今、関西テレビの「発掘!あるある大事典II」で納豆ダイエットデータの捏造が行われて大問題となっていますね。

「納豆ダイエット」放送以来、店頭で納豆を見かけなくなっていましたが、あまり好きでありませんが健康のために納豆を食べていたので、店頭にフツーに納豆が並ぶようになるのかな〜と少々安心している織田創です(笑)低レベルな問題意識です・・・

さて、本題です。『織田信長』と『納豆ダイエットデータ捏造』にどのような関係があるのか?!
これは分割して考えなくてはいけませんが、まず『ダイエット』と言う意味ではまったく関係ありません。“捏造”です。スイマセン!(笑)

次に『納豆』についてですが、強引ですが少々関係があります。
本能寺の変の百日後の10月11日、信長の実子で秀吉の養子となっていた秀勝が喪主となり京都・大徳寺で葬儀が執り行われました。

その大徳寺は、室町期にこの寺の住職を務めた“一休さん”でお馴染みの一休宗純がその製法を伝えたとされる「大徳寺納豆」が有名です。ただこの納豆、すぐにイメージするネバネバの納豆ではなく、粘りの少ない麹菌を使った黒い粒の塊のような物で味噌に近い味だそうです。
【参考】⇒京都こだわりどっとこむ


そして本命の戦国時代ネタですが、『データ捏造』と言う意味では大きな関係があります。
これは、天正4(1576)年の本願寺攻め、天王寺合戦が行われたときの話です。この合戦は、織田軍わずか3千で、1万を越える本願寺勢を相手に戦い信長自身も銃弾を受け軽傷を負いながらも辛勝した合戦で、余談ですがこの戦いの先陣を命じられた荒木村重は、あまりの無謀な戦いに命令を断っています。

この戦いにかろうじて勝利した信長は、勝ちに乗じ本願寺勢の士気低下を狙い“捏造報道”をします。
本願寺勢の指揮を執った大将格の下間頼廉とそれに協力した雑賀衆の首領・鈴木孫一を討ち取ったとして、二人の首を京都にさらします。しかし、これはまったくの偽物。当時の公家山科言継も、その話を信じ自身の日記『言継卿記』に書き記していますが、その後も下間頼廉と鈴木孫一は、本願寺の主力として信長と戦い続けることになります。

戦国の世、情報捏造は茶飯事。負け戦を「大勝利」としたり、敵方の家臣が内応してないのにしているなどその手法もさまざま。
それは現代でも同じですね。

さまざまな情報であふれるかえる現代。マスコミの報道だけではなくネット上の噂話等々、それらの情報に振り回されることのないよう、その真偽を見極める能力を身につけたいものです。