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戦国時代

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織田信長史

武田家滅亡 〜其の三 穴山梅雪の裏切りと仁科盛信の死〜

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天正10(1582)年2月、武田勝頼は一族の中で最も血縁が深く家中随一の兵力を擁する一門衆筆頭・穴山梅雪(信君)の裏切りに遭います。
この穴山梅雪は、母が武田信玄の姉で、妻は信玄の娘ということで勝頼とは従兄弟で義兄弟の関係でもある人物でした。
勝頼は、この信頼できる梅雪を駿河(静岡県)の江尻城配し、徳川への備えとしていましたが、この頃から梅雪は、密かに徳川と通じていたようです。

2月25日、梅雪は闇夜に紛れ、密かに勝頼に人質として預けていた妻子を奪還します。

28日、織田信忠との決戦に備え諏訪・上原に本陣を構えていた勝頼・信勝父子と従兄弟の武田典厩信豊(信玄弟・信繁の子)は、この梅雪の動きを知り急ぎ新府城に引き上げます。

3月1日、信忠は、主力を率い、勝頼の弟・仁科盛信(信玄の五男)が守る高遠城に迫ります。この日は、高遠城を見下ろす山に登り状況を確認し、貝沼原(長野県伊那市)に本陣を構えます。
勝頼本隊の援軍の望みを断たれた高遠城内の城兵の動揺は大きかったようで、飯田城を脱出し高遠城に入城していた保科正直は、織田方に寝返ろうとし、城内に火をかける計画を織田方に寝返っていた小笠原信嶺に伝えようとしますが失敗したようです。

2日、高遠城は三方を山に囲まれた富士川が流れる難所でしたが、信忠は力攻めで城を落とすことを決め、前夜のうちに森長可・河尻秀隆らの軍を高遠城の大手近くまで進めていました。
夜明けと共に総攻撃を開始し、信忠も自らも武器を取り、武田軍と激戦を繰り広げます。織田軍はこの戦いで仁科盛信・今福昌和・諏訪勝右衛門・小山田昌貞・小幡一族など多くの者が討ち取り、高遠城を攻略。盛信、享年26歳。その首は早速、安土の信長のもとへ送られます。

織田軍は武田家の一門衆筆頭・穴山梅雪を寝返らせ、勝頼の弟・仁科盛信を討ち取ることで武田家に壊滅的な打撃を与えることに成功します。
名門武田家の滅亡は目前に迫っていました・・・

武田家滅亡 〜其の二 木曾・伊那の合戦〜

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天正10(1582)年2月9日、信長は自ら武田討伐に出陣するにあたり、畿内の警護及び中国・毛利氏や四国・長宗我部氏への警戒・出陣準備等を各方面の織田家諸将に命じます。

12日、先陣を命じられていた織田信忠は、自らも軍勢を率い出陣。滝川一益や毛利秀頼らも信忠の配下に加わります。

14日、織田の大軍勢を目の当たりにした信濃・松尾城(長野県飯田市)の小笠原信嶺は、戦わずして織田軍に寝返り、先発隊の森長可と団忠直に呼応し、武田攻めに加わります。この信嶺は、小笠原長時の分家筋で、信玄の弟・逍遙軒信廉の娘を正室に迎えている武将でした。

次々と武田諸将が寝返る状況に南信濃の飯田城を守っていた坂西織部と保科正直ら将兵は、夜陰に紛れ城から脱出します。

15日、長可の軍が飯田城の将兵を追撃し、逃げ遅れた10騎ほどを討ち取ります。

16日、勝頼も反撃に転じます。今福昌和に命じ、鳥居峠に進撃。ここで木曾・苗木遠山の軍と合戦になりますが、武田方は跡部治部丞や有賀備後守ら40余り討ち取られ敗走。この木曾らの軍に織田長益(有楽)や稲葉貞通らも合流し、鳥居峠に陣を構えます。この眼前には、馬場信春の息子・昌房が守る深志城(今の松本城)がありました。

17日、信忠は、飯田に陣を移すと、大島城(下伊那郡松川町)攻めを開始。城主・日向宗栄や武田信廉・安中左近大夫(景繁の嫡子)らは、守りきれないと判断し、夜陰に紛れ城を脱出します。河尻秀隆・毛利秀頼が、入城し警護に当たります。
小笠原も加わっていた森長可ら先発隊は、飯島(上伊那郡飯島町)に進撃。
この状況に領民らが蜂起。自らの家に火をかけ、織田軍のもとへ駆けつけるという事態に陥っていました。

信長は聟(むこ)と犬という二人を信濃に派遣し、武田攻めが順調に進んでいることを確認していました。

武田家滅亡 〜其の一 木曾義昌の離反〜

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天正10(1582)年2月、紀州・雑賀で内乱が続いている頃、信濃(長野県)でも大きな動きがありました。

2月1日、織田領の美濃と国境を接する信濃木曾谷の領主・木曾義昌が織田家に味方することを伝えてきます。義昌は武田信玄の三女・真理姫を正室に迎え、武田勝頼の義弟に当たる親族衆でしたが、武田家の衰退と勝頼への不信感などがあり、そこへ織田家の調略の手が伸び、武田家から離反することを決意します。

義昌の調略を任されていたのは苗木城(岐阜県中津川市苗木)の苗木久兵衛(遠山友忠)でしたが、この久兵衛は信長の妹とも姪ともいわれる女性を娶っていましたが、自身の娘は勝頼に嫁いでいて織田家に属しながらも複雑な立場の武将でした。

この久兵衛から義昌が寝返ったとの報告を受けた岐阜の織田信忠は、使者・平野勘右衛門を信長のもとへ送り指示を仰ぎます。

信長の指示を受け、苗木久兵衛の軍勢は木曾へ向かい人質として義昌の弟・上松蔵人義豊を提出させます。信長は大喜びし上松蔵人を菅屋長頼に預けます。

2日、木曾義昌の裏切りを知った勝頼は激怒し、人質としていた義昌の母と長男・長女を処刑。自ら1万5000の軍勢を率い新府城から出陣。諏訪・上原に陣を構えます。この中には嫡男・信勝と従兄弟の信豊が加わっていました。

3日、信長も各部隊に出陣を命じます。駿河(静岡県)方面からは徳川家康、関東(相模や伊豆・上野)方面からは勝頼の義兄弟でもある北条氏政、飛騨(岐阜県北部)からは信長家臣・金森長近が甲斐・信濃に向け出陣するよう命じられ、信忠も先陣として森長可と団忠直を木曾・岩村方面に出陣させます。

