佐竹義重
天正7(1579)年9月、荒木村重が摂津・有岡城を脱出した頃、東の武田攻めで大きな動きがありました。

9月5日、徳川家康と相模の北条氏政が同盟を結びます。
武田家と北条家は、上杉謙信死後の景勝と景虎の家督相続争い(御館の乱)を機に関係が悪化。武田勝頼は、上杉景勝と誼を通じており、この徳川・北条同盟により完全に断交に至ります。勝頼は、この同盟に対抗し、翌10月には、妹・菊を景勝に嫁がせ上杉家との関係を強めます。

9月11日、京に滞在していた信長のもとへ氏政の弟・氏照が訪れ、鷹三羽を献上。織田家とも友好関係も深め、織田・徳川・北条による武田包囲網は強固になります。

13日、勝頼と氏政は駿河(静岡県)・黄瀬川で氏政と対陣。この間に氏政は家康に出陣を要請。家康は、武田方の駿河・持船城を攻略。

25日、勝頼は、氏政との対陣を切り上げ、徳川攻めに向かいます。しかし、家康はこの動きに対し、勝頼との対決を避け遠江に撤退してしまいます。

この徳川・北条同盟でもう一人微妙な立場になった大名がいました。常陸(茨城県)の佐竹義重です。

佐竹義重は、北条氏とは長年対立関係にあり、上杉氏とは反北条同盟を結んでいた時期があり、武田家とは、同じ清和源氏の血筋で、一時信玄と反北条同盟を結んでいました。後に武田家とは、織田家との友好関係を重んじため疎遠になっていましたが、勝頼は、同じ清和源氏として反北条同盟を再び築こうと義重に接近していたようです。

足利義昭は、信長に奉じられて上洛する前に佐竹義重にも幕府再興を呼びかけていたようで、中央でもその名が知れ渡っていたようです。義重自身も中央の情勢を常に気にかけていたようで早い時期から信長と友好関係を築いていました。

織田家と徳川家は、強固な同盟関係であり、その徳川家が仇敵・北条氏と同盟。
結局、義重は中央の権力者である信長との友好を選択したようで、以後信長が本能寺の変で倒れるまで、北条家とは大きな合戦をしていないようです。
※佐竹氏や北条氏について知識がほとんどないので、この記事に誤りがある可能性があります。私の解釈が間違っていたらぜひお知らせください。


勝頼は、同じ清和源氏で信長と友好関係にある佐竹義重の仲介により織田家との和睦も模索したという説もあります。結局、実現には至りませんでしたが・・・