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戦国時代

× Sengoku Walker



織田信長史

安土城炎上 〜天下を継ぐ者〜

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天正10(1582)年6月2日辰の刻(午前8時頃)、洛中で生き残った織田家臣の捜索を命じ、その日のうちに近江・勢田(瀬田:滋賀県大津市)に軍を進めます。

勢田城主の山岡景隆に降伏を勧めますが、景隆は信長の恩を理由に拒否。近江と京を結ぶ重要な橋である勢田橋と居城を焼き払い退去。
この景隆の行動は光秀の作戦を大きく狂わせ、近江進軍が難航したためその制圧に手間取り、備中高松から羽柴秀吉が光秀討伐に引き返してくる時間を与えてしまいます。

6月13日、山崎の合戦において光秀は秀吉軍に大敗。光秀は再起を図ろうと居城坂本に向かいますが、その途上土民の手により殺害されたといわれています。享年55とも67とも伝わります。

14日、本能寺の変後、安土城を守備していた明智秀満は、主君・光秀の敗報を聞き坂本城へ向かいます。

15日、安土城天主が炎上。この原因は、明智秀満軍の放火説や秀満退去後安土に入った信長の次男・信雄による放火説、または城下の火災の火が燃え移った説など諸説あり不明ですが、信長の天下の象徴であった安土城の天主閣は、信長同様炎と共に地上から姿を消します。完成してからわずか3年のことでした。

27日、羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興の間で織田家の家督相続と遺領配分を決める清州会議が開かれます。この中で勝家が推す織田信孝と秀吉が推す信長の嫡孫である三法師(のちの秀信)のどちらにするか意見が分かれますが、光秀討伐の功績があった秀吉はこの会議で主導権を握っており、織田家の家督は秀吉が主張する三法師が相続することになります。この時、三法師わずか3歳(数え年)。

三法師は安土城を相続。しかし安土城は焼失していたため復旧工事が進められ仮館完成までの間、美濃を相続した信長の三男・信孝の居城・岐阜城に預けられます。

10月、信長の葬儀をめぐり秀吉と信孝は対立。

12月、信孝は挙兵しますが秀吉に敗北。


12月21日、三法師は岐阜城から仮館の建つ安土城に移ります。この後、三法師は秀吉に実権を握られ、天下統一事業は秀吉の手により成し遂げられます。

                                     【織田信長史・完】


〜あとがき〜
2005年2月連載開始から3年9か月。途中中断もありましたが長期にわたる連載を応援してくださった読者の皆様、そして同盟国の皆様ありがとうございました。
ブログは今後も今まで同様のんびりペースで更新していくつもりなので引き続きよろしくお願いします。

二条御所合戦 〜其の二 織田信忠自刃〜

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天正10(1582)年6月2日、誠仁親王一家の退去とともに織田信忠の籠る二条御所を取り囲んでいた明智軍の攻撃が再開されます。
圧倒的な兵力差がありながら、信忠軍は奮戦。

信忠軍の中に小沢六郎三郎という者がいましたが、小沢は本能寺の信長のもとに間に合わず親しい町民らがとめたにもかかわらず明智軍にまぎれて信忠軍に合流。
信忠のもとには小沢同様、信長の救援に間に合わなかった者も多く参陣したようです。

一方の明智軍は、本能寺襲撃時は相手が信長であることを知らなかった者も多かったようですが、二条御所を襲撃する頃には多くの者が自分たちが相手にしているのが織田軍であることを認識したと思われます。信忠配下の者に顔なじみの者もいたかもしれません。そのような要因もあったのかわかりませんが、優勢であるはずの明智軍は苦戦を強いられます。

信忠軍は死傷者を多く出しながらも数度にわたり明智軍を撃退。明智軍の先鋒を務めた明智孫十郎が討ち死。明智光忠は銃弾を受けて負傷するなど明智軍も死傷者が続出します。
思わぬ苦戦に明智軍は二条御所の隣の近衛前久邸の屋根に上り、鉄砲や弓で攻撃を仕掛けてきます。これを機に信忠軍は一気に崩れていき明智軍は二条御所に乱入。

信忠は、前田玄以に岐阜城にいた嫡男・三法師(信長の孫。のちの秀信)を保護し清州城に匿うよう指示。自らは叔父の織田長益(有楽斎)の進言もあり自刃を決意。「腹を切ったら遺体を床下に隠せ」と命じ鎌田新介の介錯により切腹して果てます。享年26歳。
前年、武田家より送り返されたばかりの弟・勝長や叔父で信長の末弟である織田長利・村井貞勝父子、その他菅谷長頼・猪子高就・団忠直・毛利良勝・斎藤新五郎・佐々清蔵・福富秀勝・小沢六郎三郎など多くの者が信忠と運命を共にします。

さらに戦いに参戦できなかった織田家臣・松野平介や土方次郎兵衛などのように信長・信忠の後を追って切腹して果てる者もいました。

そんな中、信忠に切腹を勧めた織田長益は女装して二条御所から逃亡したといわれ、のちに「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」という狂歌で京の町衆の笑い者となります。しかし、その子孫は織田家を大名家として存続させ江戸時代を生き抜くことになります。

織田長益は討ち漏らしたものの最大の目的である信長・信忠父子を討ち果たし明智光秀の謀反はひとまず成功しますが、その天下はわずか11日後、終焉を迎えることになります。

二条御所合戦 〜其の一 織田信忠、最大の決断〜

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天正10(1582)年6月2日、明智光秀の軍勢が本能寺に宿泊する信長を襲撃したとの情報はすぐさま妙覚寺に宿泊する嫡男・信忠に知らされます。信忠はすぐに本能寺に救援に向かおうとしますが、本能寺付近に邸宅を構えていた村井貞勝父子三人が駆け付け信忠に「すでに本能寺は敗れ炎上、敵はこちらにも迫るでしょうから二条御所に立て籠もるのが良いでしょう」と進言。

本能寺と妙覚寺の直線距離600m。道成りに行っても1km弱ということなので、成人男性が走れば5分程度、甲冑を着けていても10分程度?馬で知らせに駆けつければ数分の距離ということを考えると本能寺での戦いは実際は30分もかからなかったのかもしれません。

信忠に対し、安土まで引き態勢を整えた上で明智討伐をするよう進言する者もいたようですが、信忠は「これほどの謀反だから敵は手を打っているだろう。雑兵の手にかかるよりは、ここで切腹するほうがよい」ということで二条御所で明智軍を迎え撃つ決意を固めます。

実際は明智軍は安土への街道は封鎖しておらず、この後二条御所から信長の弟・織田長益(有楽斎)は脱出に成功しており、信忠は最大の判断ミスを犯したように思われますが、光秀は“唐櫃越え”といわれる老ノ坂とは別ルートで明智光忠らの別動隊を京に進軍させ信忠が宿泊する妙覚寺も同時に襲撃する計画でしたが別動隊は進軍に難航して同時に襲撃できなかったという説もあり、これが事実であれば信忠の判断は決して誤ったものでもなかったのかもしれません。

二条御所には、この頃、皇太子の誠仁親王一家が住んでいましたが、信忠軍が駆け込んだことにより明智軍に包囲されます。信忠方と明智軍の間で交渉が行われ誠仁親王一家が無事退去するまで一時休戦となります。一時は死を覚悟した誠仁親王の退去により明智軍の攻撃は再開。

信忠軍1000人前後または多く見積もってもその倍程度。明智軍は本能寺の焼け跡で一部が信長の遺体を捜索していたものの大部分が二条御所に集結。

織田信忠、6年前の天正4(1576)年、信長から織田家の家督をすでに譲られており秋田城介にも任官。武田討伐も実質総大将として信長の手を借りることなく勝利に導き、信長の期待に見事に応え、立派に成長した信長後継者の最後の戦いが始まろうとしていました。

本能寺の変 〜其のニ 信長死す!夢幻の如く・・・〜

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信長・本能寺の変の図(画・ろくまめ様)天正10(1582)年6月2日未明。明智光秀の軍勢は、当時の京の町境に設置された木戸を押し開け、ある者は森や竹藪などを進み、本能寺を包囲。そのざわめきで信長は目を覚まします。

信長や小姓らは、初め喧嘩騒ぎでも起こっているものと思っていたようですが、鬨(とき)の声が上がり鉄砲を撃ち込まれ、ようやく異変を感じ森乱丸が様子を見に行きます。

森乱丸の報告で明智光秀の謀反であることを知った信長は
「是非に及ばず」−是非を論ずるまでもない。もはや行動あるのみ!(藤本正行氏の解釈 『信長は謀略で殺されたのか』 より)−
と一言発し、すぐさま小姓らを集め防戦態勢を整えます。
信長は死を覚悟したのではなく、最大の危機を迎えながらもけっして天下統一の夢をあきらめませんでした。「この場を持ちこたえれば(直線距離でわずか600メートルという距離にいる)信忠軍や京都所司代の村井貞勝の軍勢など総勢2000前後が駆けつける」そのような考えだったかもしれません。