勝頼は、この動きに対し伊那入り口の滝ヶ沢(長野県下伊那郡)の砦に下条信氏(信玄の義弟)を入れ守りを固めます。

6日、この信氏の弟・下条九兵衛氏長が突如、織田家に寝返り信氏とその嫡男・信正を追放し、岩村方面から進撃してきた信長家臣・河尻秀隆を迎え入れます。

木曾義昌の離反から一週間足らずで武田家は一気に崩壊していきます。

紀州雑賀の内乱 〜鈴木孫一vs土橋若大夫〜

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天正10(1582)年1月23日(『信長公記』では27日)、紀州雑賀(和歌山市)で鈴木孫一(重秀?)が土橋若大夫(平次・守重)を切腹に追い込むという事件が起きます。

この時期、雑賀衆は鈴木孫一率いる親織田派(顕如派)と土橋若大夫率いる反織田派(教如派)の二大勢力になっており、『木本の義』といわれる領地争い?で両派が対立。石山合戦後、紀州鷺ノ森に移っていた本願寺顕如も仲裁に入るなど一触即発の危険な状況になっていました。そんな中、前年天正9年に若大夫は孫一の継父を殺害し対立は激化。

孫一は信長の許しを得て土橋の館(粟村城?)を襲撃し、若大夫を死に追い込みます。

これを知った、若大夫の息子たち(平尉・平次・威福院・くす千代)が館に立て籠もり、孫一らとの対決姿勢を鮮明にします。ここに根来寺の僧で若大夫の三男・泉職坊(千職坊)も駆けつけ兄弟たちと行動を共にします。

孫一方には紀州の有力豪族も味方し、孫一方の鉄砲攻撃でついに両者は激突。
この時も顕如が和解を提案しますが、孫一は拒否します。

紀州の状況を聞いていた信長は、一門の織田信張を大将、検使役に野々村正成を任命し、孫一の援軍として派遣。

織田軍が合流し孫一方の攻撃は激しくなり、信張軍が土橋方の小倉監物を討ち取ったのを機に土橋方は総崩れになります。
平尉と平次は逃亡。泉職坊も30騎ほどを率い退却しますが、織田軍の斎藤六大夫が追撃し、泉職坊を討ち取ります。

泉職坊の首は早速、安土の信長のもとへ届けられ安土城下の百々橋で晒されます。

2月8日、再び顕如が仲介を呼びかけ孫一方と土橋方の和睦は成立しますが、実質は土橋方の降伏でした。土橋兄弟の威福院の消息は不明ですが、くす千代は顕如に預けられたようです。

泉職坊を討ち取った斎藤六大夫は森長定(乱丸・成利)を介して小袖と馬を褒美として与えられ、壊滅した土橋館は修復され、織田信張が城代として入ります。

しかし、本能寺の変直後、土橋一族(平尉らか?)は、混乱に乗じ、再び雑賀で蜂起。鈴木孫一は身の危険を感じ、この時、泉州(大阪府和泉市)・岸和田城の城主を務めていた織田信張に庇護を求めることになります。

式年遷宮 〜伊勢神宮の造替〜

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天正10(1582)年1月25日、伊勢神宮(三重県伊勢市)の権禰宜(ごんねぎ:宮司の補佐的な役職)上部貞永が、堀秀政を通じ式年遷宮(しきねんせんぐう)を復活したいと願い出てきます。

式年遷宮とは、20年ごとに本殿などの神宮の建物を同じ形で造り替える儀式ですが、戦国の頃長らく途絶えていました。『信長公記』では、300年途絶えていたとされていますが、実際には内宮(皇大神宮:こうたいじんぐう)では120年、外宮(豊受大神宮:とようけだいじんぐう)は19年(これはきちんと行われていたということか?)だったようです。

信長が費用を尋ねると、上部は「1000貫あればあとは勧進(寄付)でなんとかなる」と答えますが、信長は、天正7年12月から8年8月に行われた石清水八幡宮修築の際、当初予想300貫が1000貫以上掛かってしまった経験から、神宮の造り替えも1000貫では無理と判断。「庶民に迷惑をかけてはならぬ」とし3000貫を寄進するよう命じた上、あとは必要に応じ寄進することを約束します。奉行に平井久右衛門を任命し、上部を補佐させることにします。

26日、信長は森長定(乱丸)を使者として岐阜城の織田信忠のもとへ派遣し、岐阜城の土蔵に保管されている銭の綴りなおし(銭の穴に縄を通して保管していたので、その縄を新しいものにすること)を命じます。さらに、伊勢神宮から申し出があれば銭を渡してやるよう支持します。

ちなみに、この時、岐阜城には16000貫が蓄えられていたそうです
現在の価値でいくらなんでしょう?次回調べてみます。

宇喜多秀家の家督相続

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宇喜多秀家
天正10(1582)年正月、佐久間信盛の死去の方を受けた信長のもとにあらたに配下の大名の死の報せがもたらされます。

その大名とは、斎藤道三や松永久秀とともに戦国の梟雄として恐れられた備前(岡山県)の大名・宇喜多直家。死因は病死だったようで、享年54歳。
直家は、天正7(1579)年頃、織田家に従属し秀吉の配下として中国方面で活躍していました。

21日、秀吉は、宇喜多家の家老を引き連れ安土の信長のもとへ挨拶のため訪れます。
直家の死はこの時報告されたようですが、実際に死んだのは前年末の頃だったようです。信長に対しては死去直後、報告されたと思われますが、毛利家と対陣中の上、直家の子・八郎が幼かったためか、直家の死は隠され天正10年1月9日に公にされたようです。

宇喜多家の家老は、信長に黄金100枚を献上し、11歳になる直家の遺児・八郎の家督相続を願い出ます。信長は、八郎の家督相続を認め、家老たちにはそれぞれ馬を与えます。

本能寺の変後の話になりますが、八郎は元服し家氏と名乗り、間もなく秀吉の猶子となり『秀』の一字を与えられ「秀家」と名乗ります。
天正17(1589)年頃(他説有り)、秀吉の養女となった前田利家の四女・豪姫と結婚し二男一女をもうけます。

天正10年正月

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天正10(1582)年、信長はついに運命の年を迎えます。

正月一日、記述のように信長の家臣の多くはここ数年戦地で年を越すことが多く年頭の出仕を免除されていましたが、この年は近隣の諸大名や織田家一門衆・馬廻り衆など多くの者が年頭の挨拶に殺到し、安土城は賑わいます。
しかし、あまりにも多人数だったため百々橋から宛寺へ向かう道の山裾に積み上げられた石垣を踏み崩した者がいて死傷者が多数出る大惨事となりました。

そんな中、信長への挨拶は行われ、織田の一門衆や馬廻り衆らは、挨拶を終えると御幸の間(天皇を迎え入れる部屋)などを見ることを許され見物したようです。

信長は、見物し終えた者たちを台所口へ呼びつけると、事前命じていた祝い金100文(現在の価値で5000円程度)を自ら受け取“後ろ手に投げ入れた”そうです。投げ入れたということは、お賽銭箱のようなものがあったのでしょうか??

