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北条早雲

【イベント】 玉縄城築城500年祭

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北条早雲(伊勢宗瑞)が玉縄城を築城して今年で500年。それを記念して10月と11月に鎌倉市の玉縄城跡周辺にて各種イベントが計画されています。
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伊勢新九郎(北条早雲)と今川家家督問題

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■伊勢新九郎盛時(宗瑞)
北条早雲といった方がなじみのある方も多いと思いますが、本人が存命中その名を名乗ったことはありませんでしたが、名前だけでなくその出自も謎が多かった伊勢新九郎。

一介の素浪人といわれたり、伊勢貞藤(貞親の弟)の子で父が浪人となり伊勢に下ったとか、備中出身で伊勢貞通の養子とされるなど、さまざまな説がありました。しかし、近年の研究で、その素性が徐々に解明されてきているようです。

父は幕府の申次衆・伊勢盛定。母は幕府政所執事・伊勢貞国の娘という説が有力のようで、一介の素浪人どころか逆に立派な血筋。文明13年頃には幕府申次衆さらにその数年後には奉公衆に任命されることになります。ちなみに備中出身は正しいようで備中荏原荘の半分を領する領主だったそうです。

今川義忠の正室は伊勢盛定の娘・北川殿なので義忠と新九郎は義兄弟問いことになります。義忠の嫡男・龍王丸(のちの氏親)は新九郎の甥ということになりますね。


■今川家家督問題
文明7(1475)年末から翌年正月ごろ、遠江の国人、横地秀国・勝間田修理亮は今川家と対立していた斯波義良と通じ今川家に敵対します。

文明8(1476)年2月(1月?)、今川義忠は、500の兵を率い、遠江の横地・勝間田討伐に出陣。横地城と勝間田城は、今川軍の攻撃で落城。横地秀国・勝間田修理亮は討ち死。ちなみに横地秀国の当時2歳だった子・元国は甲斐に落ち延び、武田信虎・信玄・勝頼の三代に仕え滅亡後は徳川家康に仕えることになります。

2月6日、今川義忠は帰国の途上、遠江にて横地・勝間田残党の一揆に襲撃され、抗戦するも討ち死。

残されたのが6歳の嫡男・龍王丸(のちの氏親)。幼いことを理由にその家督相続反対派は、義忠の従兄弟・小鹿範満を擁立。両者は対立します。

堀越公方・足利政知(前将軍・義政の弟)の執事・犬懸上杉政憲は孫に当たる範満を今川家の家督に据えようと画策。扇谷上杉家家宰・太田資長(のちの道灌)とともに兵を率い駿河に向かいます。

この一触即発の状況の中、京から伊勢新九郎盛時が調停のために下向。龍王丸・小鹿範満両派を説得。龍王丸が成人するまで範満が家督を代行するという調停案が受け入れられなければ一戦を交える覚悟であることを告げます。上杉政憲や太田資長もこの案に納得し両派は和睦。

11年後のこと。小鹿範満は龍王丸が成人しても家督を返上せず、長享元(1487)年、伊勢盛時は再び駿河に下向。11月、龍王丸とともに挙兵。駿河館を攻め範満を討ち取ります。

この功により興国寺城を与えられ今川家の家臣となった伊勢盛時は、この城を拠点に5代100年にわたる関八州の覇者・後北条家の礎を築くことになります。

1476年(文明8年) 〜今川家家督問題と関東騒乱〜

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【天皇:後土御門(103代)、将軍:足利義尚(9代)】

2月6日、【遠江】今川義忠、横地・勝間田両城を攻略するも残党に襲撃され戦死。6歳の嫡男・龍王丸(のちの氏親)と義忠の従兄弟・小鹿範満が今川家の家督を争うことに。

3月、【駿河】範満の祖父・堀越公方の執事の上杉政憲(犬懸家)は孫を今川家の家督に据えるため扇谷上杉氏の家臣・太田道灌とともに兵を率い駿河に入る。
(※道灌が政憲の家臣と誤って記載していました。申し訳ありません)