攻め寄せる明智軍1万3000。光秀は別動隊を編成していたという説もあり、それを差し引いたとしても1万近い兵が本能寺を包囲。対する本能寺内の信長の手勢下働きの者を含めても100人前後。

当時明智軍に加わっていた本城惣右衛門の覚書から推測すると、本能寺北側から先鋒の明智秀満の軍勢が御殿へ討ち入り、南側の正門から惣右衛門ら斎藤利三配下の者が討ち入り、利三の息子の軍勢は北側の主戦場である信長の御殿へ向かったようです。

南側にある表御堂に詰めていた御番衆も御殿へ向かい信長と合流。御厩にも明智軍が乱入。混乱の中、矢代勝介や伴太郎左衛門・伴正林・田村吉五が抜け出し信長のもとへ向かいますが討ち死に。矢代は関東出身だったので逃げるよう他の者から勧められますが信長の恩に報いるため討って出たようです。

御厩で奮戦した、御中間衆、藤九郎・藤八・岩・新六・彦一・弥六・熊・小駒若・虎若その息子小虎若ら24人が討ち死に。

御殿では信長が弓を取り戦い、森乱丸成利・坊丸長隆・力丸長氏ら小姓衆も信長を守って奮戦。
町中の宿舎で異変を知った湯浅甚介や小倉松千代は明智軍にまぎれ信長のもとに駆けつけ討ち死に。台所口では高橋虎松がしばらく明智軍を押しとどめながらも討ち死に。

『信長公記』にその名は出てきませんが黒人家臣の弥助も信長とともに戦っていたともいわれ、明智軍に捕らえられ外国人であるため許された。あるいは本能寺を脱出し信忠のもとへ駆けつけたともいわれていますが、弥助のその後の消息は不明です。

信長は弓を二つ三つと取り換えながら矢を射続け、弓が使えなくなると槍で戦い続けますが 安田作兵衛の?槍を肘に受け退散。後追う作兵衛に乱丸が十文字の槍で挑み一撃を与えるも反撃され討ち死に。享年18歳。

命運尽きたことを悟った信長は女房衆に退去を命じると燃えさかる御殿の奥に入り、納戸の戸を閉め自刃。享年49歳。信長が好んで舞った幸若舞の一節『人間五十年〜』に及ばぬこと一年、信長の天下統一の夢は幻の如く消えました・・・

森三兄弟や矢代・湯浅・小倉・高橋の他、信長と運命を共にした主な者の名は小河愛平・金森義入・菅屋角蔵・魚住勝七・武田喜太郎・大塚又一郎・狩野又九郎・薄田与五郎・今川孫二郎・落合小八郎・伊藤彦作・久々利亀・種田亀・山田弥太郎・飯河宮松・祖父江孫・柏原鍋兄弟・針阿弥・平尾助・大塚孫三。

圧倒的な兵力差の前に本能寺での戦いは短時間(1時間前後か?)で終わったようで、本能寺から離れた場所を宿所としていて信長の救援に間に合わなかった馬廻衆やその他の織田家臣らは妙覚寺の信忠のもとに向かい明智軍と最後の一戦を交えることになります。


※今回の挿絵は、ろくまめ様に頂きました。ありがとうございます!
尚、タイトルは管理人が勝手につけさせてもらいました。

本能寺の変 〜其の一 敵は本能寺にあり!〜

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明智光秀 (本徳寺蔵)天正10(1582)年6月1日夕刻。明智光秀は、大将格の家臣を集め「森乱丸の使者が来て上様(信長)が中国出陣前に閲兵を行うので京へ向かう」と告げます。これはもちろん京へ軍勢を向けることを不審に思われないようにするための虚報だと思われますが、これを事実とし明智軍を京へ呼んだのは信長自身だったと考えておられる研究者(作家)の方もおられるようです。

『信長公記』では「老の山へ登り山崎廻りで摂津を進軍」し、備中方面へ向かうと告げたとなっています。

この後、丹波亀山(城内または出陣して間もなく)にて光秀は、信長打倒計画を重臣に打ち明けます。謀議に加わったのは、娘婿の明智左馬助秀満・従兄弟の明智次右衛門光忠・光秀の傅役であったといわれる老臣・藤田伝五行政斎藤内蔵助利三、これに溝尾勝兵衛茂朝も加わっていたとも言われています。

当初、反対する者もいたようですが、光秀は「同意してくれなければ一人で本能寺に切り込み切腹して果てる覚悟である」との強い決意に最終的には謀反に同意。
『当代記』によれば起請文を書き、人質もとったとされています。

酉の刻(午後6時頃)、明智軍は、亀山の東・柴野に差し掛かり、この地で光秀は軍を三隊に分けます。
第一陣は明智秀満率いる4000。
第二陣は明智光忠・藤田伝五・溝尾勝兵衛率いる4000。
第三陣は光秀、自ら率い、斎藤利三らが従う5000。


夜、前日まで降り続いた雨でぬかるんだ丹波街道を明智軍は京に向かい進軍。老ノ坂を越え沓掛に到着。光秀はここで兵馬を休め、その間に天野源右衛門を先発して京に向かわせ偵察及び明智軍を裏切り信長に報せに走る者を討ち取るよう命じます。

6月2日、天野隊は京に入って間もなく、まだ夜が開け切らない時間に農作業をしていた農民20人余りを早速切り殺したようです。

2日未明、天野隊から少し遅れて出発した本隊も桂川西岸に到着。光秀はここで全軍に戦闘準備をさせます。

「我が敵は正に本能寺に在り!」
『日本楽府』にでてくる有名な台詞がこの時の言葉ですがこれは著者・頼山陽の創作。

光秀がこの時、どのような言葉を発したか分かりませんが、斎藤利三配下に加わり本能寺を襲撃した本城惣右衛門は本能寺の場所すら知らず、この頃上洛していた徳川家康(実際には堺にいましたが)を討つものと思っていたようです。

このように明智軍1万3000のほとんどの者が、主君・光秀の真の狙いが信長であることを知らないまま桂川を渡り、京に乱入し本能寺を包囲。

静まり返った京の町に鳴り響く明智軍の進軍の音は本能寺で眠っていた信長らの目を覚まさせます。

“本能寺の変”直前の信長と織田家諸将

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天正10(1582)年6月1日、本能寺の変前日、織田家の主だった家臣たちはどこで何をしていたのでしょうか?

柴田勝家率いる北陸方面軍は、越中(富山県)の上杉氏の属城・魚津城攻めの真っ最中。勝家の配下には前田利家や佐々成政・佐久間盛政が従っていました。魚津城は、本能寺の変翌日の6月3日、織田軍の猛攻により落城しますが、本能寺の変の方に接した勝家らが撤退後、再び上杉方の奪われてしまいます。 

滝川一益は、武田氏を滅亡後の3月下旬から上野(群馬県)の厩橋城に入城し、越後の上杉景勝をけん制しつつ関東や東北の諸大名と外交を展開。5月中旬頃には、かねてから友好的であった伊達政宗の父・輝宗が武田攻めの勝利を祝し信長に大きな馬を贈っています。

河尻秀隆は、武田氏滅亡後その本領である甲斐に入国しますが、治安維持にかなり苦労していたようです。

信長の三男・神戸(織田)信孝を総大将とした四国遠征軍は、四国に向け出陣目前の状況。副将の丹羽長秀や津田信澄・池田恒興・高山右近・中川清秀らも各所領にて四国遠征の準備を終えて出陣の時を待っていました。

羽柴秀吉は備中の高松城を水攻め。援軍に駆けつけた毛利氏と対峙。毛利側から和睦を持ちかけられていたようですが、のらりくらりと交渉を引き延ばし、明智光秀やその後の信長や信忠率いる本隊の援軍を待っていたようです。

徳川家康は穴山信君(梅雪)と共に堺を見物中。6月1日は、堺商人・今井宗久邸や津田宗及で茶会。夜には堺代官・松井友閑邸で再び茶会と茶の湯の一日。この頃、信長が上洛したとの情報を得て(または茶会を開くとの連絡を受け?)、翌朝急遽、京に向け出発。途中で凶報に接することになります。

信長の次男・信雄は領国の伊勢・松ヶ島城で・・・何をしていたのでしょ?

そして信長本人ですが、久々の上洛で来客が殺到。本能寺にて?日中は公家や商人など多くの来客との面会に時間を費やしたようです。夕刻には一通り政務を終え、嫡男・信忠や村井貞勝そして小姓などの側近らと宴を催します。その後、碁の見物。この時、後に不吉の前兆といわれる“三却(サンコウ)”の局面になりますが、これは後の作り話の可能性が高いようです。

信長と信忠はしばし父子水入らず?の会話をした後、夜遅く信忠は宿舎としている妙覚寺に戻ります。その後、信長、就寝。傍らには、のちに『信長公記』の著者・太田牛一に本能寺の変の際の信長の状況を語ったと思われる女性もいたようですが、それは正室・濃姫では無いと思われます。

6月1日夜、丹波亀山城を出発した明智光秀は、恐るべき決意を胸に秘め、眠りについた本能寺の信長に迫っていました・・・

【関連記事】 「本能寺」前夜の三コウ、やっぱり虚構?