6日、明智光秀も安土にて信長へ年頭の挨拶を行ったようです。

15日、例年のように信長は左義長を安土にて?催しますが、この日は雪の振る寒い日だったそうです。

16日、安土が賑わう中、追放されていた佐久間信盛が紀伊・熊野にて病死との知らせを受けた信長は、子の信栄を赦免し旧領に復帰させることを決めます。
後日、佐久間信栄は、岐阜の信忠のもとを訪れ礼を述べたそうです。

信長、最後の年末 〜賑わう安土〜

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天正9(1581)年12月、武田家中が織田・徳川の攻撃が近づき不安な年末を過ごしている頃、信長のいる安土はおおいに賑わっていました。

信長のもとへは一門衆や近隣の大名だけではなく、遠方の大名まで金銀や舶来物などの献上品を持って挨拶に訪れていました。

そんな中、鳥取城を攻略し淡路も平定してひと段落していた羽柴秀吉が久々に年末の挨拶のため播磨から安土やってきます。
このとき秀吉は、信長に200枚もの小袖を献上しますが、信長に対してだけではなく女房衆にも小袖を献上し家中の者を驚嘆させます。

12月22日、信長は、秀吉の因幡・鳥取城での活躍を褒め称え、感状と共に12種類もの茶道具を秀吉に与えます。
秀吉は、この褒美の品を携え播磨に再び向かいます。このとき秀吉の傍らには、信長の四男で秀吉の養子となっていた於次秀勝がいたのかもしれません?

この二日後、甲斐の武田勝頼は、躑躅ヶ崎館から新府城へ移ることになります。




武田勝頼、新府城へ移る 〜迫る武田家の危機〜

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天正9(1581)年11月、人質としていた織田勝長を送り返すことで、織田家との関係修復・和睦を模索した武田勝頼ですが、織田家から期待していた返答を得られず窮地に追い込まれてしまいます。

天正3(1575)年、勝頼は長篠・設楽原合戦で織田・徳川連合軍に大敗を喫し重臣の多くを失い武田家は弱体化し、天正9年3月、要所・高天神城が徳川家康の攻撃で落城したことにより防衛強化が迫られます。

そこで勝頼と従兄弟であり義兄の関係でもある穴山信君(梅雪)が甲斐国内に築城することを進言。
亡き父・信玄は『人は城、人は石垣、人は堀〜』を信条とし、甲斐自体も山に囲まれ天然の要害にもなっていたため国内に城を築きませんでしたが、すでに状況は危機的なものになっており勝頼は築城を決断します。

天正9(1581)年3月下旬?真田昌幸を普請奉行に任命し新府城(韮崎城:山梨県韮崎市)の築城をはじめます。この城は七里岩台地上にある平山城で、この地は信君の領地だったそうです。一説には、このときすでに信君は徳川家康に通じていたともいわれており、信君は、この城を自分の居城にしようと考えていたのかもしれません??

11月、織田家との和睦が不調に終わった勝頼は、織田・徳川との決戦に備えます。

12月24日、勝頼は織田・徳川連合軍が甲斐侵攻の時が間近に迫っていることを悟り躑躅ヶ崎館から未完成の新府城に慌しく移ります。

しかし、この時すでに武田家中に織田や徳川に内通している者がおり、内部崩壊が始まっていました。

織田勝長の帰参 〜信長との再会〜

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天正9(1581)年11月、武田勝頼は人質としていた織田勝長を信長のもとへ送り返します。
この勝長は、信長の五男(四男説もあり)で幼名を御坊丸。長じて勝長さらに織田(津田)源三郎信房と名乗っていました。

元亀3(1572)年、織田領の岩村城が武田信玄の家臣・秋山信友の攻撃を受けている最中、城主の遠山景任が病没。景任の妻は信長の叔母で、跡継ぎがなかったため信長は幼少の御坊丸を養子として送っていました。しかし、幼かったため岩村城の城代は信長の叔母・おつやが務めていました。

しかし、元亀3(1572)年11月14日、秋山信友の攻撃に抗し切れず、岩村城は落城。おつやは、信友の妻となり、御坊丸は人質として甲斐の信玄のもとへ送られてしまいます。

翌年には信玄が死去し、跡を継いだ武田勝頼のもとで御坊丸は生活することになります。1575(天正3)年11月には、岩村城は織田家が奪還に成功し、秋山信人もは処刑されます。

織田家と武田家の関係が悪化する状況の中、御坊丸は殺されることなく育ち、約9年に及ぶ人質生活から開放され、信長のもとへ向かいます。
この時期、武田家は織田・徳川との戦いで劣勢に追い込まれ滅亡の危機に瀕している状況であり、勝頼は御坊丸を織田家に送り返すことで、織田家との和睦を模索したのかもしれません。しかし、その願いはかないませんでしたが・・・

天正9(1581)年11月24日、御坊丸は安土の信長のもとへ挨拶に出向き再会を果たします。信長は、小袖や刀・鷹や馬など多くのものを御坊丸に贈り、犬山城の城主にすることを伝えます。信長は御坊丸の側近に対しても相応の品を与えています。

このとき御坊丸は元服し、勝長と名を改めたようですが、勝頼の“勝”の字の下に信長の“長”の字を使っていて不自然なため、武田家ですでに元服し勝長と名乗っており、織田家に復帰した際、源三郎信房と名乗ったのではないかという説もあるようで、個人的にはこちらの可能性が高いような気がします。

なお『信長公記』では人質として武田家に送られたのではなく、信玄が養子に欲しいということで武田家に送られたとされていますが、これは太田牛一が主家に遠慮してこのように書いたのかもしれません。

無事、信長との再会を果たした勝長でしたが、この後武田討伐に参戦し活躍しますが、本能寺の変で兄・信忠と運命を共にすることになる悲運の短い生涯でした。

淡路島平定 〜 揺らぎ始める織田・長宗我部同盟 〜

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天正9(1581)年11月、四国方面では親織田派の二派、長宗我部家と三好家の対立化激化していました。さらに三好家の中でも三好(十河)存保(織田派)と細川真之(長宗我部派)に分裂しており複雑な状況になっていました。
ちなみに真之と存保は異父兄弟で、兄である真之は、存保の異母兄である三好長治と戦い死に追いやるという関係でした。(兄弟関係が複雑ですね・・)

そんな中、長宗我部氏の圧迫を受けていた、三好家の反長宗我部派の篠原自遁(肥前守)が、羽柴秀吉に援軍を要請。この報告を受けた?信長は、摂津の池田元助(之助:恒興の嫡男)に淡路出陣を命じます。

