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戦国時代

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戦国時代

戦国時代と月食

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まだまだ残暑(というより、夏真っ盛りといった気がしますが・・)厳しいですが皆さんお元気でしょうか?

そういう私はバテバテ状態・・
しかし今日は朝から洗濯だ〜掃除だ〜買い物だ〜となぜか元気。勢いに乗ってめったにやらないブログの1日2回の更新。ついに暑さで頭がおかしくなったようです(笑

そんな暑さの中、暑さを忘れる?天文ショーがあるそうです。
あさって8月28日、6年ぶりに日本全国で皆既月食(月蝕)が観測できるそうです。
月食自体は毎年2回(ない年や3回の年もあるようです)あるそうで、特に珍しくはないようですが、部分月食のこともあり、今回は6年ぶりに日本全国で皆既月食が観測できるということで、非常に楽しみです。夜は晴れてほしいですね!

ちなみに時間は19時37分が最大でこの間、月が地球の影の中に入り込み月は見えなくなるのではなく、赤色に染まるそうです。
ちなみに東京の場合、東の空約15度の方向を見るといいそうです。結構低いので建物や山などない場所から見ないといけないようですね。

詳細⇒倉敷科学センター

さて、このブログは戦国時代が専門。またも無理やり戦国時代と月食の関連を探ってみました・・・が特にいいネタが見つかりません。
唯一、あるのが松永久秀の男女の夜のお話・・ロマンティックなネタから下ネタへと急展開(笑
(以下Hネタが含まれます。R-18?)続きを読む

信長とクリスマス

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Merry Christmas!!

と戦国時代らしからぬ書き出しですが、実は?というか当然とも言うべきか日本で初めてクリスマスの行事が行われたのは、記録に残る限り、戦国時代真っ只中の1552(天文21)年のことでした。当時はクリスマスとは言わず“ナタラ"と言ったそうです。

ただ、キリスト教がフランシスコ=ザビエルによって日本に伝えられたのが1549(天文18)年なので、推定ではありますがこの頃にはクリスマスの行事があったのかもしれませんね。当然、キリスト教徒の間だけのことではありますが・・・

さて、キリスト教に対して寛大であり、宣教師ルイス=フロイスと親交のあった信長ですが、クリスマスを祝ったのでしょうか?それは謎ですが、信長が上洛した1568(永禄11)年のフロイスが記した記録にこのような一節があります。

「足利義昭を奉じて上洛した織田信長とそれまで京にて実権を握っていた松永久秀が争っていたがクリスマスの日一時的に休戦」

このように具体的に書いてはいなかったかもしれませんが「クリスマス休戦」をしたそうです。

ただ信長も松永久秀もキリシタンではなく、久秀に関して言えばむしろ1566(永禄9)にキリシタンに友好的だった13代将軍義輝を殺害し、キリシタンを京から追放するような考えの持ち主。
一方の信長は、キリスト教の存在は知っていたかもしれませんが、ルイス=フロイスと親交を深めキリスト教の布教を許すのは、上洛の翌年1569(永禄12)年のこと。

キリスト教と無関係の両者がキリスト教の祝いの日だからといって“クリスマス休戦”を本当にしたのかどうか真偽は不明です。

いずれにしてもキリスト教に寛大で好奇心旺盛な信長のこと。自らは祝うことがなかったかもしれませんが、きっとどのようなことをやっているのか一度くらいは見に行ったかもしれませんね??

以上、クリスマスとは“無関係”の織田創でした(笑)・・・(涙?)

参考サイト『日本クリスマス博物館』(日本のクリスマスの歴史|年表)

夢幻城プロジェクト始動!

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最近、更新サボリ気味で申し訳ありません!
この一週間、忙しかったわけではありませんが、別のブログをがんばっていました。

以前、お伝えしたこのブログのバックアップ用のブログ『SENGOKU.BAK+(仮称)
』を大改築(リニューアル)をしておりました。

タイトルも『SEMGOKU community 夢幻城』とし、戦国時代ファンの交流の場になればいいな〜と思っています。
ちなみに『夢幻』はお察しの通り?信長がよく謡った『敦盛』の一節「夢幻の如くなり〜」から採ってみました。

当初の目的であるこのブログのバックアップも兼ねた、『織田信長史』も再編集し、掲載していきます。相変わらず不定期ですが・・・

信長の一生を大まかに時代区分し、読みやすくしていくつもりです。多少の加筆(訂正も)もあるので、よかったらぜひご覧ください。

正直なところまだ試行錯誤の段階で、これからどんどん進化?!させていきます!
その変化もお楽しみください。

尚、このブログの更新も引き続きしていきますので、今後もよろしくお願い致します。

『SEMGOKU community 夢幻城』

萌えわかり!戦国時代ビジュアルガイド

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このブログ復活したのはいいけれどちょっと路線が変わってしまったでしょうか??
今日、雨の中本屋を覗いてみたらこのような本が私の目に飛び込んできました!その名も『萌えわかり!戦国時代ビジュアルガイド萌えわかり!戦国時代ビジュアルガイドあまなつAdhover 萌えわかり!戦国時代ビジュアルガイド』・・・今の時代、きっとこんなのもありなのでしょうね〜

周りの目を気にしつつ、ちょっとパラパラめくってみましたが、萌えキャラ?(って言うのかな?)が登場するものの内容はいたって真面目(だと思います・・)。わかりやすい表現で戦国武将や合戦などについて紹介していました。ちなみに9月26日発売されたばかりのようで、お値段は¥1,700(税込み)。高いのか安いのか、まったく不明です・・

私がよく読むようなお堅い路線の本とはだいぶ違いますが、こういう親しみやすい形で戦国時代を紹介することで幅広い層の方に興味を持ってもらえれば戦国ファンとしてはうれしく思います。

さすがに私はこの本を買うまでには至りませんでしたが、興味のある方は書店で立ち読みしてみては。

今回は織田創のお勧め本というよりは、こんな本見つけちゃいました!という報告でした。

『戦国時代Wiki』復活プロジェクト進行中!