暦問題の再燃

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天正10(1582)年6月1日、この日、一度は収束したかと思われていた暦の問題を信長が再び蒸し返します。公家の勧修寺晴豊は日記に「これ信長むりなる事候」と記しています。

この問題は、この年1月に濃尾の暦者の訴えが発端になったようで、東国で多く利用され信長が慣れ親しんだと思われる「三島暦」と朝廷が定める公式の暦「宣明暦(京暦)」の間でこの年大きな矛盾が生じていました。それは三島暦ではこの年12月のあとに閏12月とするのに対し宣明暦では翌年1月のあとに閏1月を入れるというもので、元日が一ヶ月ずれるという大問題でした。

信長は、天下統一と共に多数存在する暦の統一も自分の政権下で成し遂げようと考えたかは不明ですが、この問題を解決しようと動きます。

1月29日、宣明暦を作っていた陰陽頭の土御門久脩と暦博士の加茂在昌を安土に呼び、これに濃尾の暦者も交えどちらの暦が正しいか討論させます。この討論の場には近衛前久も証人として立ち会ったようです。この日、かなり議論されたようですが結論はでませんでした。

2月3〜5日、京の近衛邸や京都所司代・村井貞勝邸で久脩と在昌に儒医で中国古典にも精通している曲直瀬道三も加わり再検討。宣明暦が正しいと判断。この結果を後日信長に報告。この問題は一旦、収束します。

6月1日、この日は日蝕だったようですが、宣明暦はこれを予測できなかったようで、信長は宣明暦に不信感を抱き再び暦問題を蒸し返したようです。

作暦は天皇の大権。これに信長が介入し朝廷との対立が在ったように思われる方もいるようですが、信長は天皇の権限を侵す意図は全く無く、純粋に正しい暦を知りたかった(または正しい暦で統一したかった)だけなのかもしれません。


※主に『検証 本能寺の変』(谷口克広著)を引用・参考にしました。

信長、最後の上洛 〜幻の大茶会〜

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天正10(1582)年5月29日申の刻(午後4時頃)信長は雨の中、京での馬揃え以来1年3ヶ月ぶりの上洛を果たします。

信長に付き従ったのは小姓衆ら30名ほど。下働きの者や女性などを含めても100〜150人程度だったでしょうか?少人数だったため信長は全く無警戒だったように思われますが、京には先行して上洛していた嫡男・信忠の手勢500や京都所司代の村井貞勝の手勢などもいて、本能寺の変の際、二条御所の戦いで信忠の下には信長の馬廻衆などを含めた1000〜1500程度の織田軍が駆けつけたということなので、2000前後の織田兵が信長周辺にいたと思われます。

安土城の留守を任された津田信益(織田信清の子。織田信長の従甥)・賀藤兵庫頭・野々村又右衛門・遠山新九郎・蒲生賢秀・山岡景佐らは中国方面への出陣準備をして待機するよう命じられています。しかし、安土留守居衆にこの後出陣の命が下ることは無く、主の信長が安土城に戻ることはありませんでした・・・

6月1日、信長は上洛に際し持ち運んだ38種もの名物茶道具を、京で挨拶に訪れた公家衆や博多の商人・島井宗室や神屋(神谷)宗湛らに披露。

このとき茶会が催されたという話もありますが、それを明確に示す史料はないようです(『言経卿記』の6月1日条に茶について触れられているのみ)。
実際にはこの日以降(6月4日に信長は中国方面へ出陣予定だったので2日か3日か?)に予定されていた茶会の目録を示しただけで、茶会ではなく面会の際、茶を添えた程度だったようです。
予定していた茶会には家康を急遽、堺から呼び戻して行う予定だったとも伝わり、家康は京へ向かう途中、凶報に接したようです。


名物茶道具の多くが、本能寺の変の際、炎に包まれ灰燼に帰したようですが、『初花肩衝』や島井宗室によって運び出された掛け軸『千字文』など、難を逃れた名物もあったようです。


※歴史読本2008年8月号『幻に終わった最後の茶会』(田中秀隆著)を主に参照。
※茶会に関する内容を6月1日のことに訂正しました。申し訳ありません。

明智光秀、出陣 〜ときは今・・・〜

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天正10(1582)年5月26日、信長の命により羽柴秀吉を援護するため出陣準備をしていた明智光秀は準備を終え坂本城(滋賀県大津市)から中国方面へを出陣。まず、居城の丹波亀山城(京都府亀岡市)に入ります。

27日、愛宕山へ参詣。武神の勝軍地蔵を祀る愛宕大権現に戦勝を祈願。光秀は一晩愛宕神社に籠もりますが、このとき太郎坊の前でおみくじを二度三度引いた(吉凶は不明)といわれており、謀反を決断しかねていたのかもしれません。

『稲葉家譜』に従えば、この日、斎藤利三の一軒について裁定が下ったことになりますが、これから出陣しようとする明智軍に「那波直治の稲葉家返還」と「斎藤利三切腹」をどうして信長が告げたのかは疑問の残るところです。

また、この日付け文書で、京にいた織田信忠は家康と共に堺へ行く予定を取りやめ、上洛する信長を迎える旨、森乱丸に知らせています。
京と至近距離にいた光秀もこの情報を入手した可能性があり、信長と信忠を同時に討ち取る事ができる最大の好機と考えたかもしれません。


28日、光秀は愛宕神社・西坊威徳院にて戦勝祈願の連歌会「愛宕百韻」を催します。
参加したのは光秀のほか行祐(西坊威徳院住職)・宥源(上坊大善院住職)と連歌師
里村紹巴・里村昌叱・兼如や心前・行澄そして光秀の嫡男・十五郎光慶ら9人。


この時の光秀の発句
「ときは今 天が下しる 五月哉」

は多くの方が知る有名な句。

これはあからさまな決起声明。この百韻に集まったメンバーならそれが謀反の決意表明と分かったと思われるそうです。なぜメンバーの一人ぐらいは信長に光秀の不穏な動きを知らせなかったのか?それとも純粋に毛利攻めの事を詠んでいると考えたのでしょうか?

ちなみに百韻を締めくくる、このとき13か14歳といわれる十五郎光慶の挙句
「国々は猶(なお) のどかなるころ」

同日、光秀は亀山帰城。光秀は同日付けで中国地方の武将へ挨拶と中国方面へ出陣の際の協力を要請する手紙を送っており、この時点でも光秀は中国方面へ本当に出陣するつもりだったか、または謀反を決断しきれていなかったのかもしれません。

29日、光秀は中国方面へ武器弾薬などの物資輸送。この月は29日までということで本能寺襲撃の二日前ということになります。

斎藤利三事件 〜稲葉家臣騒動〜

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信憑性にやや難があるとされる『稲葉家譜』に、「本能寺の変」4日前に裁定が下った明智家と稲葉家の家臣をを巡るある騒動が記されています。

天正10(1582)年5月27日付けで、信長の裁定を伝えるため堀秀政が記した稲葉貞通(一鉄の次男)宛ての文書には、稲葉家を出て明智家に仕えていた「那波直治を稲葉家に返還する」「当面の扶持は信長が扶助する」といったことが書かれています。

那波直治よりも前に斎藤利三も同様に稲葉家を去って明智光秀に仕えており、稲葉一鉄・貞通父子は、立て続けに明智家に家臣を引き抜かれたような形になって、外聞も悪いので信長に返還要求の訴訟を起こしたようです。

那波直治はこの裁定に従い、稲葉家に戻されたようですが、利三に対しての信長の裁定は、自刃を命じるものでした。しかし、これは斎藤道三の旧臣で信長に仕え、利三とも親交が深かったと思われる猪子兵助の取り成しで死罪を免れ、利三は引き続き光秀に仕えることを許されることになったようです。(文書の日付を考えると解決したのは本能寺の変前日ぐらいになるような気がしますが・・・?)

斎藤利三は、義妹が四国の長宗我部元親に嫁いでいる間柄でもあり、上記の件が事実であれば、四国討伐目前のこの状況で、信長に不満を抱いていた斎藤利三が同じく四国政策に不満を持っていたと思われる主君・明智光秀に信長打倒をけしかけた可能性も否定できないかもしれません??


稲葉家と斎藤利三といえば、稲葉正成に嫁ぎのち徳川三代将軍・家光の乳母となる利三の娘・お福(後の春日局・母は一鉄の娘とも)が思い浮かびますが、『稲葉家譜』を著した稲葉正義が正成系稲葉家の人物か分かりませんが、真偽不明の“稲葉家臣騒動”ウソだとしたらどのような目的で、この件を書き残したのでしょう??