17日、池田元助と秀吉が派遣した黒田官兵衛(孝高)は淡路島に出陣。淡路島北端の岩屋に上陸します。岩屋城兵は、たいした抵抗も見せず降伏を申し出ます。

両軍の交渉により、岩屋城には一旦、池田軍が駐留します。

その後、淡路島中央の洲本城・由良城も相次ぎ降伏し、淡路島は短期間のうちに織田家の勢力下に組み込まれます。

この織田軍による淡路島出陣は、四国統一を進める長宗我部氏にとって不愉快なことであり、織田家と長宗我部家の対立は徐々に深刻になっていくことになります。

さらに織田家中で長宗我部氏との仲介役を務めてきた明智光秀の立場も揺らぎ始めることになります。


尚、『信長公記』によれば11月20日には池田・羽柴両軍は撤退しているとされていますが、淡路島平定が17〜20日までの数日間で完了したかは定かではありません。

秀吉vs吉川元春 〜秀吉の伯耆救援〜

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天正9(1581)年10月、秀吉が鳥取城を包囲している頃、吉川元春はその隙を突いて伯耆(鳥取県西部)の織田方の城・と岩倉の両城を攻略するため出陣します。

そんな状況の中、24日、鳥取城の城主・吉川経家らは秀吉に降伏して切腹して果てます。

25日、鳥取城は完全に秀吉軍が占拠。籠城していた毛利方の兵らは解放されます。

26日、鳥取城を攻略した喜びもつかの間、伯耆の南条元続が城主を務める羽衣石城が吉川元春により包囲されたとの情報が入ります。
秀吉は「南条を見殺しにしては世間の笑い者になる」として、伯耆に向け出陣することを決めます。この日のうちに先発隊が出陣。

28日、鳥取城の戦後処理を済ませると、秀吉自身も出陣し織田方の亀井茲矩の居城・鹿野城(鳥取市鹿野町)に入ります。しかし、秀吉は休むことなく羽衣石救援のため先を急ぎます。

一方の吉川元春は、羽衣石城を包囲していなかったようで、三十町(約2km)離れた馬之山に陣を張っていました。

秀吉は蜂須賀正勝と木下平大夫の軍を元春の備えとして配置すると、自らは羽衣石城の近くに布陣し、羽衣石の南条やその弟・小鴨元清が守る岩倉城と連絡を取り合います。
七日間に及び布陣し、その間、国内の兵を集め武器や兵糧の補給に勤めます。

11月8日、秀吉は万全の備えを整えると播磨・姫路城に引き上げます。一方の吉川元春も秀吉の電撃的な救援と完璧な守備体制に羽衣石・岩倉両城の攻略を断念し軍勢を引き上げます。

結局この合戦は大規模な決戦に至らず終結します。

鳥取城攻略 〜吉川経家の切腹〜

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天正9(1581)年10月、羽柴秀吉が、鳥取城を包囲して3ヶ月余りがすぎていましたが、鳥取城に籠城している吉川経家以下城兵や領民らは悲惨な状況に陥っていました。

城兵らは数日おきに鐘を合図に一斉に城外の柵際まで雑草などを取っては城内に引き返すといった方法で何とか飢えをしのいでいましたが、雑草も取り尽くして牛馬を食べなくてはいけない状況になっていました。しかし、これも食べ尽くすと寒さも加わり飢え死にするものが増えていきました。

籠城する者たちは、飢えの苦しさのあまり城外の柵際まで出てきて、城を包囲する羽柴軍に助けを求めます。しかし、羽柴軍は容赦なくこれを鉄砲などで撃ち殺します。
この死人や重傷者に城兵が群がりその肉を奪い合う
という惨劇が繰り広げられます。

この状況に城将・吉川経家は、降伏を決断。秀吉に自分と森下道与(道誉)・奈佐日本介(中村春続?)の三人の首を差し出すので城兵の命を助けて欲しいと嘆願してきます。

秀吉は早速、信長に状況を報告。信長もこの申し出を承諾します。

10月24日、秀吉からの返事を得た経家ら三人はすぐに切腹し、その首は秀吉のもとへ届けられます。こうして鳥取城は落城しますが、悲劇はこのままでは終わりませんでした。

25日、羽柴軍の兵は、開放された飢えた城兵を哀れみ食事を与えましたが、城兵らは大喜びし一気に大量に食べてしまいます。しかし、極限まで飢えた状態で一気に食事することは危険なことで、せっかく助かった城兵の過半数が頓死してしまいます。

後の世に『鳥取城渇え殺し』と呼ばれることになった、凄惨な籠城戦はこうして幕を閉じます。

この鳥取城には、城代として宮部継潤が入城します。

秀吉戦国城盗り物語 (だいわ文庫 H 67-2)秀吉戦国城盗り物語 (だいわ文庫 H 67-2)あまなつAdhover 秀吉戦国城盗り物語 (外川淳著) によれば、吉川経家の切腹を知った一族の吉川元春は、「前代未聞」「当世の流行」と経家の死を揶揄したそうです。当時は城を明け渡せば城主の命も保証される慣例だった上、経家は派遣された城将だったので切腹する必要はなかったようですが、元春は経家を見殺しにしてしまった無念と織田軍への憎しみが逆に「前代未聞」「当世の流行」という言葉を使わせたのかもしれません?

信長の伊賀視察

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天正9(1581)年9月、信長の次男・北畠信雄を総大将とした織田軍が伊賀を総攻撃し、伊賀を平定しましたが、信長は徹底的な伊賀国人衆の殲滅を命じます。

10月2日付けの信雄宛書状で、「伊賀の国衆は、是非もなく討ち取れ。生き残っているものはすべて討ち果たし、伊勢国境に隠れている者も見つけ出し首を刎ねよ」と命じています。同様の朱印状が大和の筒井順慶にも送られたようです。

9日、信長は、伊賀視察のため信忠と甥の津田(織田)信澄と共に安土を出立。

10日、一之宮(三重県上野市)に到着し、そのまま国見山に登り、伊賀全域の様子を確認します。

信長の伊賀視察は早くから信雄らに伝えられていたようで、伊賀攻めに参加した諸将は、信長一行を迎え入れるための準備に奔走。
滝川一益は、信長の御殿を立派につくり、その他の諸将も信忠のための御殿を作っていました。

そして、豪華な食事で信長一行を迎え入れました。御殿での食事はもちろんのこと道中の休憩に際しても酒肴を準備していたそうです。

11日は雨の為そのまま御殿で滞在し、12日信雄や丹羽長秀・筒井順慶の陣所をめぐり、小波多(小波田・名張市)を家老衆・10人ほどを引き連れ視察し、要所に砦の建設を命じます。

