さて、そろそろ織田信長史を書きたいところですが、話が前後しすぎて分かりづらくなってしまうので、この頃の織田家について書きたいと思います。

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織田家も他家同様、応仁の乱で二つに分かれ争うことになります。

尾張国は斯波家が守護職を務めていましたが、守護代として織田家が置かれていました。
ちなみに、この頃の織田家の当主は織田伊勢守敏広

織田伊勢守敏広は西軍の斯波義廉につき、もう一方の小田井城主・織田大和守敏定は、東軍の斯波義敏につきます。

決着を見ぬまま、1477(文明9)年、応仁の乱は収束を向かえますが、尾張の争いは続いていきます。翌年、1478(文明10)年、将軍義政は織田大和守敏定を尾張国守護代に任じます。

そして、斯波義廉と織田伊勢守敏広を討つよう命じます。
敏定と敏広の対峙・和議が繰り返されるうちに敏広が没し、敏定が実権を握っていくが、尾張を統一するに至らず、尾張北四群(敏広・岩倉派)と南四群(敏定・清洲派)が争うことになる。

以後、信長が1559(永禄2)年に岩倉城の織田信賢を滅ぼすまで、尾張国は混乱し続けることになる。

尾張の小国だけでなんと80年近くも争いを続ける。
信長が登場しなかったら、戦国時代はもっと長引いていたのかもしれませんね。


ちなみに、信長の祖父・弾正忠信定は、清洲大和守織田家の当主が達勝の時代に、三奉行のひとりとしてあらわれています。
永正元年(1504)頃、津島湊に近い勝幡に室町武家館風の立派な城を築城し居城として構えていたようです。