戦国情報ウェブマガジン 戦国ウォーカー

戦国時代

× Sengoku Walker



戦国武将列伝

■織田信秀

mixiチェック
織田信秀
1510(永正7年)〜1551(天文20年)尾張にて誕生。織田信定の子。信長の父。通称三郎、弾正忠のち備後守を名乗る。
尾張守護斯波氏の臣。尾張国下4郡の守護代・織田大和守達勝に仕えた清洲三奉行の一人。
信秀は、交易の重要拠点である湊町・津島を支配下に置き、その経済力により勢力を拡大する。

1532(天文元年)、主家の大和守達勝と対立。翌年には和睦。

1538(天文6年)、今川氏豊の那古野城を奪う。これ以降、1560年の桶狭間の戦いまで今川家と長い抗争が繰り広げられる。

1540(天文9年)、三河国安祥城を攻略し、三河進出の拠点を得る。

1542(天文11年)、三河小豆坂にて今川義元勢を破る(第一回小豆坂の合戦)

1547(天文16年)、美濃国斉藤道三と激突(加納口の合戦)。稲葉山城下まで迫るも敗れる。

1548(天文17年)、再び三河小豆坂にて今川軍と激突。この戦いに敗れる(第二回小豆坂の合戦)。この年秋、斉藤家と和睦。信長と帰蝶の婚姻が成立。

1549(天文18年)、三河国安祥城を今川・松平連合に奪われる。長男・信広が人質となり、竹千代(後の徳川家康)と人質交換を行う。

1551(天文20年)、3月3日流行の病で死去。享年42歳。法名は万松院桃巌道見。

一時は尾張下四郡や西三河まで版図を拡大し、織田家随一の勢力を誇りながらも尾張統一には至りませんでした。しかし、信秀が残した家臣や経済力などを嫡子・信長が見事に使い、尾張一国の統一どころか天下を狙えるまでに織田家は成長します。

■斎藤道三

mixiチェック
斉藤道三1494?(明応3年)〜1556(弘治2年)
松波左近将監基宗の子として山城西ノ岡に生誕。
幼名、峰丸。法蓮房。松波庄五郎(一説には庄九郎)。山崎屋庄五郎。西村勘九郎正利。長井新九郎規秀。斎藤新九郎利政。斎藤秀龍。山城守。入道して道三。

一介の油売りから美濃一国の大名まで出世したことでよく知られていますね。
名前を変えるたびに出世していきましたが、「マムシ」の異名も持ち謀略の限りを尽くし主家を乗っ取り極悪人のように言われています。

力のある者が、のし上がる下克上の時代、日本各地でこのようなことは行われているわけで、特に道三を悪く言うのは変な話ですね。まあ、道三が美濃一国を支配できるまで出世できたから、あれこれ言われる存在になったんでしょうね。

最近では、美濃の国盗りは「道三の父」と「道三」、親子二代にわたっての業績という研究が有力となっているようですね。
財)岐阜観光コンベンション協会の常在寺(斎藤家の菩提寺)紹介文にも「斎藤家の菩提寺。斎藤道三とその父が二代にわたり商人から美濃国を制する拠点とした寺です。」と何の疑問符もなく断言されています。

以下に道三の略歴を記します。(ここでは通説?の一代による出世を紹介します)
続きを読む

■朝倉敏景

mixiチェック
ここで戦国時代を語る上で重要な人物である、朝倉敏景(1428〜1481年:正長元年〜文明13年)について書きたいと思います。

この朝倉敏景(別名・孝景)は前述の「織田家発祥の地」である越前に朝倉氏5代100年の基盤を築いた人物で、戦国時代の先駆者といえる人物なのです。

朝倉氏は織田氏同様、越前守護の斯波氏の家臣でした。
朝倉敏景の代になり三家老の一人に昇進しました。

1452(享徳元年)その後の応仁の乱の引き金になる出来事が起こります。
守護の斯波義健が死にます。その養子の義敏が三家老(甲斐・朝倉・織田)により追放され、義廉を新たに養子とします。

