戦国時代は各地で合戦があり、人が死ぬことは特に珍しいことではなかったかもしれませんが、現代と同じように合戦以外でもいわゆる“殺人事件”がありました。

今回紹介するのは、『信長公記』に取り上げられている「京都四条糸屋事件」。
著者の太田牛一が“前代未聞”と記しているので、殺人事件は戦国時代にあっては珍しいことだったのかもしれません。現代の日本は戦国時代と逆の傾向ですね・・・

織田軍が摂津・播磨方面に出陣中の出来事です。

天正7(1579)年4月24日、下京四条小結町(京都市下京区)に糸屋の後家である70歳くらいの老女とその娘(50歳前後か?)さらに下女が住んでいました。

娘はこの日の夜、酒屋で酒を買い、母親に振舞います。母親がもう飲めないというのに無理やり飲ませ酔い潰します。完全に酔ってフラフラの母親を土蔵に担ぎこみ夜更けを待ちます。人が寝静まった頃を見計らって娘は母親を刺し殺してしまいます。

娘は遺体を箱に入れ厳重に縛ります。後ろめたい気持ちもあったのか、それともたたりを恐れたのかはわかりませんが、僧を呼びます。しかし、自家は法華宗であるのにもかかわらず浄土宗の僧を呼び、密かに寺に運び込みます。

娘は事件の発覚を恐れ、下女に小袖を与え口を封じます。
しかし、下女はもしこのことが発覚したら自分もただではすまないと思い、京都所司代である村井貞勝に事件を告げます。


娘はすぐに捕まり、取調べを受けます。
動機については書かれていませんが、4月28日、娘は市中引き回しの上、京都・六条河原で処刑されます。

この六条河原は鴨川の河原で処刑場として名高いですが、戦国期には本能寺の変で光秀と行動を共にした斎藤利三や関ヶ原合戦の折には西軍の石田三成・小西行長らもこの地で処刑されています。