天正10(1582)年6月27日の清洲会議直後?(直前説など他説あり)、柴田勝家は信長の妹・お市を娶ります。これは従来、織田信孝が勝家を自分の陣営に取り込むため仲介したという説でしたが、近年羽柴秀吉が仲介したことをうかがわせる書状が見つかったそうです。これが事実だとすると秀吉の勝家懐柔の策だったかもしれません。

7月3日、信孝は本能寺の焼け跡で収集した多くの遺骨や信長の太刀を廟に納め、本能寺を信長の墓所と定めます。信長の遺骨と断定できるものは見つかっていませんが、この中に信長の遺骨の一部が含まれているかもしれません。

また、本能寺の変直後にも信長と親交のあった阿弥陀寺の清玉上人が信長の家臣が信長の遺体を火葬しているところに遭遇し、家臣から遺骨を託され阿弥陀寺に埋葬したという説もあります。この話自体は真偽不明ですが、清玉上人は変直後、明智光秀の許しを得て本能寺の焼け跡で多くの遺骨を収集し阿弥陀寺に埋葬したそうなのでこの中に信長の遺骨も含まれていた可能性は高いかもしれません。
この時、阿弥陀寺で行われた法要で信長の法名は「天徳院殿」とされます。

8日、秀吉は新たに所領となった山城国の検地を実施。京の公家などの有力者は次の天下人は秀吉とみて次々挨拶に訪れていたようで、秀吉自身もその野望実現のため動き出します。

織田家中では主導権争いが激化。美濃を領国とした信孝と尾張を領国とした織田信雄が領国の分岐点を国の境でわけるか、川を境とするかで対立。織田家臣不在となった甲斐・信濃には徳川家康が軍をすすめ、敵対行動に出てきた北条氏や上杉氏などから織田家の所領を守るという口実で事実上占拠。

岐阜の信孝のもとにいた三法師の安土城入りも、秀吉の動きを警戒し三法師を手元に置いておきたい信孝や勝家の引き伸ばし策や丹羽長秀の安土城普請の遅れなどもあり実現しないまま時は流れます。

こうした混乱により信長の正式な法要は営まれないまま9月を迎えます。
9月11日、妙心寺で勝家やお市などが主催し百日忌が営まれます。この時の法名は「天徳院殿龍厳雲公大居士」で清玉上人が命名した「天徳院殿」の流れを汲むものでした。

12日、一方の秀吉は養子としていた信長の四男・秀勝を立て大徳寺で同じく百日忌を行い、この時命名された法名は「惣見院殿(総見院殿)」。

秀吉は当初、阿弥陀寺にて葬儀を行いたいと清玉上人に申し入れていましたが、すでに法要は済んでいるとして拒否。秀吉は法事料など三百石を進呈するのでお願いしたいと粘りますがこれも拒絶。秀吉は断念して大徳寺で百日忌を行い大徳寺内に惣見院を建立。

10月8日、秀吉の要請により信長に従一位太政大臣が追贈。

9日、この日から京の町は秀吉派の武将により厳重に警護されます。

13日、播磨から秀吉が上洛。

14日、丹波から秀勝が上洛。

15日、秀吉の弟・羽柴秀長を筆頭とした1万もの兵が警護する中、信長の葬儀は実施されます。
秀吉は二体の信長の木像を造り、一体を棺に納め、棺の前を池田恒興の嫡子・輝政が後ろを秀勝が担ぎます。そして、位牌は信長の十男・信好(当時9歳?)、太刀を秀吉が担ぎ3000人の葬列がつづきます。この時棺に入れられた木像は荼毘に付され、もう1体は寺に安置されます。

ちなみに安土城の伝二の丸にある信長廟は天正11(1583)年、信長の一周忌の法要後に秀吉が信長の太刀や烏帽子などを納め建立された廟所になります。

秀吉は、信長の葬儀を行うことにより信長後継者は自分であることを事実上宣言し、織田家は完全に分裂。秀吉は翌年、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り滅亡させ、信雄を利用し信孝を自害に追い込み、さらに信雄や家康との対立に勝利すると一気に天下統一を成し遂げ、「天下人・豊臣秀吉」となりその野望を実現します。