陣幕と雷電取組の図 (江戸時代)
ここ一ヶ月余り、朝青龍問題で何かと騒がしい大相撲ですが、日本の国技である相撲が本場所以外で“しか”盛り上がっていないような気がする現状は寂しいというか悲しいですね。早く日本人の横綱も誕生して本場所の方を盛り上げて欲しい気がします。

さて前回の記事でも相撲について触れましたが、相撲といえば鷹狩りと共に信長のお気に入りの趣味のひとつ。少年の頃から鍛錬の意味もこめて仲間内で楽しんでいたという話もあります。

その相撲が『信長公記』で初めて触れられるのが、元亀元(1570)年3月3日。
この時も前回の記事同様、近江の国中から力士を召し寄せ安土の常楽寺で相撲大会を催します。

百済寺からは鹿や小鹿・たいとう・長光など、河原寺からは鯰江又一郎・青地与右衛門・はし小僧・大進など多くの力士が参加しました。この時活躍した鯰江・青地の二人は金銀飾りの太刀を与えられ信長の家臣に召抱えられ相撲奉行になっています。

天正6(1578)年2月29日にも近江の力士を集め安土山で大会を催します。
この日大活躍したのが日野の長光(上記の百済寺の長光と同一人物?)で、信長は身近に呼び寄せ(扇の)骨に金銀の彩色をした扇を与えます。
この日、長光も含めた23人が優秀な力士として選ばれたようです。

この年8月15日には近江や京都などから1500人もの力士が安土山に集まり大規模な相撲大会になります
このときの記述で「各部将が配下の力士たちを率いて参加」とあるので各部将も多くの力士を召抱えていたのかもしれません・・・というよりは配下の力自慢の者が相撲大会に参加したのでしょうか?

なんにしても大人数のため相撲奉行も青地与右衛門の他、津田信澄・堀秀政・万身重元・村井貞成・木村重章・後藤高治・布施公保・蒲生氏郷・永田正貞・阿閉貞大が加わります。この11名が相撲を取り仕切り“自らも”力士として参加したようです。
ちなみに行司は木瀬蔵春庵・木瀬太郎大夫(父子?)の二人のみ。二人だけで1500人の取り組みの行司を務めたため大会は夕刻まで続いたそうです。

この日も信長は活躍した14人をそれぞれ100石で召抱え太刀を与えます。
さらにこの年9月9日にも安土山で相撲大会を催し織田信忠・信雄が見物しています。

さらにこの年10月5日には畿内・近江の力士を召し寄せ、京の二条新邸にて大会を催し、これを摂家・清華家の公家に見物させています

天正7(1579)年8月6・7日、連日に渡り安土山で相撲大会が催され18才位の伴正林という力士が7人抜きの大活躍。両日活躍し信長に召抱えられます。
ちなみに伴正林は本能寺の変で信長と運命を共にすることになります。

次が前回触れた天正8年5月5日と17日にも開催。
17日の大会は甲賀地域からは30人の力士が参加しています。

この年6月24日にも開催しますが、この時は明け方から夜になり提灯をつけて続けたようです。この日も大野弥五郎が召抱えられています。
ちなみにこの直前の13日には円浄寺源七という力士が信長の勘気に触れ解雇されています。

天正9(1581)年4月21日には安土山で開催。
大塚新八・たいとう・うめが活躍します。
そしてこれが『信長公記』で触れられる信長最後の相撲大会になってしまいます。

このように信長はたびたび相撲大会開催
し、そのたびに多数の力士を召抱えました。本能寺の変がなければこの後も“大相撲安土場所”は続いたと思われますが、大相撲は形を変えつつ現代まで受け継がれることになります。
もちろん相撲は信長誕生のはるか前からありましたが・・・

ちなみに現在、その日の結びの一番のあとに行われる『弓取り』の儀式は信長が相撲大会で優勝した力士に褒美として弓を与えたのが始まりという説もありますがこれは誤りのようで、平安時代すでに存在していたようです。

余談ですが、両国国技館には相撲好きだった信長が相撲の取り組みを見物している姿が壁に大きく描かれているそうです(タイルを張り合わせた絵)。
情報提供: 『織田信長が好き!!』〜龍華成の安土城文庫〜の龍華成様