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徳川家康

『徳川の城 〜天守と御殿〜』 勝手ランキング ベスト5

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徳川の城
多くの方がお盆休みを終え仕事再開の中、遅れて夏休みに入った管理人ですが、水曜日に江戸東京博物館で開催中の『徳川の城』展へ行ってまいりました!また江戸博か・・・



今回の展示は、徳川幕府によって諸国の大名に命じて築城・改修等が行われた”天下普請”の城の絵図面の展示が主でした。ちなみに天下普請によって築城・改修等が行われた城は以下の城があります。




江戸城(武蔵国・東京都)・・・徳川将軍家の居城

名古屋城(尾張国・愛知県)・・・家康の九男・義直の居城

大坂城(摂津国・大阪府)・・・豊臣家滅亡後、跡地を埋立新たに築城

高田城(越後国・新潟県)・・・家康の六男・松平忠輝の居城

駿府城(駿河国・静岡県)・・・将軍職を譲り、大御所となった家康の居城

加納城(美濃国・岐阜県)・・・家康の娘婿・奥平信昌の居城

福井城(越前国・福井県)・・・家康の次男・結城(松平)秀康の居城

彦根城(近江国・滋賀県)・・・徳川家重臣・井伊氏の居城

膳所城(近江国・滋賀県)・・・徳川家臣の戸田氏のち本多氏居城

二条城(山城国・京都府)・・・徳川将軍家の京での居城

丹波亀山城(丹波国・京都府)・・・徳川家臣・岡部氏の居城

篠山城(丹波国・兵庫県)・・・徳川家臣・松平氏の居城

※Wikipediaより一部抜粋

※『天下普請』は城郭工事だけではなく道路整備や河川工事などもあります。


 さて今回も『大 関ヶ原展』 同様、個人的にによかったと思う展示ベスト5を発表です。

《1位》
江戸城本丸内部の部屋割り図。正式な展示品名称忘れてしまいましたスイマセン!
大きさは畳4枚分くらいでしょうか?大型図面で、博物館による主要箇所の名称が書かれた透明の板が重ねられていますが、有名な松の廊下の場所もわかり、近くに展示されているCGによる内部の再現映像と合わせてみるといろいろ想像できて楽しかったです。

《2位》
加納城絵図。天守の外観が描かれた図面で、上記の江戸城図面から一転、A4サイズほどの小さな図面ですが、織田信長・信忠・信孝・秀信ら織田家が長年城主を務めた岐阜城を移築したという説もあり、興味深かったです。

《3位》
旧江戸城写真ガラス原版。これは14枚だったでしょうか?幕末の江戸城の写真とその原版が展示されていました。いろいろな書籍で幕末の江戸城の写真を見ることはありますが、ガラス原版を見る機会はなかなかないので良かったです。

《4位》
朝鮮通信使図屏風。朝鮮通信使の行列が絵が描かれた屏風ですが、江戸城の内部や警備にあたる武士も描かれ、当時どのように外国の使節を受け入れたかがわかる貴重な屏風だと思いますが、個人的には使節団の下働きの人たちでしょうか?暇そうに寝転んだり、ふざけあっている人物も描かれていてそちらの方が面白かったです。

《5位》
黒漆桐鳳凰文様金銀蒔絵 貝合道具。貝殻のペアを見つける神経衰弱のような遊びの道具ですが、江戸時代には(それ以前から?)嫁入り道具の一つにもなっていたとか。大奥のお姫様たちも遊んだのでしょうか?展示されていたのは大河ドラマの主人公にもなった13代将軍・家定の正室である天璋院(篤姫)所用と伝わるモノ。これで宮あおいちゃん(じゃないだろ!!)が遊んでいたのを想像すると・・・
失礼しました・・・


最初にも触れたように今回の展示は基本的に城郭の絵図面が中心なので私も含め城郭に詳しくない方には難しい展示内容かもしれませんが、CGによる江戸城内の再現映像や館内設置のタブレットを利用した展示、大奥の道具類なども多数展示されていますので興味のある方は行ってみてはいかがでしょうか?

