北条早雲
1432(永享4)年〜1519(永正16)年。
はじめ伊勢新九郎長氏。のち入道して早雲庵宗瑞と号す。
戦国時代の典型的人物で、後北条氏の祖。
一介の素浪人から関東を制する大大名になる。

早雲の前半生は謎で出身も定かではありません。
有力なのが、信濃の小笠原定基宛の書状に、小笠原家の家臣・関右馬場允が同じ伊勢(三重県)出身で、同族であるとし、それではじめ伊勢新九郎と名乗ったというもの。

もう一つ有力なのが、京都出身説。足利幕府の要職を務めた伊勢貞藤の子で貞藤が将軍の勘気をうけ応仁の乱にさいし伊勢に下ったというものがある。

他にも諸説ある。

出自は不明ではあるが、妹が駿河の今川義忠の側室になっているので、それなりの家柄とおもわれる。

前述の今川家の内紛を収めた功により興国寺城主となる。
このとき、領内の年貢を免じて、領民より慕われるようになる。

その後、1491(延徳3)年の堀越公方の内乱で混乱に陥った伊豆国を占拠。

1495(明応4)年、関東進出の第一歩として小田原を攻める。この際、早雲は巧妙な計略を用いる。

その計略とは、小田原城の大森藤頼に「鹿狩りをしていたところ、鹿がみな箱根の山へ逃げ込んだので、勢子(狩猟で鳥獣を狩り出したり、逃げるのを防いだりする人夫)を小田原領内に入れ、伊豆のほうへ鹿を追いやりたい」と申し出、許可を取り、勢子に扮装した屈強な若武者を小田原に入れる。
その数、数百人。さらに犬引きに見せかけた数百人に竹槍などの武器をもたせていた。

小田原城下にたいまつをつけた牛の大群を放ち、勢子に扮した若武者が後につづき、小田原城はあっけなく陥落。

早雲は小田原城を手に入る。
この後、後北条氏は5代に渡り、関東を支配していくことになる。

ちなみに早雲は北条姓を名乗ったことはなかったそうです。