明智光秀の坂本帰国 〜続く家康饗応〜

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天正10(1582)年5月16日?備中高松城を攻めている羽柴秀吉の報せを受けた信長は、これを機に一気に毛利を討ち果たし、九州まで平定しようと考え、明智光秀をはじめ細川忠興や池田恒興・高山重友らを援軍の先陣として出陣させることを決めます。

17日、急遽、家康の接待役を外された光秀は出陣準備のため領国・坂本(滋賀県大津市)に帰国。他の武将らもそれぞれ領国に戻り出陣の準備を整えます。
光秀が帰国後も家康の饗応は続きます。

19日、安土山の宛寺にて信長はじめ近衛前久や徳川家康・穴山梅雪それに信長の近習らは、幸若大夫の舞を見物。信長はそのよいできに大変満足したようです。続いて翌日に演じる予定だった梅若大夫の能も見物。こちらは出来が悪く信長は立腹し、再び幸若大夫に舞を舞わせ、機嫌を直すと両名に褒美を与えます。

20日、安土城内の江雲寺御殿で宴席が設けられます。ここで信長は自ら家康の膳を運び家康らに敬意を表し、家康や梅雪の他、石川数正や酒井忠次らと共に食事をします。さらにこの時のことと思われますが、『家忠日記』では18日のことととなっていますが、「ふりもミかし」という茶臼で米を引き、その米粉で作った菓子を信長自身が茶臼を引き、家康家臣らに振舞うといったこともしたようです。

21日、信長は、家康や梅雪に京や堺などの見物を薦め、長谷川秀一を案内役とし、家康一行は上洛します。
信長は織田信孝と共に四国遠征が目前に迫っている状況の丹羽長秀と織田信澄に大坂での家康接待を命じ、二人は早速大坂に向かいます。

信長と家康、清洲同盟を締結してちょうど20年。これが二人の永遠の別れになりました。

三職推任 

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話が一ヶ月ほど遡りますが、『三職推任』の件は重要な問題なので触れておきたいと思います。完全に忘れていました(汗

この『三職推任』は公家の勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』(天正十年夏記)の天正10(1582)年4月25日と5月4日付けの部分で触れられています。


天正10(1582)年4月21日、信長は武田攻めから安土に凱旋。
信長の帰国を知った朝廷は早速勅使を派遣。

4月23日、武家伝奏(朝廷と武家の取次ぎ役)の勧修寺晴豊・庭田重保・甘露寺経元が勅使として安土に到着。信長は正親町天皇と誠仁親王からの戦勝祝の品を受け取ります。勅使は翌日、京に戻ります。

25日、勧修寺晴豊は、京都奉行の村井貞勝と面会。この二人の会話の中で「信長を太政大臣か関白か将軍に推挙する」という話題が出たようで、これが朝廷側から出た話なのか、信長側から出た話なのか、それとも村井貞勝が独断で提案したのかなど不明で、現在も論争になっている『三職推任問題』になります。

5月3日、朝廷は再び勧修寺晴豊と女房衆の上甼匹蕕魄妥擇貿標。

4日、勅使の晴豊らが安土に到着しますが、信長は直接会わず小姓の森乱丸に用件を尋ねさせます。晴豊は、「朝廷は信長を将軍に推挙する意向」であることを伝えます。

6日、度重なる晴豊の面会要請に応え、信長は直接晴豊らと対面しますが、『三職推任』の件に関して明確な返答をすることなく会談は終了。晴豊らは翌日帰途に着くことになります。

「本能寺の変」直前の上洛時、信長はこの件に関して何かしらの回答をするつもりだったともいわれいますが、変により信長が死去したため信長がどのような回答をするつもりであったか永遠の謎になってしまいました。


ちなみに管理人が企画したにほんブログ村のアンケート【『三職推任問題』 信長はどの官職を望んだか?】では、まだ11件(2008.7.18現在)と回答は少ないもののすべての方が、太政大臣・関白・将軍いずれの官職にもつく気は無かった(または別の官職を望んだ)との意見でした。回答してくださった皆様、ご協力ありがとうございます。

このアンケートは、今後も引き続きご意見をお待ちしていますので、興味のある方是非ご協力お願いします。

■にほんブログ村アンケート掲示板
『三職推任問題』 信長はどの官職を望んだか?

備中高松城水攻め

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備中高松城跡天正10(1582)年5月、安土に家康が訪れている頃、備中(岡山県西部)の高松城を攻めている羽柴秀吉は、危機を迎えていました。秀吉が備中に出陣したのは、この年3月15日ごろ。武田勝頼が自刃した4日後。

3月19日、秀吉は配下の宇喜多氏の城・沼城(岡山市)に入城。毛利方が対織田戦に備えて足守川(くもつ川・えつた川)周辺に築城した「境目七城」と呼ばれる七つの城、宮路山城・冠山城・備中高松城・鴨城・庭瀬城(以上岡山市)・日幡城・松島城(以上倉敷市)をいかに攻略するか検討を始めます。

4月11日、秀吉は、日幡城の城主・日幡六郎兵衛と毛利氏から派遣された上原元祐に調略を仕掛けます。六郎兵衛は拒否しますが、小早川隆景の義弟に当たる上原元祐は内通し、六郎兵衛の弟や家臣らを味方につけ六郎兵衛を謀殺。日幡城は秀吉の手に落ちます。

14日、秀吉は冠山城を攻め落とし、宮路山・鴨両城も陥落。敗走した兵らは備中高松城に逃げ込み城兵は、毛利氏からの援軍2千も含め5千になります。
さらに毛利氏からは、小早川隆景が出陣し、備中福山城(岡山県総社市)に布陣。秀吉も、備中高松城北方の竜王山に布陣。

27日、両者にらみ合いが続く中、秀吉は備中高松城に力攻めを仕掛けますが、周囲が沼に囲まれた城に攻めあぐね、3万もの兵を動員しながら惨敗を喫し退却。

5月上旬、再び力攻めを強行するも結果は同様。作戦を「水攻め」に切り替えます。
8日から堤防作りに着手。秀吉は莫大な資金を投入して周辺の領民らを雇い、12日後の20日頃には堤防工事は完了。
せき止めていた足守川の水を一気に流し込み、備中高松城はあっという間に周囲を水で囲まれ孤立します。

21日、このような状況下、毛利輝元率いる本隊が救援のため到着。これよりも早い時期に吉川元春も到着しており、秀吉軍は、兵力において劣勢にたたされます。

秀吉は備中高松城に迫った頃からたびたび信長に援軍要請をしていたようで、毛利本隊到着の数日前には安土の信長のもとに毛利本隊接近の報せは届けられていたようで、信長は明智光秀をはじめ細川忠興や池田恒興・高山重友らを援軍の先陣として出陣させることを決めます。
毛利氏との決戦は目前に迫っていました・・・


※主に 『秀吉 戦国城盗り物語』(外川淳著)を引用・参考にしました。

明智光秀の家康饗応

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天正10(1582)年5月11日、信孝が四国遠征のため出陣した同じ頃、徳川家康も主だった重臣を引き連れ安土へ向け出発していました。この日は岡崎(愛知県岡崎市)に到着し、松平家忠らの接待を受けます。

家康や穴山信君を迎えるに当たり、信長は街道の警備はもちろんのこと、家康一行の宿泊予定地の領主に出来る限りの接待を命じます。

12日、家康一行は岡崎を出発。

14日、家康が甲斐の穴山信君といつ頃合流したかは不明ですが、両者はこの日、近江・番場(滋賀県・米原町)に到着。丹羽長秀が接待に当たります。同日、信長の嫡男・織田信忠も安土に向かう途中、番場に立ち寄り丹羽長秀の接待を受けており、記録が残っているか不明ですが、家康や信君とも顔を合わせていたかもしれません。家康らはこの日、番場に宿泊しますが、信忠は泊まらず安土へ向かいます。

15日、家康一行も安土に到着。安土での接待は明智光秀が命じられていました。
光秀は、京や堺の珍しい食料を調達して最高のもてなしをしようとかなり気を使って準備を進めていたようですが、フロイスの著した『日本史』ではこの接待の際、「信長と光秀の間に口論があり、怒った信長が光秀を一度か二度足蹴にする」といったようなことがあったとされています。

別の話として、秀吉の家臣・田中吉政の配下の川角三郎右衛門が元和年間に纏めたともいわれる『川角太閤記』では、「家康一行に出す料理を調理していた現場に腐った魚が置いてあったことに信長が激怒。即刻、光秀を饗応役から解任し、光秀は面目を失った」という記述もあるようです。
この他にもこの接待の際、何かしらの事件があったような指摘がありますが、いずれも真偽は不明のようです。

【関連記事】⇒光秀が徳川家康饗応に作った「天正十年五月安土御献立」

信孝の阿波出陣 〜長宗我部元親、最大の危機〜

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天正10(1582)年5月、信長は本格的に四国の長宗我部元親討伐に着手。