13日、信長一行は視察を終え安土に帰国。

17日、伊賀平定に参陣した諸将も帰国の途につきます。

伊賀国衆は、信長の命によりこの後も各地で捕らえられ殺された者も多かったようですが、無事逃げ延びた者の多くが伊賀出身の服部半蔵正成が仕える三河の徳川家康を頼ったようで、家康もこれを手厚く保護しました。
後に本能寺の変に際し、家康は決死の伊賀越えを行いますが、この伊賀越えを影で助けたのが、家康に恩を受けた伊賀衆でした。

前田利家の能登拝領

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前田利家 (光禅寺蔵)
天正9(1581)年9月、信雄による伊賀攻めが行われている頃、信長は家臣や職人衆に領地を与えたり、褒美を与えるなどしています。

9月8日、賀藤与十郎・万見仙千代重元・猪子兵介高就・安西某の4人が知行地を賜ります。
皆、信長の近臣と思われますが、万見重元は天正6(1578)年に討ち死にしており、この万見は太田牛一の誤記なのか、仙千代の一族なのか不明です。

同日、安土築城に際し、多大な貢献をした職人の頭らが信長より小袖を賜ります。
褒美を与えられたのは、安土城の障壁画を描いた狩野永徳・光信父子、安土の町奉行で安土城築城の際、普請奉行をつとめた木村次郎左衛門高重、安土築城の際の大工の棟梁を務め信長に「日本総天守棟梁」と呼ばれた岡部又右衛門・宗光父子。さらに安土城築城に携わった職人頭・宮西(宮内または木村とも)遊左衛門と息子や竹尾源七。金工家・後藤光乗や奈良の大工ら多くの職人でした。

10月5日には、稲葉通明・高橋虎松・祝重正が知行地を賜ります。

同じ頃、信長は菅屋長頼に命じ、能登・越中で城割を行い、本城のみを残し支城はすべて破却します。と同時に前田利家に能登四郡(羽咋・鹿島・鳳至・珠洲)23万石を与え、利家は能登一国の大名に出世することになります。


伊賀平定 〜其の二 伊賀総攻め〜

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天正9(1581)年9月6日、信雄は御代河原(ミダイガワラ:伊賀町)に本陣を構え、甲賀口の滝川一益や丹羽長秀、信楽口の堀秀政らも近くに布陣します。

10日、織田軍は攻撃を開始。佐那具嶺おろし(さなぐ城下?)や寺院・一之宮(敢国神社・上野市)の堂坊など一帯を焼き払います。佐那具城の伊賀衆は城外に撃って出ますが、滝川・堀両隊に返り討ちされ十数人が討ち死にし退散。織田軍も陣へ引き上げます。

11日、佐那具城を総攻撃する手はずになっていましたが、城兵は夜中に城を捨て退去してしまったため、信雄の軍勢が入城し佐那具城を占拠

各方面から攻め入った軍勢が合流し軍議が開かれます。この席で改めて担当地域を決めそれぞれ出陣します。

阿我郡(那賀郡)には信雄軍・山田郡には織田信包軍・名張郡には丹羽や蒲生らの軍・綾郡には滝川や堀らの軍が攻め入ります。

丹羽らの軍は吉原城主や西田原の城主らを討ち取り、滝川らの軍は、河合城主田屋甚之丞(最初に寝返った田屋氏とは別人)や壬生野城主らを討ち取り、さらに木興城で抵抗していた上服部党や下服部党を壊滅させます。

大和国境近くの春日山(奈良県・山添村)にも多くの75人の指導者かくを含めた多くの老若男女が逃げ込みますが、筒井らの軍によりことごとく討ち取られます。

この時の伊賀攻めで伊賀忍者の上忍であった百地丹波も柏原砦(名張市)で討ち死にしたといわれています。

こうして伊賀国内で大量の殺戮が繰り広げられ、伊賀は平定され伊賀三郡は信雄に、残りの一郡は信包に与えられます。

伊賀平定 〜其の一 信雄出陣〜

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天正9(1581)年9月3日、信長の命を受けた次男・北畠信雄が総大将となり伊賀へ向け出陣します
信雄は、二年前の天正7(1579)年9月17日に独断で伊賀に攻め入り大敗を喫しており、信長はその汚名を返上する機会を与えたものと思われます。さらに織田家の威信をかけて二度目の敗北は決して許されないということで信雄の配下には4万もの兵をつけさせました。

信長は今回の伊賀攻めに際しては、すでに伊賀国内に調略を仕掛け、柘植(三重県・伊賀町)の福地氏や河合(三重県・阿山町)の田屋氏らが内通を約束していたようでこれを機に伊賀攻めを決行したようです。

信雄は伊賀攻めの部隊を四つに分け、北方東側の近江国境の甲賀口(滋賀県・甲賀町)からは自らも加わり、先陣として滝川一益・蒲生氏郷率いる甲賀衆や丹羽長秀・京極高次・多賀常則らが率いる近江衆が侵攻。

北方西側の信楽口(滋賀県・信楽町)からは堀秀政・永田正貞・進藤賢盛・池田秀雄・山岡景宗・不破直光らが侵攻。

北東・伊勢国境の加太口(三重県・関町)からは滝川雄利率いる伊勢衆と織田信包が侵攻。

西・大和国境の大和口(奈良)からは筒井順慶率いる大和衆が侵攻します。

織田軍が攻め込んでくるとかねてからの手はず通りか、柘植の福地氏が人質を差し出し降伏し、柘植城を明け渡します。この城には不破光直が入城。
続いて河合の田屋氏も降伏し、名物の茶壷『山桜』と『きんこう』を差し出します。
信長は、『山桜』だけを受け取り、これを滝川一益に与えます。

しかし、織田の大軍を前にしても寝返ったのは、わずかだったようで多くの伊賀国人衆は、激しく抵抗し悲惨な末路をたどることになります。

高野聖の処刑

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天正9(1581)年8月?、信長は高野聖を捕らえるよう各地の諸将に命じます。

この高野聖とは、高野山金剛寺の勧進僧のこと。

ちなみに『勧進』(かんじん)とは、
仏教の僧侶が衆庶の救済のための布教活動の一環として行われる行為の1つである。
その内容としては直接民衆に説いて念仏・誦経などの行為を勧める者や寺院・仏像などの新造あるいは修復・再建のために浄財の寄付を求める者がいたが、中世以後には後者の行為を指すことが一般的となった。(『ウィキぺディア』より)


8月17日、各地で捕らえられた高野聖、数百人が処刑されます。これは高野山に逃げ込んでいた摂津・伊丹の荒木村重の残党を匿っており、信長の引き渡し要求を無視したためでした。
高野山は、無視した上に信長からの使者10人も殺害するなど敵対行動もとっていました。


後のことになりますが、信長の嫡孫・織田秀信が関ヶ原合戦で西軍に着いたため改易処分となり高野山に送られることになりますが、信長の高野山に対する行為が仇となり秀信は高野山で冷遇された上、追放処分を受けるなどし、悲惨な末路をたどることになります。

