天正遣欧少年使節 (京都大学付属図書館蔵)
今回、信長と直接関係はありませんが、紀州雑賀で孫一と土橋兄弟が戦いを繰り広げている頃、遠く九州・肥前(長崎)から4人の少年が旅立とうとしていました。


天正10(1582)年1月28日、信長と親交のあった宣教師ヴァリニャーノとキリシタン大名大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として選ばれた、後に『天正遣欧少年使節』と呼ばれる4人の少年、伊東マンショ(14歳)・千々石ミゲル(14歳)・中浦ジュリアン(15歳)・原マルティノ(14歳)が長崎港を出港します。※年齢他説あり

目的は、「ローマ教皇やスペイン・ポルトガル国王から日本での布教活動の支援を取り付ける」ことや「少年たちに西洋の布教活動や生活を体験させ後の布教活動に役立てる」ことさらに「ローマ教皇をはじめヨーロッパの人々に日本人を理解してもらう」ためだったようです。

ヴァリニャーノはイエズス会総長宛ての書簡で「日本の王(信長)がカトリックに親近感を抱いている今こそ日本とヨーロッパを結びつける好機」と伝えており、信長から贈られた狩野永徳筆の『安土屏風』をローマ教皇への贈り物とするため船に積み込んでいます。

4人の少年は多くの夢や希望、そして不安と大きな責任を負って3年(片道)にも及ぶ長く苦しい航海を続け、この間に語学や科学などのさまざまな教養を身に着けていきます。

天正12(1584)年7月5日、ポルトガルの首都リスボンに到着。大歓迎を受けた少年たちはスペインやイタリアのフィレンツェなどを巡りローマを目指します。

天正13(1585)年1月30日、ローマでローマ教皇グレゴリウス13世との謁見を果たします。

天正14(1586)年2月25日、リスボンを出航し帰国の途につきます。
天正18(1590)年6月20日) 大役を果たした4人は無事、肥前に帰港しますが、日本を離れている8年余りの間に日本におけるキリスト教の状況は激変していました。

天正10(1582)年6月2日、キリシタンに寛大であった織田信長の死去。
天正15(1587)年5月6日 キリシタン大名・大友宗麟が死去。
天正15(1587)年5月18日、キリシタン大名・大村純忠が死去。
天正15(1587)年6月19日)、秀吉による伴天連(バテレン)追放令。
しかし当初は厳しいものではなかったようです。

天正19(1591)年閏1月8日、当初伴天連追放令は厳しいものではなかったようで、4人は聚楽第において豊臣秀吉を前に、西洋音楽を演奏したそうです。

しかし、取り締まりは厳しいものとなり4人は悲しい生涯を送ることになります。

伊東マンショ(正使。日向の大名・伊東義祐の孫)は慶長16(1611)年に当時豊前領主だった細川忠興に追放され、中津さらに長崎へ移り住み慶長17(1612)年11月13日に病死。

千々石ミゲル(正使。肥前国領主千々石直員の子で、大村純忠の甥・有馬晴信の従兄弟)は後に棄教。

中浦ジュリアン(副使。肥前国大村の中浦村領主の子)は寛永10(1633)年9月、小倉で捕らえられ9月10日長崎へ送られます。棄教を拒み、4人の神父や3人の修道士と共に穴吊りの刑で4日間苦しみ 9月20日死去。

原マルティノ(副使。肥前・波佐見町出身で最年少だったという少年)は寛永6(1629)年、追放先のマカオで死去。


※画像=左上・中浦ジュリアン、中央・メスキータ神父、右上・伊藤マンショ、左下・原マルチノ、右下・千々石ミゲル

※主にウィキペディア参照。すべて旧暦で記載しています。