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戦国時代

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‐綽景ラ

摂津再出馬と御館の乱の終結

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天正7(1579)年3月5日、信長は前日に上洛し合流した息子の信忠・信雄・信孝それに弟の信包を率いて摂津・有岡城へ向け再び出陣します。

7日、信長は古池田に本陣を構え、戦況を見つめます。
越後の上杉氏は景勝と景虎が家督争いをしている最中で、加賀の本願寺門徒衆の動きも無いと判断した信長は越前衆の前田利家・佐々成政・金森長近らも摂津に動員し有岡城の荒木村重への圧力を強めます。

しかし、大軍勢を動員しながらも信長は前年の力攻めの失敗を反省したのか一気に城攻めは行わずじっくり包囲戦を展開します。

このような状況の中、越後の上杉家で大きな動きがありました。
前年3月の上杉謙信の死後家督を争っていた二人の養子・景勝と景虎の家督争いに決着が付きます。

3月17日、御館城が景勝の攻撃を受け落城。籠城していた景虎はかろうじて脱出に成功し実兄である北条氏政の居城小田原城を目指します。

24日、景虎は途中で鮫ヶ尾城に立ち寄りますが城主・堀尾宗親が叛旗を翻し、観念した景虎は自害して果てます。享年27歳。
これにより約一年に渡る上杉家の内紛は景勝が家督を相続することで終結します。

しかし、御館の乱で疲弊した上杉家は北陸方面の織田軍を攻める余力は無く、信長としては特に危機は感じていなかったようで以後も主力を摂津・播磨方面に駐留させ続けます。

さらに、この間信長はたびたび鷹狩りに出向き、3月30日には箕雄の滝(大阪府箕面)の見物をするなど戦場にいるとは思えない行動を繰り返します。

徳川家康VS武田勝頼 天正6年の攻防

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1578(天正6)年10月の荒木村重の謀反で、西国戦略が大きく狂ってしまった信長ですが、この苦境に盟友である徳川家康はどうしていたのでしょう?話がそれてしまいますが紹介しておきます。

この年3月に上杉謙信が死去し、上杉家では景勝と景虎が後継者争い(御館の乱)を繰り広げ、手薄となった越中や加賀方面では織田家の柴田勝家や斎藤新五郎らが、徐々に勢力を伸ばしつつありました。

そして、同月、家康は、武田方の遠江の高天神城に対する拠点として横須賀城を築城し、さらに五つの砦も築きます。この完成と共に家康は松平家忠らに命じ、半年に渡り断続的に武田方の田中城・小山城などを攻撃させます。

武田勝頼は、上杉家の後継者争いに当初、景虎の兄である北条氏政の要請で景虎派として参戦します。しかし、景勝が一枚上手で、領地である上野郡沼田を武田家に譲って和議を結んでしまいます。さらに景勝は勝頼の妹・菊姫を正室として迎え、同盟を結んでしまいます。

勝頼も西の織田・徳川勢が虎視眈々、駿河・信濃を狙っている状況で、長期戦は望んでいなかったので、早々に有利な条件で和議を結び上杉家の内紛から手を引いたのかもしれません。

6月、勝頼は早くも甲斐に撤退してしまいます。

9月、勝頼に裏切られた北条氏政は、仕方なく自ら景虎の援軍として景虎の援軍に向かいますが、景勝に敗退してしまいます。

10月、荒木村重が謀反を起こしたこの月、北の上杉氏、東の北条氏の脅威が少なくなった勝頼は、徳川を牽制すべく動き出します。大井川を越え遠江に進軍。

11月、横須賀城に迫り、徳川軍とにらみ合いますが、結局合戦には至らず、勝頼は高天神城に撤退することになります。

このような状況で、家康は苦境に陥った信長に援軍を送ることが出来ずにいました。
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