一個人 7月号 『坂本龍馬を巡る旅』さてこのブログ「戦国時代」と題していますが今回は「幕末」にちょっと浮気を・・・
管理人、戦国時代では「織田信長」の大ファンですが、幕末では「坂本龍馬」が大好きという、よくありがちなパターン?で、まあ、お許しください!

坂本龍馬といえば来年2010年の大河ドラマ『龍馬伝』の主人公。福山雅治さんが演じられることが決まっていて、今年に入ってから関連書籍もいろいろ出ていますね。

そして今回ご紹介するのが月刊誌『一個人』。あまり読まれない方も多いかもしれませんが、個人的には結構好きで、いつも“立ち読み”させていただいとります(←好きなら買え!)。
先月も最近のブームを意識してか、仏像特集で国宝・阿修羅像が表紙を飾っていましたね。

現在、発売中の7月号では、『坂本龍馬を巡る旅』と題して、龍馬の特集。内容的には龍馬ファンならだいたい知っていることが書かれていると思うんですが、雑誌内で使われている龍馬の写真4種類がA4くらいの大きさで掲載されていたり、龍馬が姉の乙女に宛てた手紙数種類、その中でも有名なあの霧島新婚旅行のイラスト入り手紙がカラー写真で紹介されていたりと感動モノ!思わず管理人も買ってしまいました〜。さすが表紙に“保存版特集”と書かれているだけのことはあります。龍馬ファンなら買って損はないと思いますがいかがでしょ?


さて、このブログ冒頭でもふれたように『戦国時代』メインなので、「龍馬」と「戦国時代」をつなぐ、多くの方がご存じの“あの説”に触れたいと思います。

『坂本龍馬は明智光秀の末裔である』

(・・・というか光秀の娘婿・明智秀満といった方がいいでしょうか?)

その根拠とされているのが、
・坂本家の家紋『違い枡に桔梗』ということで、明智家の家紋の“桔梗”が含まれている。
 ⇒確かに入っていますね〜 “桔梗の紋”

・秀満の娘が土佐に落ちのび長岡郡植田郷才谷村に住んでいて、龍馬が変名(正体を隠すために使った名)として使用したのが「才谷屋(才谷梅太郎)」。
 ⇒龍馬の先祖が才谷村にいたのは事実のようです。才谷屋には江戸時代に「先祖は明智光秀である」という言い伝えもあったとか。

・坂本家の初代・太郎五郎の墓に、「弘治・永禄の頃(1555〜1570年)畿内の乱を避け土佐の国殖田郷才谷村に来り住む」とある。
 ⇒ただ、これだと本能寺の変以前になってしまいますが・・・

・山崎の合戦後、光秀の重臣・斎藤利三の妻や息子(山崎で討ち死にしたはずの次男の利康?)、娘の福(後の春日野局)は、京の三条西公国を頼りみに危機が迫り、利三の義兄である土佐の長宗我部元親のもとへ落ち延びたという説があり、その時、明智家の一族(龍馬の先祖?)も一緒だった可能性がある。
 ⇒お福らは、土佐に落ち延びてはいなくて、三条西公国に養育されたという話や延暦寺に住んでいたなど諸説あります。しかし、光秀は織田家と長宗我部家の取次役だったので、その縁を頼り明智家の一族が落ち延びてもおかしくはないですが・・

・坂本の姓は、光秀の所領だった近江の“坂本”からつけられたともいわれています。
 ⇒坂本姓に関しては、龍馬の先祖は三代目まで長岡郡才谷村にいたようで、その後、高知城下で才谷屋として商いを始めます。そして、六代目・直益の時、郷士株を譲り受け、直益の長男兼助が郷士になり、家業は次男が継いだそうで、坂本の姓は、郷士株(※)を譲った人物が、たまたま光秀の所領名と同じ「坂本」だったのではという意見もあったりします。

※郷士株・・困窮苦からか、生活のために郷士の身分を譲渡するようになった。当初は武士身分の者への譲渡(このケースは耕作地の売却が主)であったが、しだいに、豪農・豪商が郷士株を買って、郷士となる者が現れている(ウィキペディアより一部抜粋)

等々、他にもいろいろな“証拠”があるようですが、この説、かなり疑問視もされているようです。もし事実であるとしたら管理人としては複雑な気持ちです。

信長を討った光秀の子孫が龍馬とは・・・


※引用参考文献・サイト
中央公論新社 『坂本龍馬』(池田敬正著)

高知建坂本龍馬記念館--「坂本家と明智家について」


おススメ! ⇒ 一個人 2009年 07月号 『坂本龍馬を巡る旅』