四国統一を目前にした長宗我部元親に対し、信長はこれまで「四国は手柄次第切り取ってよい」としていた方針を転換し、天正9年末頃?「土佐一国と阿波南半国の領有を認めるが伊予と讃岐は返還するよう」命じます。自力で勝ち取った所領の返還要求を元親は拒否。天正10年1月、明智光秀の家臣で斎藤利三の実兄である石谷頼辰は、義弟に当たる元親を説得するべく四国に渡りますが決裂。信長は、長宗我部氏討伐を決意。

2月の武田攻めの際の出した命令で、三好山城守康慶(康長・笑巌)は四国への出陣を命じられます。

5月までの間に信長の三男・神戸信孝は四国攻めの総大将を命じられたのを機に三好康慶の養子となることが決められたようで、本能寺の変以降織田姓に復した信孝ですがわずかな期間でしたが“三好信孝”となっていた可能性が高いようです。

5月上旬、三好康慶は先陣として3000の兵を率い阿波勝端に着陣。長宗我部方の一ノ宮・夷山表に攻め掛かり両城を攻略。

5月7日付けの信長朱印状で「讃岐は信孝に与える。阿波は三好康慶に与える。土佐・伊予については信長が淡路に出馬した時に申し伝える」とし、同じ書状の中で信孝に対し「三好康慶のことを主君とも親とも思い忠節を尽くすよう」に命じています。

5月11日、信孝は譜代衆や北伊勢衆を率い、住吉(大阪市住吉区)に向け出陣。途中安土に立ち寄り信長に挨拶をしたようです。(『信長公記』ではこの日、住吉到着となっています)
この安土滞在中、徳川家康や穴山信君も安土を訪れることになります。

5月29日、総大将信孝、丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄を副将とし、近江や伊賀・丹波・紀伊など広範囲から動員された四国遠征軍約1万5000が住吉に着陣。
四国渡航直前、大事件が勃発することになります。


※主に 『だれが信長を殺したのか』(桐野作人著)を引用・参考にしました。

信長の名所巡り 〜其の二 安土凱旋〜

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天正10(1582)年4月16日早朝、掛川出発。見付の国府(磐田市)を通り、馬伏塚・高天神・小山を眺めながら、天竜川に差し掛かります。この天竜川は古くから「暴れ天竜」といわれるほどの激流で知られる難所。家康は、この天竜川に太田牛一が『信長公記』に“歴史上初”と書き記す、堅固な舟橋を架けます。多数の舟を数百本の大綱でピンと張るようにつなぎ合わせた見事な舟橋だったようで、さらに警護の者をつける徹底振り。短期間に作り上げた家康の采配も見事なものでした。

信長一行は無事天竜川を渡り、浜松に到着。信長はここで弓・鉄砲衆のみを残し、小姓衆や馬廻り衆に帰国の許可を与えます。浜松は家康の本拠。家康がその気になれば信長を殺すことも出来る地で、逆に家臣を帰国させるという大胆な行動は、信長の自信と共に家康への信頼の大きさも表しているような気がします。

信長は、家康の心遣いに感謝し、武田攻めのために調達していた8000表余りの米を家康の家臣たちに贈呈。

17日早朝、浜松を出発。今切の渡しから御座船に乗船。船を下りると浜名の橋という名所を見物。信長は家康家臣・渡辺弥一郎の解説に感心し、黄金を贈呈。汐見坂から雨の中、吉田に到着。

18日、吉田を出発。五位(御油・豊川市)から本坂・長沢街道へ進みます。この山道では。露出していた岩を突き崩し、地ならしをして信長一行が通りやすいよう道を舗装。休憩所となっていた宝蔵寺の僧たちの挨拶を受けたあと、正田・大比良・岡崎城下・矢作を進み池鯉鮒(知立市)に到着。水野忠重が建てた館に宿泊。

19日、池鯉鮒を出発。信長一行は、徳川領を抜け織田領・清洲に到着。
この日付けの『家忠日記』には、信長家臣となった黒人・弥介(ヤスケ)の事が書かれており、日本では珍しかった黒人男性をひと目見ようと多くの人が集まったようで、武田攻めに際し、信長はヤスケを連れて行っていたようです。

20日に岐阜、そして21日、安土へ向かう途中の美濃国内で稲葉一鉄の用意した御座船で接待を受け、織田勝長や不破光直そして近江国内に入ってからも菅屋長頼・丹羽長秀・山崎秀家がそれぞれ休憩所を建て信長を接待。約一ヵ月半の遠征を終え、無事安土に帰国。

ホッとするのも束の間。20日余り後、この安土で今度は信長が家康を接待することになります。

信長の名所巡り 〜其の一 家康、心づくしの接待〜

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天正10(1582)年4月10日、武田攻めの戦後処理を終えた信長は安土へ向け出発。すばやい行動が特徴の信長ですが、この時は東海道をのんびりと進み、富士山などの名所を見物しながら家康の接待を受けての、のんびりとした帰国となります。

この日は、甲府を出立し右左口(ウバグチ:山梨県東八代郡中道町)に陣を取ります。
徳川家康は、信長一行を迎えるにあたり、道路を拡張し、鉄砲に木々が当たらぬよう枝を切り落としたり、石を取り除くなどし、警備を配するのはもちろんのこと領内の各宿泊地に堅固な陣屋を建て、さらに将兵のための小屋を1000軒以上も建てたうえ、食事の準備もし、万全の体制を整えます。

11日早朝、右左口を出発。女坂・柏坂を進み本栖(西八代郡上九一色村)に陣取ります。

12日未明、本栖を出発。雪が積もる富士山の裾野、かみのが原・井出野では小姓衆が馬を乗り回し大はしゃぎし、その後、信長らは裾野にある人穴を見物。

ここでは浅間神社の境内を宿泊所としますが一泊だけなのに家康は金銀をちりばめた飾り付けをします。浅間神社の神官らは途中まで信長一行を出迎え挨拶をします。信長は周辺のことを尋ね、源頼朝が館を建てた上井出の丸山や白糸の滝などの名所の存在を知りますが実際に巡ったかはよく分かりません。
信長は浮島ヶ原でしばらく馬を乗り回すと浅間神社に戻ります。
信長は、家康の心づくしの接待に感謝し、秘蔵の脇差や薙刀・黒駮の馬を贈ります。

13日早朝、浅間神社を出発。足高山を眺めながら田子の浦を通り、途中の休憩では土地のものに地域の話を聞き、三保の松原や羽衣の松などを眺め江尻城に到着。

14日未明、江尻城を出発。駿府・府中(静岡市)の入り口の休憩所で今川氏の旧跡や千本桜の話などを聞き、武田勝頼が築いた持舟城などを眺め、宇津ノ峠を越え、藤枝宿入り口の偽之橋を見物し、田中城に到着。

15日未明、田中城を出発。藤枝宿(藤枝市)を越え、黄瀬川を渡り島田そして難所大井川越え。
この大井川で家康は家臣で泳ぎの得意な者を選び、川に横数列に渡り並ばせ川の流れを弱めるという配慮をし、信長一行の川越えを見届けます。

信長一行は無事、川を渡り牧野原城を眺めながら諏訪之原・菊川を通り、小夜の中山で休憩。日坂を越え掛川(掛川市)に到着、ここに宿泊します。

信長の“観光旅行”のような帰路はまだまだ続きます。

武田残党狩りと飯山一揆

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天正10(1582)年4月、旧武田領内各地には六角次郎のように織田軍の追っ手から逃れ潜伏している武田旧臣らが多数いました。織田軍は徹底的な捜査を行い、領内の農民らが武田残党を捕らえてくると褒美を与え、その褒美を目当てに農民らも武田残党に力を貸す者が多かったようです。

このような状況で、諏訪刑部・諏訪采女・長篠満直・段嶺の地侍らが農民に殺されその首は織田軍に引き渡されます。

そんな中、飯羽間右衛門尉(遠山友信)が生け捕りにされ織田軍に引き渡されます。
右衛門尉は天正2年、武田家に寝返り明智城落城のきっかけを作った城主で(本人に裏切りの意思は無かったという説もあります)、明智城落城に際し、坂井越中守の一族が多数殺されたため、その処刑を坂井越中守に任せます。
さらに秋山万可斎・秋山摂津守(秋山信友の一族か?)も捕らえられ、両名は長谷川秀一が処刑します。

4月5日、各地で残党狩りに遭う武田家旧臣がある一方、織田家に従った者の中にも不信感を抱く者が現れ、芋川親正(正親とも)を総大将とした一揆が信濃・飯山で蜂起し飯山城を包囲します。この一揆勢には武田旧臣の他一向宗門徒も多数加わっていたという説もあります。

飯山城を守っていた稲葉貞通はすぐに海津の森長可に報告。長可は早速、稲葉重通・通明・典通や国枝重之を援軍として送り、織田信忠も団忠直を派遣。
織田軍が攻め寄せると、一揆軍の多くは大倉城(大蔵城:長野市豊野・善光寺平北方)に籠城。

