黒田官兵衛
1578(天正6)年11月6日、木津川海戦にて毛利水軍を撃破した信長ですが、この戦いの前後はっきりしませんが、当時小寺官兵衛と名乗っていた黒田官兵衛(如水)は、荒木村重を説得するため摂津・有岡城に単身で乗り込みます。

これは、当時の官兵衛の直接の主君である小寺政職の意向によるものだったようです。

官兵衛は早い時期から織田家に着くのが得策と主君・政職を説得。さらに周辺の豪族へも働きかけていました。その説得が実り、秀吉が播磨に乗り込んできたときにはいち早く織田方に服属していました。

しかし、荒木村重の謀反に際し主君である小寺政職は荒木村重と共に毛利方に寝返る密約を交わしていました。
これを知った官兵衛は、反対したようです。
それに対し、小寺政職は官兵衛に村重を説得するよう命じられたようです。

これを受け村重説得のため有岡城に赴いた官兵衛ですが、説得に失敗。
村重は、織田家に人質(松寿丸)を送っている官兵衛は織田家に内通していると疑い、官兵衛を幽閉してしまいます。以後、官兵衛の幽閉生活は1年にもおよび、その間に足が不自由になってしまいました。

この幽閉は、小寺政職が目障りな官兵衛を退けるため謀ったとも言われています。

結局、小寺政職は荒木村重と共に毛利方へ寝返ってしまいます。

信長は、小寺政職の離反に加え、村重のもとから帰ってこない官兵衛も疑い、人質となっていた松寿丸を殺害するよう秀吉に命じます。
しかし、竹中半兵衛(重治)は、「上様(信長)の命とはいえ従うことは出来ない」とし、松寿丸を半兵衛の領国・美濃菩提山城に隠し、信長へは「松寿丸は殺した」と報告します。

このわずか7ヶ月後の1579(天正7)年6月13日、半兵衛は36歳の若さで病死してしまいますが、命を助けられた松寿丸は、黒田長政として戦国の世に影響を与える武将に成長し、信長・秀吉・家康のもと天下統一のため活躍していきます。