鳥取海戦 〜織田水軍vs毛利水軍〜

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天正9(1581)年8月、毛利本隊が鳥取城救援のため出陣するという噂が流れます。鳥取城はこの年6月から羽柴秀吉軍により包囲され危機に陥っていました。

8月13日、信長は毛利軍の動きに備え配下の武将に鳥取出陣の準備を命じます。
この命を受け、丹後の細川藤孝、丹波の明智光秀、池田恒興を大将とした摂津衆(高山重友・中川清秀・安部二右衛門・塩河吉大夫)らは出陣準備を整えます。
光秀と藤孝は共に水軍も編成し、秀吉軍に供給する兵糧を大舟に積み込み鳥取川に停泊させます。

信長は、毛利本隊が出陣してくれば決戦を挑むつもりだったようで、諸将を前に「毛利軍が出陣してきたら、自ら出陣し、西国勢を討ち果たし日本全国残る所なく信長支配下に置く決意である」と述べたそうです。

14日、信長は高山重友を使者とし秀吉に馬三頭を贈ると共に重友に鳥取城周辺の状況を詳細に調べるよう命じます。

23日、噂とは異なり、毛利本隊ではなく鳥取城救援のための兵糧を大量に積んだ毛利水軍が鳥取海上に現れます。
しかし、これに備えていた秀吉配下の水軍や秀吉軍に兵糧を運び込んだばかりの細川配下の松井康之が指揮する水軍が毛利水軍と激突。

毛利水軍は、鳥取城に兵糧を送り届けることが出来ずに織田水軍に大敗。
救援物資を積み込んだ65隻の船は撃沈されます。


この大敗により鳥取城に籠城する吉川経家や城兵らは絶望的な状況となります。

安土馬揃え

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天正9(1581)年8月1日、信長は安土で再び馬揃えを催します。正月の左義長を含めるとこの年、三度目の馬揃えということになります。

この日も近隣の諸将及び近衛前久や織田家一門が参加しての馬揃えとなりました。
信長の装束は白い衣服に笠をかぶり虎皮の行縢姿で、葦毛の馬に騎乗していました。

その他の者は白い帷子(麻の着物)の上に絹の帷子や辻ヶ染めの子袖を片袖だけ脱ぎ、金襴(金を織り込んだ織物)や摺箔(型紙に糊をおき、その上から金箔、銀箔を押したもの)など、それぞれいろいろな袴をはき、笠・ほうこうを着けて騎乗。
この馬揃えも多くの見物人が集まったそうです。

12日、岐阜へ帰国していた信忠は、尾張・美濃の兵を集め長良川の河川敷に馬場を築かせます。築地塀(土を固め、瓦などで屋根を葺いた塀)を築き、高さ八尺(約2.4m)の柵を設け、ここで毎日のように配下の将兵に乗馬の訓練をさせます。

間近に迫った対武田戦を意識しての訓練だったのかもしれません。

近づく信長の“東北平定”

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天正9(1581)年7月20日、出羽(山形県)の大宝寺氏が再び鷹と馬を信長に献上します。大宝寺氏は天正7年7月にも鷹と馬を献上していました。
信長は、返礼に小袖や反物を贈ります。

7月21日、偶然の一致か、秋田の安東愛季も鷹5羽や白鳥3羽を献上。信長は鷹のヒナを気に入り可愛がったそうです。
気を良くした信長は、紋付の小袖や緞子を安東氏に返礼として贈り、使者の小野木某には黄金2枚を与えます。

8月6日、会津(福島県西部)の蘆名盛隆も馬を献上。この馬は奥羽地方で稀にみる名馬だったそうです。

このように東北諸将は相次ぎ、信長に使者を送り、鷹などを献上していました。

この時期、関東では北条氏、中国では毛利氏、九州は、島津・大友・龍造寺氏、四国では長宗我部氏など有力大名が台頭していましたが、東北地方では依然、伊達・最上・津軽・南部・蘆名・相馬などの諸氏が争い有力な大名は現れていませんでした。

伊達氏や最上氏も早い時期から信長と接触しており、東北の諸将のあいだでは、中央権力者の信長に誼を通じ、東北方面での争いを有利に展開しようという思惑とともに、上杉謙信死後、上杉氏が弱体化し、織田軍の東北進出も間近に迫り、危機意識があったのかもしれません。

信長死後、東北地方で有力大名として成長する伊達政宗もこの年15歳。5月に初陣を果たしたばかりの少年でした。

能登・越中諸将の粛清

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天正9(1581)年6月から7月にかけ北陸方面の織田家臣の粛清が相次ぎます。織田家臣といっても上杉謙信の死後、信長に降伏した者がほとんどでした。

6月27日、旧畠山家臣で親上杉派だった遊佐続光とその弟さらに続光の次男・伊丹三郎が能登・七尾城で切腹させられます。

遊佐氏は、謙信死後も親上杉派として七尾城を居城とし信長に抵抗。同じく畠山家臣で親織田派だった長続連はじめ一族のほとんどを殺していました。ちなみに長続連の息子・連龍は織田家に派遣されていたため難を逃れています。

このような経緯もあり、柴田勝家が能登北部まで侵攻してきたため織田家に降伏していた遊佐一族を信長は信用しておらず、菅屋長頼に命じて切腹に追い込んだものと思われます。

遊佐氏と常に行動を共にしていた温井景隆と弟の三宅長盛は、次は自分たちが粛清されると考え出奔し、上杉家を頼り越後に逃れます。以後上杉家臣として織田家に抵抗を続けます。

7月、今度は越中・木舟城主・石黒左近と家老・石黒与左衛門・伊藤次右衛門・水巻采女佐が狙われます。石黒氏も謙信死後、織田家に降っていました。
信長は、石黒一門を安土に呼び出します。

6日、石黒一門は30騎を率い安土へ向かいます。しかし、長浜で石黒氏は身の危険を察知し逃げ出します。信長は丹羽長秀に命じ佐和山で石黒一門を討ち取る計画をしていました。
計画が露見し逃げ出した石黒一門を討ち取るため長秀は手勢を率い長浜へ向かいます。長浜で長秀勢と石黒一門は戦うことになります。石黒氏の必死の抵抗により長秀の家臣2〜3名が討ち死にしますが、追い詰められた石黒一門17人は長浜の町屋内にて切腹して果てます。

7月25日にはすでに記述したように寺崎父子が切腹させられ、北陸方面で織田家に降った有力な国人の多くが、この時期一気に粛清され北陸方面の織田家支配体制は強固なものになりつつありました。