4月7日、一揆軍は、形勢逆転を狙い、近くの長沼城(長野市長沼)を奪おうと、8000もの軍勢で城外に打って出ます。森長可はこれを待ち受け攻撃。一揆軍は寄せ集めの兵だったためかあっけなく壊滅。織田軍に追撃され1200名が討ち死に。
大倉城も攻められ、城内に残っていた女・子供1000人余りも犠牲になり、一揆軍の死者は2450余りにのぼり、飯山城を包囲していた一揆軍も逃亡し、一揆は鎮圧されます。ただ一揆軍の総大将となっていた芋川親正は大倉城から脱出し、越後に逃れ、上杉景勝の家臣となります。

飯山の稲葉貞通は、この一揆を防げなかった不手際のためか信忠の陣に戻され、飯山は森長可の軍が駐留することになり、一族の稲葉重通・通明・典通や国枝重之も安土に帰陣することになります。

この後、長可は一揆の再発を警戒し毎日のように山中を巡り人質を提出させ、山中にいる(隠れていた?)農民らに村へ戻るよう命じます。

同じ頃、北条氏政は再び馬13頭、鷹3羽を献上してきますが、信長が気に入るものが無く、すべて返却されてしまいます。

恵林寺焼き討ち 〜快川紹喜の焼死〜

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天正10(1582)年4月3日、信長が台ヶ原(山梨県北巨摩郡)で富士山を眺めている頃、同じ甲斐国内にある恵林寺では悲惨な出来事が起きます。

武田家が織田軍に敗れたため、武田領を拠点に反信長の活動を続けていた六角次郎が恵林寺に逃げ込みます。恵林寺の快川紹喜は織田軍の引渡し要求を拒否します。

六角氏は、永禄11(1568)年、信長が足利義昭を奉じて上洛した際、敵対しますが敗北。その後も次郎は父・六角義賢(承禎)と共に各地で反信長の活動を展開し、父・承禎は元亀元(1570)年頃、織田家に降伏し数年間、捕らわれの身となったようですが、次郎は逃げ延び武田家に身を寄せていました。
この次郎は一般に義治のことと考えられているようですが、その弟・義定(賢永)という説もあり、兄弟そろって武田家に身を寄せていたのかもしれません。

このように織田家に敵対し続けた六角氏を匿うことは許されることではなく、信長に代わって旧武田領の戦後処理を任されていた嫡男・信忠は、恵林寺を成敗することを決め、織田九郎次郎(津田元嘉)・長谷川与次可竹・関長安・赤座永兼の4人を奉行とし恵林寺に向かわせます。

4人の奉行は、恵林寺の山門に寺内の僧ら150人余りを集めると二階に押し込み、廊下から山門にかけ刈り取った草を積み上げるとそこに火を放ちます。

山門は炎に包まれ、閉じ込められていた多くの僧がわめき苦しみ暴れる中、ひとり快川紹喜だけは、冷静沈着、じっと座ったまま身動きせず炎に包まれ亡くなります。
最後の言葉として伝わる「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」はこの時の言葉ですが、朝廷から国師号(天皇の師への尊称)を与えられた名僧の見事な最後でした。

ちなみに快川紹喜は信玄の葬儀も執り行った僧でもあります。そして美濃土岐氏の出身でもあり、同族の明智光秀は、この焼き討ちがきっかけで本能寺の変を起こしたという説もあるようです。

150人余りが焼き殺された恵林寺の焼き討ちですが、きっかけとなった六角次郎はこのときも逃げ延び、義治は信長死後秀吉に仕え、義定はその後どのように過ごしたか不明ですが、慶長年間に豊臣秀頼との面会記録があるようです。

余談ですが、武田家には六角氏以外にも信長と敵対した武将が多く逃げ込んでおり
天正10(1582)年3月7日付け松井友閑宛織田信長黒印状写には尾張統一戦で信長と戦った岩倉の織田氏(信賢?)と犬山の織田氏(信清:犬山銕斎)、さらにもと美濃守護の土岐頼芸や若狭の武田五郎がいたようですが、両織田氏や土岐頼芸は許されますが、武田五郎は六角次郎と共に殺されたことになっているようです。ただ次郎は逃げ延びたようなので、武田五郎に関しても真相は不明です。

信長の甲斐入り 〜諸将の穏やかなひと時〜

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天正10(1582)年4月2日、信長は信忠に信濃・諏訪への駐留を命じると自らは予定通り帰国の途につきます。この日は一時的に雨が降るような天気でしたが諏訪を出発。
甲斐(山梨県)を経由し東海道沿いに安土への帰国を計画していた信長一行は甲斐の台ヶ原(大ヶ原:北巨摩郡白洲町、長野県との県境付近)に到着。上野出発前の滝川一益指揮の下、この地には信長一行数百人が宿泊するための宿舎が建設され、食事の用意なども準備が進められており、信長は盛大な接待を受けたようです。

3日、台ヶ原を出発して五町(約550m)進んだところで信長一行は真っ白に雪が積もった美しい富士山を山間から見て、皆が感激したそうです。

この後、信長は新府城の焼け跡を検分。古府(甲府)に入ると、信忠が武田信玄の館跡(躑躅ヶ崎館?)を整備して建設した仮御殿に宿泊。ここに4月10日まで滞在し戦後処理を進めることになります。

この間、丹羽長秀・堀秀政・多賀常則の三人は信長から休暇を与えられ、草津(群馬県・草津町)に湯治に出掛けるという、珍しくのんびりとした時を過ごします。


余談ですが、この草津温泉には、のちに近衛前久(龍山)や秀吉の妹で家康の正室となる朝日姫さらに本願寺の顕如や教如・佐起、豊臣秀次や大谷吉継や前田利家らが訪れており、古くは鎌倉幕府の創始者・源頼朝も訪れたそうです。

※参照⇒草津温泉公式サイト 『湯Love草津』> 訪れている著名人

真田昌幸の恭順 〜真田家と滝川家の縁〜

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天正10(1582)年3月下旬、滝川一益は上野(群馬県)箕輪城に入城。その後すぐに厩橋城に居城を移しますが、ここへ近隣の諸将が人質を伴い次々と出仕し、関東を支配する立場になった一益に挨拶をします。出仕した主なも武将は小幡信真・由良国繁・長尾顕長・北条(きたじょう)高広・上田政朝らでしたが、この中に真田昌幸もいました。

織田軍による武田攻めに際し、真田昌幸は主君・武田勝頼に自領の岩櫃城(群馬県・東吾妻町)に入ることを勧めましたが、側近の進言に従い勝頼は小山田信茂の下へ向かい裏切りに遭い自刃して果てたため、織田軍との大きな交戦はなかったようです。

勝頼が自刃して果てた翌日の3月12日には早速、鉢形城(埼玉県秩父郡長瀞町)の北条氏邦から北条氏直の配下に属することを促す書状が届きます。氏直の母は武田信玄の娘の黄梅院ということで、氏直は旧主・信玄の孫。

3月18日、昌幸は北条氏の配下になることを拒否し、織田信長に従う決断をしたようです。

4月に入り昌幸は信長に馬を献上し、更に長女・於国(後の村松殿)を安土城へ人質として送ったようです。
臣従を認められた昌幸は、滝川一益の与力武将となりますが、対上杉の拠点となる沼田城は没収されてしまいます。

この後、信長の天下統一に活躍するはずでしたが、本能寺の変により信長が死去すると北条氏は織田家に反旗を翻し滝川一益の領国に侵攻。神流川の戦いといわれるこの戦いに昌幸は一益の配下として参戦。大敗を喫した一益は本領の伊勢へ落ちることになりますが、その際に昌幸は一益の脱出を助けたそうです。その後、昌幸は主家を北条⇒徳川⇒上杉⇒豊臣と次々と変えることになります。

余談ですが、後に滝川一益の嫡孫にあたる一積 (かずあつ)は、正室に真田昌幸の五女・於菊を迎え長男・一明を儲けます。さらに大坂の陣で討死にした真田信繁(幸村:昌幸の次男)の娘を養女に迎え、蒲生郷喜に嫁がせるなど真田家のために尽力しますが、これは一益が昌幸に助けてもらった恩返しなのかもしれません。

旧武田領の知行割と国掟

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天正10(1582)年3月29日、信長は諏訪・法花寺にて旧武田領の国割を以下のように発表。

