天正7(1579)年4月26日、荒木村重の籠城する有岡城を包囲中の信長は古池田の本陣近くで、再び“ひとあばれ”します。
現代の鬼ごっこのようなお遊び?に、この時は、公家で本能寺の変の黒幕説までうわさされる近衛前久と元管領家で信長の妹婿である細川信良(昭元)も乗馬組として参加します。この日の“戦い”は徒歩組が乗馬組を引きずり回し、楽しんだようです。

このような状況の下、播磨の別所長治が籠城する三木城攻めで孤軍奮闘する羽柴秀吉を援護するため織田信忠が出陣します。

信忠は播磨の三木城周辺六ヶ所に砦を築き、その後、小寺政職の御着城(兵庫県姫路市)を攻撃します。ちなみに政職は以後も織田方の攻撃に耐えますが、別所氏の三木城と荒木氏の有岡城が落城すると天正8年に秀吉軍の総攻撃を受け落城します。

28日、信忠軍は野瀬(大阪府豊能郡)に出陣し、農作物をなぎ倒します。
この攻撃は、石山本願寺に流入する食料を封じる狙いがあったのかもしれません。

29日、信忠は、信長に戦況報告を終えるとそのまま岐阜へ帰国します。
同日、越前衆と丹羽長秀は別所方の淡河定範が守る淡河城(神戸市北区)に対する砦を築き、信長への報告を終えると、越前衆は加賀の一向一揆に備えるため帰国します。

丹羽長秀はそのまま有岡城包囲軍に残り、蒲生氏郷や蜂屋頼隆と共に塚口(尼崎市)に陣取ります。
その他、有岡城の周辺には細川藤孝・忠興・興元父子、中川清秀や氏家直通・稲葉貞道(一鉄の嫡男)さらに塩河国満や滝川一益・高山重友・池田元助(恒興の嫡男)など多くの武将が加わり、各地に砦や柵・堀などを築き完全に包囲していました。

有岡城包囲はさらに長期にわたることになります。