もし城郭に詳しくないけど行ってみたいとお考えの方には、博物館で借りることができる音声ガイドレシーバーを利用することをお勧めします(私も借りておけばよかった・・・反省)


【公式サイト】 江戸東京博物館 『徳川の城 〜天守と御殿〜』  9月27日まで

本能寺の変後の諸将 〜其のニ 徳川家康と伊賀越え〜

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天正10(1582)年6月2日、徳川家康は穴山梅雪(信君)や信長の側近・長谷川秀一らと共に堺に滞在中。一説には信長の上洛を知り京に向かっている最中であったとも言われています。

家康は、信長に京へ向かうことを知らせるため、先行して本多忠勝を出発させていました。忠勝は途中で、家康と交流のある京の商人・茶屋四郎次郎と出会い凶報を知ります。四郎次郎は凶変を知らせるため家康のもとに向かう途中だったようです。忠勝は四郎次郎と共に家康のもとに急ぎ引き返します。

2日昼前後?、河内・四条畷辺り(大阪府四条畷市)で、信長の死を知った家康は自刃も覚悟したと言われていますが家臣らの説得で冷静さを取り戻し領国への帰国を決意急ぎへ向かいます。

この時、家康に従っていたのは酒井忠次・石川数正・本多忠勝・榊原康政・服部半蔵正成・大久保忠佐ら多くの重臣と小姓衆の井伊万千代直政・鳥居松丸忠政・青山虎丸定長など40名あまり。
そして、穴山梅雪も穴山五郎左衛門や跡部因幡守・馬場丹後守忠次らの家臣40名余りを従えていました。
徳川・穴山両軍合わせると100名近い勢力がありました。さらにその従者らを考えると数百名規模に達したかもしれません?

家康一行は四条畷から飯盛山麓さらに尊延寺(いずれも大阪府)を通り、3日午前10時頃?宇治田原(京都府畷喜郡)、そして、その日の夜には近江・信楽の小川城(滋賀県甲賀市)に到着。城主・多羅尾光俊から赤飯を出されるとほとんど飲まず食わずで移動し続けた一行は一気にそれを食べたそうです。一行はここで一泊。

4日早朝、家康一行は出発。丸柱・柘植(ともに三重県伊賀市)・加太(亀山市)を通り白子(鈴鹿市)の港に到着。ここから船で三河・大浜(愛知県碧南市)に無事到着。この頃になると徳川領内でも本能寺の変で信長・信忠父子が撃たれたということが確認されていて、家康が伊賀経由で三河に向かっていることも伝わっていたようで、家康家臣・松平家忠らは大浜まで一行を迎えに行っています。

家康は後に「神君伊賀越え」といわれるこの逃避行で伊賀衆ら数百名の助けや茶屋四郎次郎の“金の力”を借り無事帰国を果たしますが、この間、一揆らとの戦いで200名近い家臣らを失います。

一方の穴山梅雪は、2日家康らと協議の結果、別ルートで甲斐を目指すことを決めます。梅雪が家康を警戒したのか、何か別の策があったのか両者が別行動をとった理由は定かではありませんが、梅雪一行は家康らより遅れて出発。草内(京都府京田辺市)付近の木津川河畔で土民の襲撃にあい多くの家臣と共に討ち死に。享年42歳。
家康の謀略説もありますが、家康は梅雪の嫡子・信治に家督を継がせ、妻・見性院も大切に扱うなど謀略をうかがわせるような痕跡はあまり見当たらないような気もします?

もう一人、家康に随行していた信長の側近・長谷川秀一ですが家康とともに最後まで行動し無事難局を乗り越えます。この後、羽柴秀吉に仕え、越前・東郷(福井市)15万石を賜り、秀吉の天下統一事業に貢献します。

織田・北条同盟 〜拡大する織田政権〜

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やや話し戻って、滝川一益の調略により有岡城を占拠した天正7(1579)年10月頃のこと。

天正7(1579)年10月、この頃信長と北条氏政は正式に同盟を結んだようです。
すでに9月の段階で氏政は弟の氏照を信長のもとに派遣。鷹を献上し誼を通じていました。

10月25日、氏政は再び6万もの軍勢を率い甲斐の武田攻めに出陣。三島(静岡県三島市)に布陣。武田勝頼もこの動きに対し富士山の麓、三枚橋に布陣。両者は黄瀬川を挟んで対峙します。徳川家康は時を同じくして出陣。駿河に攻撃を仕掛けます。