甲斐国(山梨県)・・河尻秀隆。ただし、穴山信君の所領は安堵しているので代替地として信濃・諏訪一郡を与えられます。

駿河国(静岡県)・・徳川家康。

上野国(群馬県)・・滝川一益。一益はさらに信濃の内、小県・佐久も与えられます。

信濃国(長野県)・・高井・水内・更科・埴科の四郡は森長可に与えられ川中島の海津城に入城。木曽義昌は木曽谷の二郡を安堵の上、安曇・筑摩を加増。伊那を毛利秀頼。

河尻秀隆の甲斐移封に伴い空白となった美濃国(岐阜県)岩村には団忠直

同様に森長可の信濃移封に伴い空白となった美濃国の金山(兼山)・米田島には弟の森乱丸(成利・長定とも)。弱冠18歳で5万石の大名になりますが、小姓として信長の側に仕えており二ヵ月後に本能寺の変にて討ち死にしたため領国に入ることはなかったようです。なお岩村に関しては忠直ではなく乱丸に与えられたという説もあるようです。

信長は、この国割と共に甲斐・信濃両国に11か条の国掟を発令。
この中で不当な税徴収の禁止や緒城の修築・武器や兵糧の備蓄、領内の道路整備などを命じています。

嫡男・信忠への天下継承

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天正10(1582)年3月24日、旧武田領内各地で駐留している各部隊に兵糧を支給することを決め菅屋長頼に兵員名簿の作成を命じ、深志城(松本城)にて兵の人数に応じ兵糧を支給します。

25日、上野(群馬県)の小幡信真(憲重の嫡子。信実とも)が甲府の織田信忠のもとを訪れ恭順の意を表します。小幡は、滝川一益の与力に付けられ、上野への案内役を命じられます。一益は、小幡と共に早速、新領国である上野に向け出発します。

26日、再び北条氏政が馬のエサとして米1000表を諏訪の信長に献上。信長への徹底恭順の意を示します。武田家が滅亡し、次の標的になるのをかなり恐れていたように思います。

そして同日と思われますが、信長は武田攻めに際し、名城として名高い高遠城を攻略した信忠に褒美として梨地蒔絵拵えの刀を与えると共に「天下支配の権も譲ろう」と伝えます。天正3(1575)年にすでに家督は譲っていたものの実権は信長が握っていました。しかし、武田攻めは、一益ら重臣の補佐があったとはいえ、基本的に信忠指揮の下遂行され短期間で勝利し、信長も信忠の成長を喜ぶと共に最も脅威を感じていた武田家を滅ぼしたことで、信忠に天下を任せても安心というような気持ちになったのかもしれません。
甲府でこの褒美の品を受け取った信忠はすぐさま信長に礼を述べるため出発。

28日、信忠は諏訪の法花寺に到着。早速、信長に挨拶したものと思われます。
この日は一時的に豪雨が降り、風の強い非常に寒い日だったようで各地で凍死する者が多数出るという天気でした。
そんな状況の中、信長は富士山を見物しながら帰国の途につくことを告げ、諸将のみ信長と同行するよう命じ、その他の兵たちに帰国の許可を与えます。

29日、多くの兵がそれぞれ帰国の途につきます。

まだ不安定な旧武田領内にいる状況で、配下の兵を帰国させ、さらに富士山を見物しながら帰国するという信長の行動を見ると、信玄没後も武田家は信長にとって最大の脅威であり、その滅亡は信長に天下統一を成し遂げたような、そんな気持ちにさせたのかもしれません・・・?

滝川一益、上野国拝領 〜“関東管領”滝川一益の誕生〜

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滝川一益天正10(1582)年3月20日、徳川家中が信長一行を迎える準備に奔走している頃、上諏訪の法花寺の信長本陣には、武田の旧臣が次々と挨拶に訪れていました。

この日、信長の家臣・菅屋長頼の勧めで木曽義昌が挨拶に訪れ信長に馬2頭を献上。取次ぎの滝川一益を介し、信長も刀と黄金100枚を木曽に与えます。さらに木曽の本領に加え、信濃二郡もあわせて与えます。義昌退出の際、信長は縁まで見送ったそうです。

木曽が帰ったあと夕刻には、穴山信君も信長のもとを訪れ、馬を献上。信長も脇差や小刀等を信君に与え本領を安堵します。

信君のあと、今度は小笠原信嶺も挨拶に訪れ馬を献上。信長は矢部家定・森乱丸を使者とし本領安堵の朱印状を小笠原に与えます。

21日、北条氏政は、武田領平定を祝し、使者を送り馬や酒・白鳥を信長に献上。滝川一益が取次ぎを勤めます。

23日、信長は滝川一益を召し寄せ、上野国(群馬県)及び信濃二郡(佐久・小県)を与え、関東八州の警護を命じます。これにより一益は関東管領“的”な立場になります。
信長は、当時としては高齢(この時推定58歳)の一益を遠国上野に派遣するのは気の毒と思いながらも「老後のもうひと働きとして東国支配の取次ぎ役一切を委任する」とし、秘蔵の葡萄鹿毛(えびかげ)の馬も与え「この馬に乗り入国するがよい」と気遣いを見せています。一益は数日後、この馬に乗り?上野国箕輪城に入城することになります。

一益、上野国拝領の際、有名な逸話がありますね。では簡単にご紹介。
信長が「此度の戦で武田攻めで手柄を立てたら、大名物の茶器『珠光小茄子』を与えよう」と一益にいいます。
一益は、信忠の補佐役として、武田攻めの先陣を務め大活躍をし、上野一国と信濃二郡を与えられ、さらに関東管領級の役職も任され大出世を果たします。しかし、約束の茶器がもらえなかったことが悔しかったようで、一益は「領地や役職よりも茶器が欲しかった」と愚痴をこぼしていたとか。

上様の“御成” 〜大わらわの徳川家〜

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天正10(1582)年3月19日、信長が上諏訪の法花寺に着陣した頃、徳川家中にも信長の安土への帰国に関する情報がもたらされます。

17日に徳川家康は信長に挨拶に出向いているようで、この日かそれよりも少し前に帰国の日程が告げられたのかもしれません。

19日の『家忠日記』によると、信長が三河経由で安土に帰国するということで、酒左衆(酒井忠次配下の衆)に本栖(山梨県西八代郡上九一色村)へ集まるよう命じられます。

23日、酒井配下に属していた家康の家臣・松平家忠は、本栖へ行き、25日から信長一行を出迎えるための御茶屋建設に従事することになります。

家忠自身、このあとも4月5日から女坂茶屋建設、さらに9日には女坂の道路?普請作業に従事しており、徳川家臣団及び多くの領民らは同様に信長一行を出迎えるための準備に大わらわの日々を送っていたものと思われます。

徳川家臣団が行った普請作業は御茶屋の建設の他、陣屋や御厩の建設それ以外にも道路の整備や警備さらに信長一行をもてなす料理の準備など多岐にわたり、肉体的にも精神的にも休まることのない日々を過ごします。

徳川家臣団が信長のことを“上様”と呼んでいたかは不明ですが、『家忠日記』では信長の行動を“御成”と表記しており、この言葉は征夷大将軍に用いられる言葉のため家忠はじめ多くの者が、この時期すでに信長のことを“将軍的”な存在として見ていたものと思われます。

こののち信長が甲府を立つのは、4月10日のことになりますが、家康はじめ徳川家臣団の徹底した心遣いは信長を大喜びさせることになります。

羽柴秀勝の初陣

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天正10(1582)年3月17日、武田信豊の首実検を終えた信長は信濃・飯田から飯島(長野県飯島町)に陣を移します。武田軍との戦いは嫡男・信忠の指揮のもとほぼ終結しており、信長は旧武田領を視察するのみといった状況でした。

同じ日、西の備前(岡山県)では、信長の四男(五男とも)で羽柴秀吉の養子になっていた羽柴秀勝が初陣を迎えます。この時15歳位だったと思われる秀勝は、秀吉補佐のもと、備前で唯一織田方に敵対していた児島城(岡山県倉敷市)を攻めます。

おそらく問題なくこの城攻めは勝利し、備前は織田の勢力下になったと思われ、秀吉軍はこの後、備中へ軍を進めることになります。

18日、信濃の信長は高遠に陣を移し、さらに翌日上諏訪の法花寺に着陣。信長はここに4月2日まで滞在することになりますが、武田の残党などの挙兵を警戒して指揮下の津田信澄・菅屋長頼・矢部家定・堀秀政・竹中重隆・蒲生氏郷・細川忠興・池田元助・高山重友・中川清秀・明智光秀・丹羽長秀・筒井順慶や馬廻り衆らに陣構えを指示し万全の守りを固めます。

『明智軍記』(だったと思われますが)によれば、この法花寺で本能寺の変の怨恨説の理由のひとつとされる事件が起きます。※状況や台詞は、正確ではありません。

武田討伐を終えた宴席で、光秀が「我々もずいぶん骨を折りましたな」と言う言葉を信長が聞き、「光秀!お前が何をしたのだ!」と激怒。信長が(または森乱丸とも)鉄扇で光秀の額を叩きます。
これを恨み、本能寺の変を起こしたというもの。
『明智軍記』は光秀の死後、約百年経ってから書かれたといわれる書のため、その信憑性は、かなり低いとされています。

