条政房:一条教房の長男。従二位権大納言。(10月17日、享年27?)
長尾頼景:越後国守護代。 上杉謙信の高祖父(おじいちゃんのおじいちゃん。9月、享年79)。


【織田信長誕生まであと65年】



※主に戦国150年ニュース―戦国時代をフォーカス! (別冊歴史読本 (23))を引用・参考にさせていただいています。

管領畠山家の家督問題とは

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八代将軍足利義政とその弟・義視が東西両陣営に分かれたことで応仁・文明の乱は長期化の様相を呈していきますが、乱のきっかけとなったのは畠山義就と政長による管領家相続問題に端を発したものでした。

畠山義就の父・持国は応永5(1398年)年生まれ。30歳を過ぎて子が出来なかったため弟・持富を後継者とすることを決めていました。しかし、永享9(1437)年頃、側室が義就を生んだことで状況は大きく変わります。持国は実子・義就に跡を継がせたいと考え持富を廃します。しかし、重臣の反対にあい持国は持富の子・弥三郎政久を養子とすることで事態をいったん収束させます。しかし、すでに家中は義就派と弥三郎派に分裂し対立。

宝徳4(1452)年、持富は死去。
享徳3(1454)年、一旦は義就派が実権を握りますが、弥三郎派は細川勝元や山名持豊(宗全)らの支援を受けさらに将軍・足利義政もこれを支持し勢力を盛り返し、持国・義就父子は伊賀に落ち延びます。義就は将軍・義政を頼り上洛。弥三郎を支持していた義政は義就支持に態度を変えたため形勢逆転。持国・義就父子が復権。

そんな中、享徳4(康正元年:1455)年3月、持国が死去。義就が管領家の家督を継ぎます。しかし、これに不満を持つ弥三郎派との対立は以後もつづき1459(長禄3)年に弥三郎が病死するとその弟・政長を擁立し対決姿勢を強めます。

寛正元(1460)年、畠山政長を細川勝元・伊勢貞親ら幕府有力者が支持したのを受け義政は今度は政長を畠山氏の惣領とし義就は失脚。

義政の一貫性のない“どこかの国の首相のような”この態度が、事態を悪化させていきます。

義就はこの後河内・嶽山城に籠り政長軍に抵抗。わずかな手勢で長期にわたり奮戦しますが寛正4(1463)年落城。義就はさらに大和に移り抵抗を続けます。

文正元(1466)年、細川勝元と対立した山名宗全は義就を担ぎ上洛し、勝元派の政長を失脚させます。

文正2(1467)年1月18日、政長は自らの館を焼き払い、上御霊社にて挙兵。翌朝、政長の敗走でこの戦い自体は終息しますが、山名宗全・義就(西軍)と細川勝元・政長(東軍)という対立構図が出来上がり数ヶ月後両軍は激突。応仁・文明の大乱が幕開け。

翌文正3年に将軍・義政(東軍)とその弟・義視(西軍)が両陣営に加担したことで京を中心に泥沼の戦いが始まります。さらに義政の妻・日野富子とその子・義尚が加わることで複雑な状況になっていきます。(ホント複雑すぎです・・・泣)

1468年(応仁2年) 〜将軍・義政と弟・義視の対立〜

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【天皇:後土御門(103代)、将軍:足利義政(8代)】


3月21日、西軍主力の山名持豊(宗全)や畠山義就・大内政弘・斯波義廉らが京・伏見の稲荷山を攻める。稲荷山に拠る東軍・細川勝元の足軽大将で盗賊集団の首領・骨皮道賢が朝倉孝景(宗滴の父)に討たれる。

4月、将軍・義政、伊勢に逃れていた弟・義視を京に呼び戻す。

5月2日、東軍・細川成之が尾張・越前・遠江の守護を兼ねる西軍・斯波義廉邸を襲撃。

7月15日(10日?)、斯波義廉は管領を罷免され代りに細川勝元が就任。

9月4日、東軍、仁和寺の西軍を攻撃。


9月22日、義視が諫書を将軍・義政に提出。日野勝光らの排除を訴えるも受け入れられず対立が深まる。

11月、幕府内で孤立した状況になった義視に勝元は出家を勧め比叡山にのぼらせる。

11月24日、義視が西軍・山名陣営に取り込まれる。西軍、洛外山科を攻撃。

12月5日、義視の官位剥奪。

12月19日、近江にある義視の所領没収。



【この年の他の出来事】


【生】
明智光継(5月20日)
宇都宮成綱
北畠材親
島津運久

【没】
骨皮道賢:盗賊集団の首領。東軍・細川勝元の足軽大将(3月21日、享年?)

京極勝秀:守護大名・京極持清の長男。西軍・山名氏に属す。(7月6日、享年37?)

小鴨之基:伯耆の武将。備前守護代。船岡山の戦い(後の永正の船岡山の戦いとは別)で討ち死(9月7日、享年?)

陶弘房:大内氏の重臣。陶盛政の次男。京都相国寺の戦いで討死(11月14日、享年20歳前後)

相良長続:相良氏の第11代当主。東軍・細川氏に属し、病没(享年58)

少弐教頼:少弐氏当主。少弐満貞の子。東軍に属し、九州にて大内軍と戦い敗北。筑前の高祖城において自刃(享年?)



【織田信長誕生まであと66年】


※主に戦国150年ニュース―戦国時代をフォーカス! (別冊歴史読本 (23))を引用・参考にさせていただいています。

1467年(文正2年、応仁元年) 〜応仁・文明の乱、勃発〜

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【天皇:後土御門(103代)、将軍:足利義政(8代)】

1月18日、畠山政長、上御霊社にて挙兵。畠山義就と管領家の家督相続を争い、応仁・文明の大乱のきっかけとなる。

3月5日、改元。元号が「文正」から「応仁」になる。

5月10日、赤松政則挙兵。細川勝元の支援を受け播磨に攻め込む。

5月26日、京にて細川勝元率いる東軍と山名持豊(宗全)率いる西軍が激突。応仁・文明の大乱勃発。

5月28日、将軍・義政が両陣営に停戦を命じるが不調に終わる。

6月3日、東軍・細川方に将軍旗が授けられる。

6月8日、義政の弟・義視が細川方征討軍の大将となり出陣。

8月23日、西軍・山名に与する周防・長門・豊前・筑前などを領する大内政弘が上洛し東寺に陣を構える。大内氏の上洛により、義視は伊勢へ逃れる。

9月1日、武田基綱と畠山義就が等持寺にて戦う。

10月3日、相国寺で東西両軍が戦う。


【この年の他の出来事】
禅僧で水墨画家として活躍した雪舟が遣明船に随行。
備中の農民が代官・大林氏打倒を計画。


【生】
6月1日、志道広良
以下月日不明
武田元繁
島津善久
大石定重


【没】
9月1日、正親町三条実雅(59)
9月6日、上杉持朝、死去(50)
9月9日、山名教豊、死去(46)
12月24日、佐竹義人、死去(68)


【織田信長誕生まであと67年】


※主に戦国150年ニュース―戦国時代をフォーカス! (別冊歴史読本 (23))を引用・参考にさせていただいています。
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