3月8日、日野富子、禁裏番衆に現銭(現金)一万疋を贈り、改めてその財力を示す。

6月、【駿河】今川義忠の正室・北川殿の弟・伊勢盛時(新九郎・北条早雲)が今川家の家督争いを調停するため下向。龍王丸が成人するまで範満が家督を代行することで決着。

6月、【武蔵】上杉政憲・太田道灌の留守をついて長尾景春が鉢形城で挙兵(長尾景春の乱)。主家・山内上杉顕定の拠る五十子城(いかご・いらこ:埼玉県本庄市五十子)を包囲する。

9月14日、前将軍・義政、大内政弘に内書を下し東西和平を推し進める。

11月、【尾張】守護代・織田伊勢守敏広と美濃守護代・斎藤妙椿が織田大和守敏定を攻める。大和守敏定、守護所・下津城に火を放ち迎え撃ち、守護代軍を撃退する。

11月13日、室町第に隣接する土倉が一揆に襲撃・放火され、その火が花の御所・室町第に燃え移り焼失。近隣の禁裏や公家や武家の屋敷・門跡寺院なども被害を受ける。

12月20日、義政、弟・義視に身の安全を約束した書状を与える。


【その他の出来事】
4月11日、戦乱で衰退した兵庫津に替わり和泉・堺から初めて遣明船が出航。



【生】
狩野元信:絵師。狩野派の祖・狩野正信の子。永徳の祖父。8月9日誕生?
太田資康:太田道灌(資長)の嫡男。武蔵国江戸城城主。
佐竹義信:第14代当主・佐竹義治の四男。
斯波詮高:詮好とも。高水寺斯波家の当主。
相馬盛胤:陸奥相馬氏第13代当主。

【没】
今川義忠:駿河今川家6代当主。義元の祖父。2月6日没。享年41歳。
日野勝光:日野家当主。左大臣。富子の兄。6月15日没。享年48歳。
毛利豊元:安芸国人毛利家当主。元就の祖父。享年33歳。


【織田信長誕生まであと58年】



※主に戦国150年ニュース―戦国時代をフォーカス! (別冊歴史読本 (23))を引用・参考にさせていただいています。

■北条早雲

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北条早雲
1432(永享4)年〜1519(永正16)年。
はじめ伊勢新九郎長氏。のち入道して早雲庵宗瑞と号す。
戦国時代の典型的人物で、後北条氏の祖。
一介の素浪人から関東を制する大大名になる。

早雲の前半生は謎で出身も定かではありません。
有力なのが、信濃の小笠原定基宛の書状に、小笠原家の家臣・関右馬場允が同じ伊勢(三重県)出身で、同族であるとし、それではじめ伊勢新九郎と名乗ったというもの。

もう一つ有力なのが、京都出身説。足利幕府の要職を務めた伊勢貞藤の子で貞藤が将軍の勘気をうけ応仁の乱にさいし伊勢に下ったというものがある。

他にも諸説ある。

出自は不明ではあるが、妹が駿河の今川義忠の側室になっているので、それなりの家柄とおもわれる。

前述の今川家の内紛を収めた功により興国寺城主となる。
このとき、領内の年貢を免じて、領民より慕われるようになる。

その後、1491(延徳3)年の堀越公方の内乱で混乱に陥った伊豆国を占拠。

1495(明応4)年、関東進出の第一歩として小田原を攻める。この際、早雲は巧妙な計略を用いる。

その計略とは、小田原城の大森藤頼に「鹿狩りをしていたところ、鹿がみな箱根の山へ逃げ込んだので、勢子(狩猟で鳥獣を狩り出したり、逃げるのを防いだりする人夫)を小田原領内に入れ、伊豆のほうへ鹿を追いやりたい」と申し出、許可を取り、勢子に扮装した屈強な若武者を小田原に入れる。
その数、数百人。さらに犬引きに見せかけた数百人に竹槍などの武器をもたせていた。

小田原城下にたいまつをつけた牛の大群を放ち、勢子に扮した若武者が後につづき、小田原城はあっけなく陥落。

早雲は小田原城を手に入る。
この後、後北条氏は5代に渡り、関東を支配していくことになる。

ちなみに早雲は北条姓を名乗ったことはなかったそうです。

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