三家老の推す斯波義廉は西軍の山名宗全に属していましたが、東軍の細川勝元が謀略を仕掛けます。

三家老の一人、朝倉敏景に「寝返れば越前の守護にする」と持ちかけます。
宿願を果たすべく、迷わず東軍に寝返り他の家老と争います。

朝倉敏景は、これにより応仁の乱の中頃(1472年頃)には、越前をほぼ手中に収め斯波氏より守護の座を奪ってしまったのです。
下克上の始まりですね。

この朝倉敏景という人物は合理的精神の持ち主で、信長を思わせるようなところがかなりあります。

それが敏景の定めた家訓・朝倉敏景十七箇条(三楽堂さんのHPに詳しく書かれています)に表れています。

そして、この朝倉家は同じ合理的精神の持ち主である織田信長によって滅ぼされます。(1573年のことになますね)

北条早雲といい朝倉敏景といい、初代は偉大な人物なのに、ともに5代目で滅んでしまうとは、皮肉ですね。

■北条早雲

mixiチェック
北条早雲
1432(永享4)年〜1519(永正16)年。
はじめ伊勢新九郎長氏。のち入道して早雲庵宗瑞と号す。
戦国時代の典型的人物で、後北条氏の祖。
一介の素浪人から関東を制する大大名になる。

早雲の前半生は謎で出身も定かではありません。
有力なのが、信濃の小笠原定基宛の書状に、小笠原家の家臣・関右馬場允が同じ伊勢(三重県)出身で、同族であるとし、それではじめ伊勢新九郎と名乗ったというもの。

もう一つ有力なのが、京都出身説。足利幕府の要職を務めた伊勢貞藤の子で貞藤が将軍の勘気をうけ応仁の乱にさいし伊勢に下ったというものがある。

他にも諸説ある。

出自は不明ではあるが、妹が駿河の今川義忠の側室になっているので、それなりの家柄とおもわれる。

前述の今川家の内紛を収めた功により興国寺城主となる。
このとき、領内の年貢を免じて、領民より慕われるようになる。

その後、1491(延徳3)年の堀越公方の内乱で混乱に陥った伊豆国を占拠。

1495(明応4)年、関東進出の第一歩として小田原を攻める。この際、早雲は巧妙な計略を用いる。

その計略とは、小田原城の大森藤頼に「鹿狩りをしていたところ、鹿がみな箱根の山へ逃げ込んだので、勢子(狩猟で鳥獣を狩り出したり、逃げるのを防いだりする人夫)を小田原領内に入れ、伊豆のほうへ鹿を追いやりたい」と申し出、許可を取り、勢子に扮装した屈強な若武者を小田原に入れる。
その数、数百人。さらに犬引きに見せかけた数百人に竹槍などの武器をもたせていた。

小田原城下にたいまつをつけた牛の大群を放ち、勢子に扮した若武者が後につづき、小田原城はあっけなく陥落。

早雲は小田原城を手に入る。
この後、後北条氏は5代に渡り、関東を支配していくことになる。

ちなみに早雲は北条姓を名乗ったことはなかったそうです。

■太田道灌

mixiチェック
太田道灌1432〜1486年(永享4年〜文明18年)
太田資清の子。名は資長。のちに剃髪して道灌と号した。扇谷上杉定正の執事として仕えたが、その能力が主人をこえていたので、しばしば問題を起こした。そしてこれが原因で、ついに主人定正に暗殺される。軍事家で文学者。江戸城の築城でいまも有名。東京では開発の恩人とし、都庁前や新宿の中央公園に銅像をつくって顕彰している。

下記サイトを参照。
『太田道灌』
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/kwg1840/doukan.html#mokuji
sengoku 検索
お知らせ
■戦国情報ブログ「Sengoku Walker」と統合しました。あらためてよろしくお願いします。


■このブログは専門知識のない管理人が本やネット・テレビ等から得た情報を元に書いています。


■このブログに書かれている内容は一つの説にすぎません。またこのブログで紹介している人物の年齢は基本的に数え年で表記し、推定年齢の人物もいます。ご了承ください。


■記事の誤りなど気付かれた方はぜひコメントにてお知らせください。よろしくお願いします。


■当ブログはリンクフリーです。
月別アーカイブ
戦国MONO


戦国グッズ専門店
【戦 国 M O N O】
入口






戦国書房 Pick Up

≫ 戦国書房入口
戦国ウォーカー twitter版
戦国ニュース
【戦国ニュース】
>>戦国ニュースをもっと読む  ※twilogにつながります
応援よろしくお願いします!




Mac ソフトのことなら act2.com


  • ライブドアブログ