鳥取城包囲 〜羽柴秀吉VS吉川経家〜

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天正8(1580)年9月に城主・山名豊国が出奔し織田方に服属していた因幡・鳥取城は、天正9(1581)年3月18日、毛利家からあらたな城主を迎えていました。城主になったのは、毛利元就の次男が継いだ吉川元春の支族・吉川経安の嫡男・経家

この鳥取城は、険しい山城のため、中国方面を任されていた秀吉も容易に攻撃することは出来ませんでした。

6月25日、秀吉は2万の軍勢を率い出陣。毛利本隊の攻撃に備え鳥取城近郊に出城を築いた上で、鳥取城とその支城を堀や土塁・柵などで二重三重に巡らし包囲します。

秀吉は包囲網内に町屋のような陣屋を作り、海上も封鎖し兵糧搬入を完全に阻止し長期戦に備えます。

吉川経家は、この堅固な山城に籠城し雪の季節を待てば秀吉は包囲を解いて退却するものと考え、秀吉軍の包囲前より兵糧を集め、籠城に備えていました。
しかし、思うように兵糧を集めることが出来ないまま秀吉軍に包囲されてしまいます。

秀吉は、早い段階から鳥取城の兵糧攻めを計画し、包囲以前に周辺の農民が鳥取城に逃げ込むように嫌がらせ等の行為をし城内の人数を増やし兵糧の消費を多くし、時価の数倍で米を買い取るなどし、鳥取城へ兵糧が流れることを阻止していました。このため経家は兵糧を集められませんでした。
そして、収穫前の時期を狙い秀吉は一気に城を包囲します。

このようにまともな籠城準備を出来ないまま、鳥取城は包囲され、後に『鳥取城の干し殺し』(飢え殺しとも)と呼ばれる凄惨な結末を迎えることになります。

願海寺城主・寺崎父子の死

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天正9(1581)年4月?、上杉謙信死後、織田方についていた越中・願海寺城主寺崎盛永・喜六郎父子が再び上杉方に通じているという情報が織田方にもたらされます(※1)

4月下旬または5月上旬、能登・七尾城の城代を務めていた菅屋長頼は、願海寺城を攻撃。寺崎盛永は、この攻撃の最中、家臣の裏切りにより?捕らえられ織田方に引き渡されたと思われます。盛永は、七尾城に送られ監禁
※『上杉古文書』によると、5月6日付けで「盛永は能登(七尾城か?)で切腹し、盛永を裏切り織田軍を城内に引き入れた家臣は、喜六郎が手打ちにした」となっているそうです。

5月20日頃、父・盛永が捕らえられながらも、抵抗を続けていた息子・喜六郎も降伏。長頼軍に捕らえられ七尾城に護送されます。
佐々成政も長頼軍に合流したようで、26日に撤収。

5月24日には、越中・松倉城に籠城していた上杉方の河田長親が病死。上杉軍の勢力が徐々に衰退していきます。

6月21日、七尾城に監禁されていた寺崎父子は、丹羽長秀の居城、近江・佐和山城に移され尋問され、再び監禁生活を送ることになります。

7月17日、寺崎父子は切腹を命じられます。盛永は「親が先に行くのが筋である」とし、先に切腹。喜六郎は、父から流れでる血を手のひらに受け、それを舐め「私もお供いたします」と言いのこし切腹して果てます。喜六郎は17歳の美少年だったそうです。


※1 今回の内容は、谷口克広氏著『信長と消えた家臣たち―失脚・粛清・謀反』を参考に個人的に推測した記事です。寺崎氏が上杉氏と通じていたことを示す明確な文書は確認できていません。

槇尾寺、焼き払い

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天正9(1581)年3月9日、信長は和泉国(大阪府南西部)の検地を行うため堀秀政を派遣。

4月、和泉国にある槇尾寺(施福寺)に対しても秀政は、土地目録の提出を要求します。この槇尾寺は、弘法大師空海が出家した由緒ある寺。
僧たちは、検地により寺領の一部を没収されることを恐れ、槇尾山麓の村を占拠し目録の提出を拒否します。

この報告を受けた信長は、不届きであるとし、寺僧全員の処刑と堂塔の焼き払いを命じます。

槇尾寺は峻険な地にあり、寺僧らはこの地に立てこもれば抵抗可能と考えていたようです。しかし、秀政の軍勢が実際に陣を構えると寺僧たちは敗北を予感し、寺の道具など、貴重な品々を避難させます。

4月20日夜、老若7〜800の寺僧が武装し、観音堂に集結。本尊に別れを告げ、離散することを悲しみます。その泣き叫ぶ声は雷鳴のように緒伽藍に響き渡ったそうです。
寺僧たちはこの後深夜から明け方に掛け、それぞれ縁を頼り寺から退去します。

5月10日、織田信澄・蜂屋頼隆・堀秀政・松井友閑・丹羽長秀が槇尾寺を検分。
建材として利用できそうな部分を解体し持ち運び、残った堂塔や僧坊さらに経巻に至るまで秀政検使の下、すべて焼き払われてしまいます。

ちなみに現在残る本堂は豊臣秀頼が再建したものだそうです。

若狭国、再編

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天正9(1581)年4月13日、信長の近臣である長谷川秀一と野々村正成の二人が領地を与えられます。野々村は馬廻り衆として、長篠・設楽原合戦で鉄砲隊を指揮して参陣もしていますが、長谷川と組んで信長側近として吏僚的な活躍が多かったようです。

この二人は信長直轄領の近江・野尻の代官も務めていたので、近江国内か美濃・越前辺りに領国を賜ったと思われます(詳細確認できませんでした)。

16日、丹羽長秀率いる若狭衆として馬揃えにも参加した若狭の逸見昌経が病死します。(3月26日に死去したとも)
信長はこの遺領8千石のうち3千石を逸見のかつての主筋である武田元明に与えます。残りの5千石は丹羽長秀の配下から信長直臣に取り立てた溝口秀勝に与え若狭国の目付け役を命じます。

逸見昌経には遺児がいたとも伝わりますが、信長は逸見の死を好機と考えたのか、若狭の所領を召し上げ、安土周辺に織田家譜代またはそれに近い家臣を配置することで織田政権の基礎を固めていきます。

19日、武田・溝口の二人は、織田信忠に礼を述べるため岐阜へ参上します。

武田氏は礼は述べたものの足利政権下では、若狭の守護を務めていた家柄で、このとき所領を与えられながらも内心不満があったのかもしれません。後の本能寺の変では、明智光秀に加勢。丹羽長秀に属していながら、若狭衆の中には光秀に味方する者が多かったようです。

ちなみに溝口は本能寺の変後、旧主・丹羽長秀のもとの帰参。長谷川は、徳川家康と共に堺におり、難を逃れ三河まで家康一行と行動を共にし、野々村は、二条御所で信忠と共に光秀軍と戦い討ち死にすることになります