29日、越中(富山県)の神保長住が葦毛の馬を献上。長住は謙信の死後、信長の援助により越中・富山城を奪還しており、神保氏は越後・上杉、信濃・武田への備えを担っていたと思われます。皮肉にも武田勝頼は父・信玄の仇敵であった上杉氏以外周囲を織田方の大名に囲まれる状況に追い込まれていました。

30日、荒木村重攻めの本陣・小屋野にいる織田信忠のもとには降伏を許された宇喜多直家の代理・基家(弟・忠家の子)が挨拶に訪れます。

このように荒木村重や別所長治のように信長を裏切る大名が相次ぐ一方、西に東に信長に味方する大名も次々と現れ織田政権は拡大していきます。

さらに信長は朝廷との友好関係を深めることも怠りません。

11月5日、工事が完了した二条新邸を皇室に献上。
陰陽博士の選定により22日が吉日ということで東宮(誠仁親王)が移ることになります。

12月には荒廃していた石清水八幡宮の修築を信長直轄領の山城代官・武田佐吉・林高兵衛・長坂助一に命じます。このように京の町衆の心を掴むことも忘れない信長でした。

12月18日、信長は二条新邸の東宮のもとに参内し金銀・反物を献上。
19日、信長は雨の中、安土に帰国します。

徳川・北条同盟成立 〜武田包囲網と佐竹義重の苦悩〜

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佐竹義重
天正7(1579)年9月、荒木村重が摂津・有岡城を脱出した頃、東の武田攻めで大きな動きがありました。

9月5日、徳川家康と相模の北条氏政が同盟を結びます。
武田家と北条家は、上杉謙信死後の景勝と景虎の家督相続争い(御館の乱)を機に関係が悪化。武田勝頼は、上杉景勝と誼を通じており、この徳川・北条同盟により完全に断交に至ります。勝頼は、この同盟に対抗し、翌10月には、妹・菊を景勝に嫁がせ上杉家との関係を強めます。

9月11日、京に滞在していた信長のもとへ氏政の弟・氏照が訪れ、鷹三羽を献上。織田家とも友好関係も深め、織田・徳川・北条による武田包囲網は強固になります。

13日、勝頼と氏政は駿河(静岡県)・黄瀬川で氏政と対陣。この間に氏政は家康に出陣を要請。家康は、武田方の駿河・持船城を攻略。

25日、勝頼は、氏政との対陣を切り上げ、徳川攻めに向かいます。しかし、家康はこの動きに対し、勝頼との対決を避け遠江に撤退してしまいます。

この徳川・北条同盟でもう一人微妙な立場になった大名がいました。常陸(茨城県)の佐竹義重です。

佐竹義重は、北条氏とは長年対立関係にあり、上杉氏とは反北条同盟を結んでいた時期があり、武田家とは、同じ清和源氏の血筋で、一時信玄と反北条同盟を結んでいました。後に武田家とは、織田家との友好関係を重んじため疎遠になっていましたが、勝頼は、同じ清和源氏として反北条同盟を再び築こうと義重に接近していたようです。

足利義昭は、信長に奉じられて上洛する前に佐竹義重にも幕府再興を呼びかけていたようで、中央でもその名が知れ渡っていたようです。義重自身も中央の情勢を常に気にかけていたようで早い時期から信長と友好関係を築いていました。

織田家と徳川家は、強固な同盟関係であり、その徳川家が仇敵・北条氏と同盟。
結局、義重は中央の権力者である信長との友好を選択したようで、以後信長が本能寺の変で倒れるまで、北条家とは大きな合戦をしていないようです。
※佐竹氏や北条氏について知識がほとんどないので、この記事に誤りがある可能性があります。私の解釈が間違っていたらぜひお知らせください。


勝頼は、同じ清和源氏で信長と友好関係にある佐竹義重の仲介により織田家との和睦も模索したという説もあります。結局、実現には至りませんでしたが・・・

岡崎信康自刃事件 〜其の二 信康の死〜

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天正7(1579)年7月上旬、信長は、徳川家康の長男・松平(岡崎)信康が武田家に内通しているとのうわさの真偽を確かめるべく、家康に説明を求めます。
家康は、重臣・酒井忠次を信長のもとへ派遣します。

7月16日、酒井忠次は、長篠城主・奥平信昌を伴い、安土の信長のもとを訪れ、馬を献上します。

信長は、早速、娘で信康の正室となっている五徳(徳姫)から送られた12ヶ条の密書について忠次に問いただします。
忠次は12ヶ条のうち10ヶ条を否定できず、返答に窮します。

