さて、前回唐突に?その名が登場した羽柴秀勝ですが、どのような人物なのでしょうか?実は、この羽柴秀勝は三人もいたという説があります。二人は実在しますが、一人がその存在が疑われる人物です。
その一人とは、秀吉の長男とされる石松丸秀勝。元亀元(1570)年生まれ天正4(1576)年10月14日に7歳で夭折したと伝わっているそうです。
秀吉が近江・長浜時代に地侍の娘(南殿)に生ませた子と説明されることが多いようですが、秀吉が長浜を与えられるのが、浅井氏滅亡後の1573年とすると生まれ年の計算が合わないような?いずれにしても元服前で秀勝と名乗ったことがあるのか疑わしい感じですが・・・
また、某歴史番組では、秀吉の妻・おねが妬んで毒殺したという根拠もない説まで紹介されていましたね。その真偽は置いておくとして、秀勝の菩提寺とされる滋賀県長浜市の妙法寺には秀勝とされる肖像画(1953年焼失)や天正4年10月の銘文がある供養塔もあり、2003年には供養等と一体と思われる埋葬施設も発見されましたが、残念ながら遺骨は見つかっていません。その実在は、謎のままのようです。
二人目の秀勝は前回登場した、信長の四男・於次丸秀勝。永禄11(1568)年生まれで天正7(1579)年頃、子のなかった秀吉が信長に頼み込んで養子にしたようです。当然、秀吉は織田家中で影響力を強めようと画策したのでしょう。
本能寺の変後、喪主として秀吉に立てられ信長の葬儀を行ない、明智光秀の旧領である丹波・亀山を拝領。多くの合戦で活躍しますが、天正13(1585)年12月10日、19歳で病死してしまいます。
その天正13年7月11日には秀吉は関白になっており、もはや織田家の威光が必要なくなった秀吉の謀殺では?と個人的に考えてしまいます。信長三男・織田信孝や関白秀次を死に追いやったことを考えると疑いたくなってしまいます・・・まさか本能寺の変まで?!考えすぎですね・・
三人目は小吉秀勝。永禄12(1569)年生まれ。実父は三好吉房。母は秀吉の姉・とも(日秀)ということで、関白となる豊臣秀次の弟になります。於次秀勝死去後、秀吉の養子となり、・丹波亀山を引き継ぎます。その後、甲斐や美濃岐阜に移りますが、豊臣秀勝と名乗り、秀吉の後継者と目されていましたが、天正15(1587)年の九州攻めの論功行賞で秀吉を怒らせ家督継承はなくなります。
小吉秀勝は、織田信長の姪で淀殿の妹であるお江与と結婚して娘・完子を儲けますが、文禄元(1592)年9月9日、文禄の役で朝鮮に出兵中、陣中で病没。享年24歳。
ちなみに娘・完子は後に公家の九条幸家に嫁いでいます。もしかして、この系統の豊臣家の血は、健在??
以上のようにいずれの秀勝も短命の不運な生涯をたどりましたが、この他の秀吉の養子たち(実子もですが・・)も不運な生涯でしたね。他の養子たちに関してもまた機会を改めてお伝えしたいと思います。
その一人とは、秀吉の長男とされる石松丸秀勝。元亀元(1570)年生まれ天正4(1576)年10月14日に7歳で夭折したと伝わっているそうです。
秀吉が近江・長浜時代に地侍の娘(南殿)に生ませた子と説明されることが多いようですが、秀吉が長浜を与えられるのが、浅井氏滅亡後の1573年とすると生まれ年の計算が合わないような?いずれにしても元服前で秀勝と名乗ったことがあるのか疑わしい感じですが・・・
また、某歴史番組では、秀吉の妻・おねが妬んで毒殺したという根拠もない説まで紹介されていましたね。その真偽は置いておくとして、秀勝の菩提寺とされる滋賀県長浜市の妙法寺には秀勝とされる肖像画(1953年焼失)や天正4年10月の銘文がある供養塔もあり、2003年には供養等と一体と思われる埋葬施設も発見されましたが、残念ながら遺骨は見つかっていません。その実在は、謎のままのようです。
二人目の秀勝は前回登場した、信長の四男・於次丸秀勝。永禄11(1568)年生まれで天正7(1579)年頃、子のなかった秀吉が信長に頼み込んで養子にしたようです。当然、秀吉は織田家中で影響力を強めようと画策したのでしょう。
本能寺の変後、喪主として秀吉に立てられ信長の葬儀を行ない、明智光秀の旧領である丹波・亀山を拝領。多くの合戦で活躍しますが、天正13(1585)年12月10日、19歳で病死してしまいます。
その天正13年7月11日には秀吉は関白になっており、もはや織田家の威光が必要なくなった秀吉の謀殺では?と個人的に考えてしまいます。信長三男・織田信孝や関白秀次を死に追いやったことを考えると疑いたくなってしまいます・・・まさか本能寺の変まで?!考えすぎですね・・
三人目は小吉秀勝。永禄12(1569)年生まれ。実父は三好吉房。母は秀吉の姉・とも(日秀)ということで、関白となる豊臣秀次の弟になります。於次秀勝死去後、秀吉の養子となり、・丹波亀山を引き継ぎます。その後、甲斐や美濃岐阜に移りますが、豊臣秀勝と名乗り、秀吉の後継者と目されていましたが、天正15(1587)年の九州攻めの論功行賞で秀吉を怒らせ家督継承はなくなります。
小吉秀勝は、織田信長の姪で淀殿の妹であるお江与と結婚して娘・完子を儲けますが、文禄元(1592)年9月9日、文禄の役で朝鮮に出兵中、陣中で病没。享年24歳。
ちなみに娘・完子は後に公家の九条幸家に嫁いでいます。もしかして、この系統の豊臣家の血は、健在??
以上のようにいずれの秀勝も短命の不運な生涯をたどりましたが、この他の秀吉の養子たち(実子もですが・・)も不運な生涯でしたね。他の養子たちに関してもまた機会を改めてお伝えしたいと思います。