天正10(1582)年4月16日早朝、掛川出発。見付の国府(磐田市)を通り、馬伏塚・高天神・小山を眺めながら、天竜川に差し掛かります。この天竜川は古くから「暴れ天竜」といわれるほどの激流で知られる難所。家康は、この天竜川に太田牛一が『信長公記』に“歴史上初”と書き記す、堅固な舟橋を架けます。多数の舟を数百本の大綱でピンと張るようにつなぎ合わせた見事な舟橋だったようで、さらに警護の者をつける徹底振り。短期間に作り上げた家康の采配も見事なものでした。

信長一行は無事天竜川を渡り、浜松に到着。信長はここで弓・鉄砲衆のみを残し、小姓衆や馬廻り衆に帰国の許可を与えます。浜松は家康の本拠。家康がその気になれば信長を殺すことも出来る地で、逆に家臣を帰国させるという大胆な行動は、信長の自信と共に家康への信頼の大きさも表しているような気がします。

信長は、家康の心遣いに感謝し、武田攻めのために調達していた8000表余りの米を家康の家臣たちに贈呈。

17日早朝、浜松を出発。今切の渡しから御座船に乗船。船を下りると浜名の橋という名所を見物。信長は家康家臣・渡辺弥一郎の解説に感心し、黄金を贈呈。汐見坂から雨の中、吉田に到着。

18日、吉田を出発。五位(御油・豊川市)から本坂・長沢街道へ進みます。この山道では。露出していた岩を突き崩し、地ならしをして信長一行が通りやすいよう道を舗装。休憩所となっていた宝蔵寺の僧たちの挨拶を受けたあと、正田・大比良・岡崎城下・矢作を進み池鯉鮒(知立市)に到着。水野忠重が建てた館に宿泊。

19日、池鯉鮒を出発。信長一行は、徳川領を抜け織田領・清洲に到着。
この日付けの『家忠日記』には、信長家臣となった黒人・弥介(ヤスケ)の事が書かれており、日本では珍しかった黒人男性をひと目見ようと多くの人が集まったようで、武田攻めに際し、信長はヤスケを連れて行っていたようです。

20日に岐阜、そして21日、安土へ向かう途中の美濃国内で稲葉一鉄の用意した御座船で接待を受け、織田勝長や不破光直そして近江国内に入ってからも菅屋長頼・丹羽長秀・山崎秀家がそれぞれ休憩所を建て信長を接待。約一ヵ月半の遠征を終え、無事安土に帰国。

ホッとするのも束の間。20日余り後、この安土で今度は信長が家康を接待することになります。