天正10(1582)年4月3日、信長が台ヶ原(山梨県北巨摩郡)で富士山を眺めている頃、同じ甲斐国内にある恵林寺では悲惨な出来事が起きます。

武田家が織田軍に敗れたため、武田領を拠点に反信長の活動を続けていた六角次郎が恵林寺に逃げ込みます。恵林寺の快川紹喜は織田軍の引渡し要求を拒否します。

六角氏は、永禄11(1568)年、信長が足利義昭を奉じて上洛した際、敵対しますが敗北。その後も次郎は父・六角義賢(承禎)と共に各地で反信長の活動を展開し、父・承禎は元亀元(1570)年頃、織田家に降伏し数年間、捕らわれの身となったようですが、次郎は逃げ延び武田家に身を寄せていました。
この次郎は一般に義治のことと考えられているようですが、その弟・義定(賢永)という説もあり、兄弟そろって武田家に身を寄せていたのかもしれません。

このように織田家に敵対し続けた六角氏を匿うことは許されることではなく、信長に代わって旧武田領の戦後処理を任されていた嫡男・信忠は、恵林寺を成敗することを決め、織田九郎次郎(津田元嘉)・長谷川与次可竹・関長安・赤座永兼の4人を奉行とし恵林寺に向かわせます。

4人の奉行は、恵林寺の山門に寺内の僧ら150人余りを集めると二階に押し込み、廊下から山門にかけ刈り取った草を積み上げるとそこに火を放ちます。

山門は炎に包まれ、閉じ込められていた多くの僧がわめき苦しみ暴れる中、ひとり快川紹喜だけは、冷静沈着、じっと座ったまま身動きせず炎に包まれ亡くなります。
最後の言葉として伝わる「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」はこの時の言葉ですが、朝廷から国師号(天皇の師への尊称)を与えられた名僧の見事な最後でした。

ちなみに快川紹喜は信玄の葬儀も執り行った僧でもあります。そして美濃土岐氏の出身でもあり、同族の明智光秀は、この焼き討ちがきっかけで本能寺の変を起こしたという説もあるようです。

150人余りが焼き殺された恵林寺の焼き討ちですが、きっかけとなった六角次郎はこのときも逃げ延び、義治は信長死後秀吉に仕え、義定はその後どのように過ごしたか不明ですが、慶長年間に豊臣秀頼との面会記録があるようです。

余談ですが、武田家には六角氏以外にも信長と敵対した武将が多く逃げ込んでおり
天正10(1582)年3月7日付け松井友閑宛織田信長黒印状写には尾張統一戦で信長と戦った岩倉の織田氏(信賢?)と犬山の織田氏(信清:犬山銕斎)、さらにもと美濃守護の土岐頼芸や若狭の武田五郎がいたようですが、両織田氏や土岐頼芸は許されますが、武田五郎は六角次郎と共に殺されたことになっているようです。ただ次郎は逃げ延びたようなので、武田五郎に関しても真相は不明です。