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八上城

明智光秀、丹波平定

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天正7(1579)年6月、明智光秀軍に包囲されてから半年になる波多野兄弟が籠城する丹波・八上城内で変化が現れます。

兵糧も尽き、餓死者が出はじめ城兵は草木や牛馬を食べるような状況になっていました。中にはフラフラの状態で城外打って出てくる兵もいましたが、ことごとく明智軍に討ち取られる有様でした。

6月1日、そのような状況で、光秀は城内に調略も仕掛けていました。
限界に達した波多野家臣は、城内で反乱を起こし波多野三兄弟(秀治・秀尚・秀香)を捕らえ、光秀に引き渡し、これにより八上城は陥落します。

4日、(6日とも)波多野兄弟は洛中を引回された後、安土へ護送されます。
信長は安土城下の慈恩寺の町外れで三兄弟を磔にし処刑します。


八上城に入った光秀は、配下の兵に一時の休息を与えると丹波平定の総仕上げに動き出します。

7月19日、宇津頼重の立て籠もる丹波・宇津城へ進撃。明智軍の総攻撃に頼重は城を捨てて逃げ出しますが捕らえられ処刑されます。光秀は一気に近くの鬼箇城も攻め近隣を焼き払います。

8月9日、明智軍は赤井忠家?(信長公記では既に死んでいる直正となっています)の立て籠もる黒井城にも攻め寄せます。城兵は果敢に城外に打って出てきますが、かなわぬと見るやすぐさま城内に逃げ戻ります。しかし、明智軍の追撃により十数人が討ち死。赤井氏は、丹波の大半が織田方の手に落ちた状況に観念し、諸条件をつけながらも光秀に降伏します。

光秀が丹波に攻め入ってから約4年。ついに丹波平定は成し遂げられ、報告を受けた信長は「長期にわたり在陣し数々の戦果をを挙げたのは比類なき功績」と褒め称え感状を贈ります。


尚、この八上城攻略の際、光秀は自分の母を人質に差し出し、波多野兄弟に降伏を勧めますが、波多野兄弟が信長に殺されたため光秀の母も報復で殺害され、その恨みから本能寺の変を引き起こしたという話がありますが、これは江戸時代の人たちが現代と同じように本能寺の変の動機を推測したもので、信頼できる資料にはこの事実は記載されていないようです。

ちなみに赤井氏はその後江戸期には徳川旗本や藤堂氏の重臣となっています。

丹波・八上城包囲 〜明智光秀VS波多野兄弟〜

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1578(天正6)年12月、摂津の荒木村重攻めに引き続き播磨・三木城の別所長治包囲戦の後方支援を終えた明智光秀は休む間もなく、本来の任務である丹波攻略を本格再開します。

別所長治・荒木村重の相次ぐ謀反により頓挫していた丹波平定戦は既に三年目を迎えていましたが依然、有力国人である黒井城の赤井氏や八上城の波多野氏が抵抗を続けていました。

黒井城の萩野(赤井)直正は、この年3月に既に病死していましたが、本来の当主である甥の赤井忠家は健在でした。しかし、実力者の直正の死でその勢力はかなり衰えている状況でした。

余談ですが荻野直正の二人目の正室(最初の正室とは死別)は、本能寺の変の黒幕説もある近衛前久の妹です。

12月中旬、このような状況でしたが、光秀はまず狙ったのは、八上城の波多野秀治・秀尚兄弟でした。光秀は、播磨から取って返すとすかさず八上城を包囲。

明智軍のみでありながら堀や柵を幾重にも張り巡らせ八上城を完全に孤立させ、以後半年に渡り包囲することになります。

21日、荒木村重攻めのため古池田(大阪市池田市)に本陣を構えていた信長は、京都に帰陣。25日には安土へ帰国します。
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