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戦国時代

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北条氏政

関八州・北条家所領安堵

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やや話が戻りますが、本願寺との和睦話が進んでいる同じ頃、関東の北条家との関係も大きな進展がありました。

天正8(1580)年3月、北条氏政・氏直父子は、今日の信長のもとへ使者を送ります。
氏政の使者は笠原康明。氏直の使者は間宮綱信。副使として原和泉守。

9日、滝川一益は京・本能寺で北条家からの使者を出迎え、笠原は鷹13羽及び馬5頭を献上します。

10日、笠原らは信長に挨拶に出向き、新たに太刀や酒・肴等を献上。織田方の伝奏役は滝川一益と補佐の牧庵が務めます。

この時、織田家と北条家が縁を結びますが、これは信長の娘と北条氏直の婚約をさすものと思われます。信長の娘が幼かったからすぐに結婚に至らなかったのか、理由は不明ですが、結局この話信長の死により消滅してしまいます。
(余談ですが、氏直は天正11年、家康の娘・督姫を正室として迎えることになります。)

信長はこの時、関東八州を北条家が治めることを認めます。これにより事実上、北条家は徳川家同様、織田家の支配下に属したと考えていいと思われます。


信長は「滝川一益に案内させるので、京をゆっくり見物してから安土においでください」と伝言を残し京を出立。

3月13日、信長は、矢部家定を使者とし、北条家の使者に「京での土産物代」として金銀100枚を贈ります。その後、鷹狩りなどを楽しみながら19日に安土に到着します。

織田・北条同盟 〜拡大する織田政権〜

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やや話し戻って、滝川一益の調略により有岡城を占拠した天正7(1579)年10月頃のこと。

天正7(1579)年10月、この頃信長と北条氏政は正式に同盟を結んだようです。
すでに9月の段階で氏政は弟の氏照を信長のもとに派遣。鷹を献上し誼を通じていました。

10月25日、氏政は再び6万もの軍勢を率い甲斐の武田攻めに出陣。三島(静岡県三島市)に布陣。武田勝頼もこの動きに対し富士山の麓、三枚橋に布陣。両者は黄瀬川を挟んで対峙します。徳川家康は時を同じくして出陣。駿河に攻撃を仕掛けます。

29日、越中(富山県)の神保長住が葦毛の馬を献上。長住は謙信の死後、信長の援助により越中・富山城を奪還しており、神保氏は越後・上杉、信濃・武田への備えを担っていたと思われます。皮肉にも武田勝頼は父・信玄の仇敵であった上杉氏以外周囲を織田方の大名に囲まれる状況に追い込まれていました。

30日、荒木村重攻めの本陣・小屋野にいる織田信忠のもとには降伏を許された宇喜多直家の代理・基家(弟・忠家の子)が挨拶に訪れます。

このように荒木村重や別所長治のように信長を裏切る大名が相次ぐ一方、西に東に信長に味方する大名も次々と現れ織田政権は拡大していきます。

さらに信長は朝廷との友好関係を深めることも怠りません。

11月5日、工事が完了した二条新邸を皇室に献上。
陰陽博士の選定により22日が吉日ということで東宮(誠仁親王)が移ることになります。

12月には荒廃していた石清水八幡宮の修築を信長直轄領の山城代官・武田佐吉・林高兵衛・長坂助一に命じます。このように京の町衆の心を掴むことも忘れない信長でした。

12月18日、信長は二条新邸の東宮のもとに参内し金銀・反物を献上。
19日、信長は雨の中、安土に帰国します。

徳川・北条同盟成立 〜武田包囲網と佐竹義重の苦悩〜

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佐竹義重
天正7(1579)年9月、荒木村重が摂津・有岡城を脱出した頃、東の武田攻めで大きな動きがありました。

9月5日、徳川家康と相模の北条氏政が同盟を結びます。
武田家と北条家は、上杉謙信死後の景勝と景虎の家督相続争い(御館の乱)を機に関係が悪化。武田勝頼は、上杉景勝と誼を通じており、この徳川・北条同盟により完全に断交に至ります。勝頼は、この同盟に対抗し、翌10月には、妹・菊を景勝に嫁がせ上杉家との関係を強めます。