竹生島事件 〜女房衆の処刑〜

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天正9(1581)年4月10日、信長は、小姓衆5〜6人を従えて竹生島参詣に出かけます。
この竹生島(ちくぶしま)は琵琶湖北部にある小さな島で神の住む島として古くから信仰の対象となっている島でした。

安土から馬に乗って出発した信長一行は、羽柴秀吉の居城・長浜城に立ち寄りそこから船に乗り換えて竹生島へ向かいました。その距離片道15里(約60km)。

安土に残った女房衆(信長の身の周りの世話をする女性たち)は、往復30里(約120km)の遠路だから信長は長浜城に宿泊するだろうと考え、信長の留守をいいことに自由に過ごしていました。

しかし、女房衆の予想に反し信長は驚くべき速さでその日のうちに安土城に帰還します。
のちに秀吉が『中国大返し』として高松−京都間、約235kmを約7日間かけて移動したことが驚くべき速さと言われることを考えると、信長一行は少人数だったという利点も当然ありますがかなりの速さといえると思います。

信長の予想外の早い帰城に安土城内は大騒ぎになります。女房衆の中には二の丸に出かけている者もいましたが、桑実寺(蒲生郡安土町:安土山の隣接の繖山(観音寺山)の中腹にある寺)へ薬師参りに出かけているものもいました。

この状況を見た信長は、怠けていたものを縛り上げます。桑実寺へ出かけた者たちは信長の罰を恐れ、寺の長老に助けを求めます。

長老は、「お慈悲を持って女房衆をお助けください」と願い出ますが、かえって信長の怒りを買ってしまい女房衆と共に長老まで処刑されることになってしまいました。

高天神城陥落 〜武田家の衰退〜

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天正9(1581)年3月、徳川家康の軍が前年10月から包囲していた武田方の城・高天神城で大きな動きがありました。

武田勝頼の援軍のないまま約5ヶ月籠城を続けた高天神城の城兵ですが、多くの兵が餓死する状況になっていました。城将・岡部元信は、一か八かの包囲網突破を計画します。

3月25日亥の刻(午後10時頃)、夜陰に紛れ、高天神城城兵は一斉に城外に打って出ます。徳川軍と合戦になりますが、長期に渡る籠城のため体力の衰えきった武田軍の兵は次々討ち取られ総勢688人が討ち死にします。
この中には城将・岡部元信も含まれていました。副将を務めていた横田尹松は、命からがら甲斐へ落ち延びました。

この高天神城には天正2(1574)年、武田家に城を奪われた際、勝頼への臣従を拒み石牢に幽閉された大河内源三郎正局(まさもと)という徳川家の家臣がいましたが、徳川が城を奪還したことにより7年に渡る幽閉から開放されることになりました。
ちなみに大河内は、家康が今川家の人質となっている頃、今川家臣でしたが、家康に特にやさしく接してくれた人物だったようです。

高天神城を奪い返された勝頼ですが、信玄死後、長篠・設楽原合戦で重臣の多くを失いながらも何とか領国を保ってきましたが、高天神城を救えなかったことで家臣の求心力は大きく低下します。

この徳川軍の勝利により、武田攻めの好機と考えたかは不明ですが、信長はこの年、徳川領に大量の兵糧を運び込み武田攻めの準備を始めます。

信長と勝頼、決着の時まであと1年。

細川家の丹後移封

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天正9(1581)年3月、細川藤孝(当時長岡姓。後の細川幽斎)は、本拠を京・青竜寺城(勝竜寺:長岡京市)から前年8月に拝領した丹後・宮津城(京都府宮津市)に移すことにします。これに伴い藤孝は、青竜寺城を信長に献上。この細川家の丹後転居は実際は信長の命令だったのかもしれません。

3月25日、藤孝の意を受けた信長は早速、矢部家定と猪子高就を青竜寺城に派遣し、旧細川領の検地(田畑の測量)を実施します。

丹後攻略に当っては、細川藤孝の息子忠興・興元は大活躍をしたようですが、細川家単独での攻略は難しかったようで、明智光秀の助力によりなんとか丹後は平定されたようです。藤孝は宮津城築城にあたり明智光秀とよく相談して執り行うよう信長に命じられており、丹後経営に関しても光秀が関わることが多かったと推測されます。

細川家と明智家は、藤孝の長男・忠興と光秀の三女・たま(後の細川ガラシャ)が天正6(1578)年結婚しており親戚関係でもありました。

光秀の他の娘は、近江高島郡を領する信長の甥(弟・信勝の子)信澄と結婚しており、真偽は不明ですが光秀の息子が大和(奈良県)を領する筒井順慶の養子になるという話があったとも伝わっており、京の周辺(近江坂本・高島、丹波丹後、大和)は光秀の姻戚関係や配下の武将が領する状況で、当時の光秀に対する信長の絶大なる信頼をうかがわせる領地配分でした。

このわずか一年後、その信頼は裏切られることになります。

上杉景勝の越中侵攻

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天正9(1581)年3月6日、佐々成政や神保長住ら越中の国衆が上洛します。
この直前には、柴田勝家や前田利家らは馬揃えの参加のため上洛しており北陸方面は手薄の状況になっていました。

上杉景勝は、これを好機と見て動き出します。まず、家臣の河田長親に命じ、松倉(富山県魚津市)で一揆を扇動。

9日、混乱に乗じ、景勝自身も越中に乱入し佐々成政の居城・小出手城を包囲します。城主・成政不在の城兵は籠城を余儀なくされます。

この上杉の越中侵攻に呼応するように加賀でも一揆が蜂起します。柴田勝家は、留守をするにあたり、兵糧などの貯蔵庫の警護のため府峠(石川県・鳥越村)に300人ほどの軍勢を配備していましたが、一揆勢の攻撃により壊滅。

加賀の守備を任されていた佐久間盛政は、すぐさま出陣し一揆勢を討ち破ります。


12日、安土に帰還していた信長のもとへ佐々成政や神保長住らは訪れ挨拶を済ませていますが、15日になって上杉氏の越中侵攻の急報が届き、信長はすぐさま、対策を講じます。柴田勝家ら越前衆や佐々成政ら越中衆に帰国を許し、帰国後速やかに越中に向け出陣するよう命じます。

24日早朝、越中に到着した佐々成政らでしたが、織田軍が越中に向かっている情報を得た上杉景勝らは、すぐに撤退し、織田軍の追撃を免れます。

佐々成政は、この年2月、まだ完全に掌握し切れていない状況ながら信長より越中を与えられていたようですが、わずか一ヶ月あまりでその領国を失いかねない危険な状況でした。しかし、小出手城の城兵は、上杉軍の攻撃によく耐え、城を守り抜いてくれ、成政は家臣におおいに感謝したことと思われます。
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