天正8(1580)年1月15日?別所長治は叔父・別所賀相(吉親)に17日に切腹するよう命じます。それを受けた賀相は、切腹後、秀吉に首をさらされることを懸念し、城に火をかけて骨もわからないようにしてしまおうと、屋敷に火をかけます。
しかし、発見した家臣らが賀相を取り押さえ、その場で切腹させます。
17日、申の刻(午後4時前後)長治は予定通り妻子を呼びつけます。わずか三歳の子を膝に置き、涙しながら刺し殺します。続いて妻も引き寄せ刺し殺します。
弟・友之も兄同様に妻を刺し殺します。
別所兄弟は、手を取り合い広縁用意された一畳の畳の上に座し、家臣にこれまでの働きをねぎらい礼を述べ、「自分たちの切腹で家臣が助かるのはこの上ない喜び」と笑顔で語り、最初に長治が切腹して果てます。享年26歳(23歳とも)。
介錯した家老・三宅肥前入道治忠は、「最後を見届けておけよ」と腹を十文字に切り、腸(ハラワタ)を引きずり出して死にます。
弟・友之は、家臣に太刀や脇差などを形見として分け与えると、兄が切腹に使った脇差を使い切腹して果てます。享年25歳(22歳とも)
さらに叔父・賀相の妻は、3人の子(うち女子1人)を一人ずつ刺し殺し、自らも喉を切り自害して果てます。
自害した別所兄弟や妻たちは辞世の句をひとりの小姓に託しており、そこには悲痛な心情が詠まれていました。(『信長公記』にはその句が記されています。)
別所兄弟と叔父・賀相の首はこの後安土に届けられます。
秀吉は、三木城を攻略すると別所氏に従っていた長水城(宍粟郡山崎町)の宇野民部や英賀城(姫路市・夢前川の河口)の小寺識隆(のりたか)を攻め、これを攻略。
余談ですが、英賀城内の英賀御坊(本徳寺)の門徒や雑賀衆もこの合戦に参加していました。(長水城攻めはこの年4〜6月、詳細ついては後日記載予定)
こうして「三木の干し殺し」といわれた、約二年にわたる別所氏と織田軍の戦いは終結します。
有岡城に続く三木城の陥落は石山本願寺の顕如に大きな衝撃を与え、顕如は諸国の寺々に対し黒印状を発し、協力を要請しています。
顕如が恐れるように、この地域における、次の信長の標的は当然ながら石山本願寺でした。
しかし、発見した家臣らが賀相を取り押さえ、その場で切腹させます。
17日、申の刻(午後4時前後)長治は予定通り妻子を呼びつけます。わずか三歳の子を膝に置き、涙しながら刺し殺します。続いて妻も引き寄せ刺し殺します。
弟・友之も兄同様に妻を刺し殺します。
別所兄弟は、手を取り合い広縁用意された一畳の畳の上に座し、家臣にこれまでの働きをねぎらい礼を述べ、「自分たちの切腹で家臣が助かるのはこの上ない喜び」と笑顔で語り、最初に長治が切腹して果てます。享年26歳(23歳とも)。
介錯した家老・三宅肥前入道治忠は、「最後を見届けておけよ」と腹を十文字に切り、腸(ハラワタ)を引きずり出して死にます。
弟・友之は、家臣に太刀や脇差などを形見として分け与えると、兄が切腹に使った脇差を使い切腹して果てます。享年25歳(22歳とも)
さらに叔父・賀相の妻は、3人の子(うち女子1人)を一人ずつ刺し殺し、自らも喉を切り自害して果てます。
自害した別所兄弟や妻たちは辞世の句をひとりの小姓に託しており、そこには悲痛な心情が詠まれていました。(『信長公記』にはその句が記されています。)
別所兄弟と叔父・賀相の首はこの後安土に届けられます。
秀吉は、三木城を攻略すると別所氏に従っていた長水城(宍粟郡山崎町)の宇野民部や英賀城(姫路市・夢前川の河口)の小寺識隆(のりたか)を攻め、これを攻略。
余談ですが、英賀城内の英賀御坊(本徳寺)の門徒や雑賀衆もこの合戦に参加していました。(長水城攻めはこの年4〜6月、詳細ついては後日記載予定)
こうして「三木の干し殺し」といわれた、約二年にわたる別所氏と織田軍の戦いは終結します。
有岡城に続く三木城の陥落は石山本願寺の顕如に大きな衝撃を与え、顕如は諸国の寺々に対し黒印状を発し、協力を要請しています。
顕如が恐れるように、この地域における、次の信長の標的は当然ながら石山本願寺でした。