9月11日、京に滞在していた信長のもとへ氏政の弟・氏照が訪れ、鷹三羽を献上。織田家とも友好関係も深め、織田・徳川・北条による武田包囲網は強固になります。

13日、勝頼と氏政は駿河(静岡県)・黄瀬川で氏政と対陣。この間に氏政は家康に出陣を要請。家康は、武田方の駿河・持船城を攻略。

25日、勝頼は、氏政との対陣を切り上げ、徳川攻めに向かいます。しかし、家康はこの動きに対し、勝頼との対決を避け遠江に撤退してしまいます。

この徳川・北条同盟でもう一人微妙な立場になった大名がいました。常陸(茨城県)の佐竹義重です。

佐竹義重は、北条氏とは長年対立関係にあり、上杉氏とは反北条同盟を結んでいた時期があり、武田家とは、同じ清和源氏の血筋で、一時信玄と反北条同盟を結んでいました。後に武田家とは、織田家との友好関係を重んじため疎遠になっていましたが、勝頼は、同じ清和源氏として反北条同盟を再び築こうと義重に接近していたようです。

足利義昭は、信長に奉じられて上洛する前に佐竹義重にも幕府再興を呼びかけていたようで、中央でもその名が知れ渡っていたようです。義重自身も中央の情勢を常に気にかけていたようで早い時期から信長と友好関係を築いていました。

織田家と徳川家は、強固な同盟関係であり、その徳川家が仇敵・北条氏と同盟。
結局、義重は中央の権力者である信長との友好を選択したようで、以後信長が本能寺の変で倒れるまで、北条家とは大きな合戦をしていないようです。
※佐竹氏や北条氏について知識がほとんどないので、この記事に誤りがある可能性があります。私の解釈が間違っていたらぜひお知らせください。


勝頼は、同じ清和源氏で信長と友好関係にある佐竹義重の仲介により織田家との和睦も模索したという説もあります。結局、実現には至りませんでしたが・・・

徳川家康VS武田勝頼 天正6年の攻防

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1578(天正6)年10月の荒木村重の謀反で、西国戦略が大きく狂ってしまった信長ですが、この苦境に盟友である徳川家康はどうしていたのでしょう?話がそれてしまいますが紹介しておきます。

この年3月に上杉謙信が死去し、上杉家では景勝と景虎が後継者争い(御館の乱)を繰り広げ、手薄となった越中や加賀方面では織田家の柴田勝家や斎藤新五郎らが、徐々に勢力を伸ばしつつありました。

そして、同月、家康は、武田方の遠江の高天神城に対する拠点として横須賀城を築城し、さらに五つの砦も築きます。この完成と共に家康は松平家忠らに命じ、半年に渡り断続的に武田方の田中城・小山城などを攻撃させます。

武田勝頼は、上杉家の後継者争いに当初、景虎の兄である北条氏政の要請で景虎派として参戦します。しかし、景勝が一枚上手で、領地である上野郡沼田を武田家に譲って和議を結んでしまいます。さらに景勝は勝頼の妹・菊姫を正室として迎え、同盟を結んでしまいます。

勝頼も西の織田・徳川勢が虎視眈々、駿河・信濃を狙っている状況で、長期戦は望んでいなかったので、早々に有利な条件で和議を結び上杉家の内紛から手を引いたのかもしれません。

6月、勝頼は早くも甲斐に撤退してしまいます。

9月、勝頼に裏切られた北条氏政は、仕方なく自ら景虎の援軍として景虎の援軍に向かいますが、景勝に敗退してしまいます。

10月、荒木村重が謀反を起こしたこの月、北の上杉氏、東の北条氏の脅威が少なくなった勝頼は、徳川を牽制すべく動き出します。大井川を越え遠江に進軍。

11月、横須賀城に迫り、徳川軍とにらみ合いますが、結局合戦には至らず、勝頼は高天神城に撤退することになります。

このような状況で、家康は苦境に陥った信長に援軍を送ることが出来ずにいました。
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