武田信豊の自刃 〜武田領平定〜

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天正10(1582)年3月3日、勝頼と別れ武田信豊は再起を図るべく小諸城を目指します。
この信豊は信玄の弟・典厩信繁の次男で信繁の跡を継いだ人物。同じ官職名・典厩を名乗り、小諸周辺を領地としていたということですが真偽ははっきりしないようです。

小諸城は下曽根信恒(覚雲斎)が城代を務めていました。信豊が、わずか20騎ほどを率い撤退してくると信恒は一行を受け入れ二の丸に通します。

16日(これより1〜2日前か?)信恒は勝頼が自刃して果てたという情報を得たためかどうか不明ですが突如、織田方に寝返り、二の丸を包囲し火をかけます。

小諸城内では下曽根勢と信豊勢の戦いが始まりますが、多勢に無勢。信豊配下の朝比奈与四郎が特に奮戦したようですが、信豊が長男・法輝らと共に切腹して果てると、信豊の姪の婿・百井某ら10名と共に切腹。信豊は享年34とも36歳だったとも伝わります。
※信豊と共に切腹したのは長男の法輝で、次男の雅楽は生き延び現在もご子孫の方がおられるそうです。ご指摘してくださった信豊のご子孫様ありがとうございます。

下曽根信恒は信豊の首を織田信忠の陣に持っていき服従の証とします。ただ、信恒は後日、信豊を騙まし討ちにした不忠者として追放処分されることになります。

信忠は信豊の首実検を終えるとこれを信長のもとへ届けます。

16日、飯田に陣を構えていた信長のもとに信豊の首が届けられます。首と共に信長のもとには仁科盛信の秘蔵の馬や勝頼の馬や刀が届けられ、勝頼の馬は信忠に与えられることになります。

信長は武田勝頼・信勝・信豊・仁科盛信の首を京都で晒すよう長谷川宗仁に命じます。四人の首は三条河原で晒されたのち京都・妙心寺に葬られたそうです。

信豊の死により織田軍の武田攻めはほぼ終了し、甲斐・信濃・駿河・遠江・上野など広範囲にわたった武田領は織田信忠の侵攻わずか1ヶ月半ほどで織田の勢力下になります。

信長は一気に領国を拡大しますが、多くの家臣を旧武田領に派遣することになり信長の周辺は手薄な状況になっていきます・・・

越中一揆蜂起 〜勝頼、最後の計略〜

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天正10(1582)年3月11日、武田勝頼は自刃して果てましたが、同じ日、越中・富山城で反信長の一揆が蜂起します。
富山城には、信長の配下となっていた神保長住が城主を務めていましたが、越中の国人・小島六郎左衛門職鎮と加老戸式部の二人が一揆を扇動し、神保長住を城の一角に監禁し、城を占拠します。これは勝頼(または武田家の何者か)が死の直前、越中の国人に宛て、「信長・信忠父子及び織田軍をことごとく討ち果たした」という“虚報”を届け、小島・加老戸らはこれを信じ蜂起したようです。勝頼の最後の計略でした。

しかし、柴田勝家・佐々成政・前田利家・不破直光ら北陸方面軍がすばやく富山城を包囲し、信長に報告。

13日、信長もこの日付の書状に「武田勝頼・信勝・信豊・小山田信茂らをはじめ武田家の重臣らは討ち果たし、甲斐・信濃・駿河は平定したので心配無用。一揆を殲滅せよ」といった内容を書き記し送っていました。ただ、この時点でまだ武田信豊や小山田信茂は健在だったので、信長もまた“虚報”を知らせていたことになりますね。

この日、信長は美濃・岩村(岐阜県)から信濃・根羽(長野県・根羽村)に入り武田の領国に足を踏み入れます。といってもすでにこの地域は織田の勢力下になっていましたが・・・

14日、浪合(長野県下伊那郡浪合村)に着陣。ここで武田勝頼・信勝父子の首と対面。奇しくもこの地(根羽や浪合)は、武田信玄が死んだとされる地でもありました。
※信州駒場(下伊那郡阿智村)説なども有ります。

15日、この日は昼ごろから大雨になったようですが、飯田に入った信長は、ここで勝頼・信勝の首を晒し、織田軍の将兵はこれを見物したそうです。

武田家滅亡 〜其の五 天目山の戦い、勝頼自刃〜

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天正10(1582)年3月4日?、武田勝頼・信勝父子らは、小山田信茂の居城・岩殿山城を目前に思いがけない報せを受けます。信茂は、勝頼一行を迎え入れることが出来ないと伝えてきます。織田軍の圧倒的優勢な状況に織田家に降伏することを決めたようで、勝頼をだまし討ちにしなかったのがせめてもの救いだったように思います。信茂が裏切ったという報せを受けたとも言われていますが・・・

勝頼らは再び山中をさまよい、天目山の麓、田子(田野:東山梨郡大和村)の民家に入り臨時の柵を設け、陣を構えます。新府城を出た時500〜600人いた兵はこの時わずか41人になっていたそうです。

5日、遠く安土では信長がついに近隣の兵を率い武田討伐のため出陣。

6日、4日前に討ち取った仁科盛信の首が、この日信長のもとに届き実検を済ませると岐阜の長良川の河原に晒させます。

7日、一方、先発していた嫡男・織田信忠は甲府に入り陣を構え、武田家一門の捜索を命じ、武田信廉(逍遥軒:信玄の弟)や一条信龍(信玄の異母弟)・海野信親(信玄の次男・竜芳)・山県昌満(三郎兵衛昌景の子)らを捕らえ処刑。
武田家臣の多くが次々と織田家に服属を誓ってきます。

3月11日、信長は岩村に到着。同日、勝頼一行を捜索していた織田軍でしたが滝川一益隊が勝頼らの居場所を突き止め、滝川益重と篠岡平右衛門の隊が勝頼の陣を包囲。

勝頼は、命運尽きたことを悟り、陣の奥に入り妻・北条夫人(氏康の六女)に兄・氏政のもとへ落ち延びるよう進めますが夫人も運命を共にすることを決め、勝頼は夫人を含め付き従った女・子供を一人ずつ引き寄せ刺し殺し、自らも切腹して果てます。享年37歳。

陣の外では勝頼の自刃の時間を稼ごうと、残ったわずかな武士たちが、織田軍に戦いを挑み、その中でも若衆の土屋昌恒は弓矢を取り矢を射つくすまで奮戦し切腹または討ち死に。

勝頼の嫡男で家系図上、信長の孫(信長養女の子)でもある信勝も奮戦したようですが討ち死に、または自害だったとも伝わります。享年16歳。ここに大名家としての甲斐源氏武田の嫡流は滅びることになります。織田軍の侵攻からわずか1ヶ月余りのことでした。

信勝は、死の直前、秋山光次または土屋昌恒のもとで、先祖伝来の「盾無しの鎧」を身に着け元服式を行い、そのまま織田家と戦ったとも伝わっています。

天目山の戦いで討ち死にまたは自害した武田家の者、武士41人、夫人や子供ら50人だったそうです。

勝頼・信勝の首は滝川一益から信忠に届けられ実検を終えると、関可平次と桑原助六の二人に預けられ信長のもとへ送られます。

武田家滅亡 〜其の四 新府城炎上〜

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天正10(1582)年3月3日、高遠城を攻略した織田信忠は上諏訪方面に攻め入り各所を焼き払いながら武田勝頼の籠もる新府城を目指します。

この間、大島城を脱出し高島城に入場していた安中左近大夫は、ここでの防戦も不可能と判断し織田勝長に城を明け渡し退去。深志城の馬場昌房も降伏し、織田長益(有楽)に城を明け渡し退去。

勝頼は次々もたらされる敗報に重ね、信忠が新府城に迫っているとの報告を受けます。
武田家中は大混乱に陥り、勝頼は統率力を失っていました。従兄弟の武田信豊は、なぜか勝頼を守ることなく、一族の下曽根信恒(覚雲斎)が守る小諸城に退去。勝頼は、新府城の完成を見ることなく、この城を焼き払い退去することを決めます。

この時、真田昌幸と小山田信茂の双方から自分の城に来るよう誘いがあり、勝頼は側近の長坂長閑と跡部勝資と相談し、新参の真田氏よりも譜代の重臣である小山田信茂を信じた方が良いと判断し、小山田の居城・岩殿山城を目指すことを決めたという話もあるようです。

勝頼は裏切った家臣の人質を新府城に押し込めたまま火を掛け退去。
裏切った家臣の人質300人余を殺し、付き従った家臣の人質には金銭を渡し開放したという話もあるようです。

勝頼一行は、岩殿山城を目指しますが、この時勝頼に従ったのは、妻子や側室・一門衆を含め200人余り。馬に乗ったものは僅かに20人ほどだったそうです。

勝沼(東山梨郡勝沼町)から駒飼(東山梨郡大和村)を抜け、小山田信茂の居城・岩殿山城を目前に勝頼は最大の裏切り遭うことになります。
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