これにより信康の武田家内通の噂は真実と判断した信長は、家康に信康を厳罰に処すよう命じます。この時具体的に殺すよう命じたとも言われています。

この事件は、信長が嫡子・信忠より、信康が優秀であったため、後々脅威になるのを恐れ信康殺害を企てたという説もありますが、この時期、西に毛利・本願寺・東に上杉や武田が依然健在、さらに荒木村重や別所長治の件も解決していない状況。このような謀略で徳川を敵に回す可能性のある危険な賭けに出るとは考えにくいように思います。

信康は勇猛でありながら日頃の行状が悪かったという話もあり、徳川家内部でも信康が家康の跡を継ぐことに危惧を抱く勢力もあったようです。

『信長公記』の原本である『安土日記』と家康の家臣松平家忠の『家忠日記』に似たような記事があり、信康が幽閉される直前、信康が謀反を企てているとの噂が流れ、8月3日、家康は、武装した兵を率い浜松から岡崎城へ向かい信康と対面。

4日、父子はなんらかを話し合い、信康は大浜に退去。
5日、松平家忠は岡崎に到着すると家康から大浜に近い西尾に兵を配備。その後三日間に渡り信康を監視します。

9日、信康は遠江に移されます。
10日、家康は、一族や家臣に信康と連絡することを一切禁じ、起請文を書かせ“信康派”の勢力拡大を事前に封じます。

家康の浜松派と信康の岡崎派の内部権力闘争が、信康事件の根幹にあったとの見方が近年有力視されているようです。 

8月29日、家康は家臣に命じ、浜松の近く冨塚で正室・築山殿を殺害。

9月15日、遠江・二股城(静岡県天竜市)に幽閉していた、長男信康に切腹を命じます。信康は最後まで疑惑を否定しながら自刃して果てます。享年21歳。これにより徳川家分裂の危機は回避されることになります。

この信康の切腹に際し、介錯役を服部半蔵が担うことになりましたが、手が震え刀を取れなかったとも伝わります。

そして家康自身、後に信康を死に追いやったことを後悔したとも言われています。

※文中、松平“家忠”がすべて“忠家”になっていました。申し訳ありません。訂正しました(2008.1.4)

徳川家康VS武田勝頼 天正6年の攻防

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1578(天正6)年10月の荒木村重の謀反で、西国戦略が大きく狂ってしまった信長ですが、この苦境に盟友である徳川家康はどうしていたのでしょう?話がそれてしまいますが紹介しておきます。

この年3月に上杉謙信が死去し、上杉家では景勝と景虎が後継者争い(御館の乱)を繰り広げ、手薄となった越中や加賀方面では織田家の柴田勝家や斎藤新五郎らが、徐々に勢力を伸ばしつつありました。

そして、同月、家康は、武田方の遠江の高天神城に対する拠点として横須賀城を築城し、さらに五つの砦も築きます。この完成と共に家康は松平家忠らに命じ、半年に渡り断続的に武田方の田中城・小山城などを攻撃させます。

武田勝頼は、上杉家の後継者争いに当初、景虎の兄である北条氏政の要請で景虎派として参戦します。しかし、景勝が一枚上手で、領地である上野郡沼田を武田家に譲って和議を結んでしまいます。さらに景勝は勝頼の妹・菊姫を正室として迎え、同盟を結んでしまいます。

勝頼も西の織田・徳川勢が虎視眈々、駿河・信濃を狙っている状況で、長期戦は望んでいなかったので、早々に有利な条件で和議を結び上杉家の内紛から手を引いたのかもしれません。

6月、勝頼は早くも甲斐に撤退してしまいます。

9月、勝頼に裏切られた北条氏政は、仕方なく自ら景虎の援軍として景虎の援軍に向かいますが、景勝に敗退してしまいます。

10月、荒木村重が謀反を起こしたこの月、北の上杉氏、東の北条氏の脅威が少なくなった勝頼は、徳川を牽制すべく動き出します。大井川を越え遠江に進軍。

11月、横須賀城に迫り、徳川軍とにらみ合いますが、結局合戦には至らず、勝頼は高天神城に撤退することになります。

このような状況で、家康は苦境に陥った信長に援軍を送ることが出来ずにいました。
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