■伊勢新九郎盛時(宗瑞)
北条早雲といった方がなじみのある方も多いと思いますが、本人が存命中その名を名乗ったことはありませんでしたが、名前だけでなくその出自も謎が多かった伊勢新九郎。
一介の素浪人といわれたり、伊勢貞藤(貞親の弟)の子で父が浪人となり伊勢に下ったとか、備中出身で伊勢貞通の養子とされるなど、さまざまな説がありました。しかし、近年の研究で、その素性が徐々に解明されてきているようです。
父は幕府の申次衆・伊勢盛定。母は幕府政所執事・伊勢貞国の娘という説が有力のようで、一介の素浪人どころか逆に立派な血筋。文明13年頃には幕府申次衆さらにその数年後には奉公衆に任命されることになります。ちなみに備中出身は正しいようで備中荏原荘の半分を領する領主だったそうです。
今川義忠の正室は伊勢盛定の娘・北川殿なので義忠と新九郎は義兄弟問いことになります。義忠の嫡男・龍王丸(のちの氏親)は新九郎の甥ということになりますね。
■今川家家督問題
文明7(1475)年末から翌年正月ごろ、遠江の国人、横地秀国・勝間田修理亮は今川家と対立していた斯波義良と通じ今川家に敵対します。
文明8(1476)年2月(1月?)、今川義忠は、500の兵を率い、遠江の横地・勝間田討伐に出陣。横地城と勝間田城は、今川軍の攻撃で落城。横地秀国・勝間田修理亮は討ち死。ちなみに横地秀国の当時2歳だった子・元国は甲斐に落ち延び、武田信虎・信玄・勝頼の三代に仕え滅亡後は徳川家康に仕えることになります。
2月6日、今川義忠は帰国の途上、遠江にて横地・勝間田残党の一揆に襲撃され、抗戦するも討ち死。
残されたのが6歳の嫡男・龍王丸(のちの氏親)。幼いことを理由にその家督相続反対派は、義忠の従兄弟・小鹿範満を擁立。両者は対立します。
堀越公方・足利政知(前将軍・義政の弟)の執事・犬懸上杉政憲は孫に当たる範満を今川家の家督に据えようと画策。扇谷上杉家家宰・太田資長(のちの道灌)とともに兵を率い駿河に向かいます。
この一触即発の状況の中、京から伊勢新九郎盛時が調停のために下向。龍王丸・小鹿範満両派を説得。龍王丸が成人するまで範満が家督を代行するという調停案が受け入れられなければ一戦を交える覚悟であることを告げます。上杉政憲や太田資長もこの案に納得し両派は和睦。
11年後のこと。小鹿範満は龍王丸が成人しても家督を返上せず、長享元(1487)年、伊勢盛時は再び駿河に下向。11月、龍王丸とともに挙兵。駿河館を攻め範満を討ち取ります。
この功により興国寺城を与えられ今川家の家臣となった伊勢盛時は、この城を拠点に5代100年にわたる関八州の覇者・後北条家の礎を築くことになります。
北条早雲といった方がなじみのある方も多いと思いますが、本人が存命中その名を名乗ったことはありませんでしたが、名前だけでなくその出自も謎が多かった伊勢新九郎。
一介の素浪人といわれたり、伊勢貞藤(貞親の弟)の子で父が浪人となり伊勢に下ったとか、備中出身で伊勢貞通の養子とされるなど、さまざまな説がありました。しかし、近年の研究で、その素性が徐々に解明されてきているようです。
父は幕府の申次衆・伊勢盛定。母は幕府政所執事・伊勢貞国の娘という説が有力のようで、一介の素浪人どころか逆に立派な血筋。文明13年頃には幕府申次衆さらにその数年後には奉公衆に任命されることになります。ちなみに備中出身は正しいようで備中荏原荘の半分を領する領主だったそうです。
今川義忠の正室は伊勢盛定の娘・北川殿なので義忠と新九郎は義兄弟問いことになります。義忠の嫡男・龍王丸(のちの氏親)は新九郎の甥ということになりますね。
■今川家家督問題
文明7(1475)年末から翌年正月ごろ、遠江の国人、横地秀国・勝間田修理亮は今川家と対立していた斯波義良と通じ今川家に敵対します。
文明8(1476)年2月(1月?)、今川義忠は、500の兵を率い、遠江の横地・勝間田討伐に出陣。横地城と勝間田城は、今川軍の攻撃で落城。横地秀国・勝間田修理亮は討ち死。ちなみに横地秀国の当時2歳だった子・元国は甲斐に落ち延び、武田信虎・信玄・勝頼の三代に仕え滅亡後は徳川家康に仕えることになります。
2月6日、今川義忠は帰国の途上、遠江にて横地・勝間田残党の一揆に襲撃され、抗戦するも討ち死。
残されたのが6歳の嫡男・龍王丸(のちの氏親)。幼いことを理由にその家督相続反対派は、義忠の従兄弟・小鹿範満を擁立。両者は対立します。
堀越公方・足利政知(前将軍・義政の弟)の執事・犬懸上杉政憲は孫に当たる範満を今川家の家督に据えようと画策。扇谷上杉家家宰・太田資長(のちの道灌)とともに兵を率い駿河に向かいます。
この一触即発の状況の中、京から伊勢新九郎盛時が調停のために下向。龍王丸・小鹿範満両派を説得。龍王丸が成人するまで範満が家督を代行するという調停案が受け入れられなければ一戦を交える覚悟であることを告げます。上杉政憲や太田資長もこの案に納得し両派は和睦。
11年後のこと。小鹿範満は龍王丸が成人しても家督を返上せず、長享元(1487)年、伊勢盛時は再び駿河に下向。11月、龍王丸とともに挙兵。駿河館を攻め範満を討ち取ります。
この功により興国寺城を与えられ今川家の家臣となった伊勢盛時は、この城を拠点に5代100年にわたる関八州の覇者・後北条家の礎を築くことになります。