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立ち上げてから間もなく一年が経とうとしている『戦国時代wiki
その存在を管理人の私ですら忘れつつありました・・・

それを思い出させてくれたのが、『有樂亭 日本史だらだら日記』の鵺 椿さんのこんなコメントでした。

「戦国Wikiって、織田さんのですか?」

そのコメントを見た『The History Entertainment & blog Network』の結城さんが、“危機的状態”にある『戦国時代wiki』を復活させるための『THEbN+戦国時代Wikiプロジェクト』を企画してくれました。

管理人である私もこれに刺激を受け、再びウィキに力を入れようと思い立ちましたが、ウィキといえばなんといっても巨大百科事典『ウィキペディア』の存在があります。その内容の充実度は群を抜いています。

もちろん戦国時代関連にしても、その項目の多さは敵?ながらあっぱれ!到底、私のウィキはかないっこありません。
しかし、こちらは戦国時代に特化することにより、その内容の充実+α で戦国時代ファンが見て楽しめるようなウィキ作りを進めたいと思います。
といいつつ、具体策はまだまだ少ないのですが・・・

現在『戦国Wiki盛り上げよう会』(仮)のメンバーとして鵺椿さんと結城さんそして私も加わり、プロジェクト進行中?です。
戦国時代ファンの方の参加、お待ちしています!

尚、『戦国時代wiki』の編集作業は、現在のところメンバー以外の方でも可能となっています。ぜひご協力ください!
特にルールはありませんが、荒らしや故意の虚偽記載等の迷惑行為だけはやらないでください。お願いします!

ウィキはこれからドンドン進化する予定です。よいアイデアやご要望等ありましたらコメントにてお知らせいただきたいと思います。

戦国ファンの力を結集して打倒ウィキペディア(の戦国関連)を目指しましょう!

信長と長宗我部元親

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絹本著色長宗我部元親像 (重文)
唐突ではありますが、ここで信長と長宗我部元親の関係について触れたいと思います。正直なところ完全に記事にするの忘れてました。しかし、元親は本能寺の変の黒幕説もある重要人物なので、話が数年遡ってしまいますが触れておきたいと思います。
ちなみに元親は、現在放送中の大河ドラマ『功名が辻』の山内一豊が土佐に入る前の土佐の大名です。



元親は1539(天文8)年生まれ(他説あり)なので、信長より5歳年下と言うことになります。信長が桶狭間で今川義元を破った1560(永禄3)年に元親は22歳という遅い初陣を迎えています。この年、父の死を受けて家督を相続。

1575(天正3)年、信長が長篠・設楽原で武田を破り、越前一向一揆を滅ぼした年、元親はようやく土佐一国を平定。この年、10月頃元親は信長に接触。
土佐を平定し、いよいよ四国全土平定へ向け第一歩を踏み出した元親は中央の実権を握る信長と誼を通じておくのが得策であろうとの外交方針で信長に近づいたものと思われます。

実は元親は早い時期から明智光秀の重臣・斎藤利三とのつながりがありました。利三の実兄が石谷家の養子になり石谷頼辰(いしがいよりとき)と名乗っていましたが、その義理の妹が元親の正室になっていました。その婚儀が行われたのは1563(永禄6)年のことです。
この縁を頼りに元親は利三・光秀を介して信長との交渉にあたります。
元親は家臣・中島可之助(べくのすけ)を使者として送り、信長との交渉にあたらせます。
この時、元親からは嫡子・弥三郎の烏帽子親(元服の際、烏帽子をかぶせる仮の親)をやってもらいたいとの申し出があります。

この申し出を受けた信長と可之助の間にこんなやり取りがあります。
信長は元親を評し、「無鳥島蝙蝠」(ムチョウノトウヘンプク)−鳥がいない島でコウモリが自分を鳥と思い込んでいる−と皮肉を言います。

これに対し可之助は「蓬莱宮之寒天」(ホウライグウノカンテン)と答えました。蓬莱宮とは四国を意味し、寒天はその原材料が“てんぐさ”であり、それにかけて“天狗さ”=「天狗になってます」という意味でしょうか?

この返答を気に入ったのでしょか?1575(天正3)年10月26日付けの朱印状で、信長は申し出を受け入れ弥三郎の烏帽子親を引き受けることを元親に伝えます。
この弥三郎は、信長の“信”の一字を賜り、信親と名乗ることになります。

更に信長は、四国に進出するのは到底無理な時期であり、元親に「四国勝手切り放題」の許しも与えます。

1576(天正4)年5月の織田対毛利の木津川河口海戦の頃、長宗我部家は主に伊予の河野氏と対立関係にあり、織田家に援軍を送る余裕が無かったようです。

しかし、長宗我部氏はこの後も着実に四国での勢力を拡大していき、やがて信長に目を付けられることになります。

北畠一族の滅亡 〜織田家の北畠氏乗っ取り〜

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織田信雄
1576(天正4)年11月、南北朝時代から続く村上源氏の血を引く伊勢の名門・北畠氏が滅亡します。これは信長の命により北畠具豊が家臣に襲撃させ北畠具教を殺害させたためでした。

北畠具豊は信長の次男、後の織田信雄のことです。
1569(永禄12)年、信長の伊勢攻めの際、和睦の条件として信雄(当時茶筅丸?)を具教の子で当時既に家督を継いでいた具房の養嗣子として受け入れていました。さらに信雄と具教の娘・千代が結婚し(具房にはこの時まだ子がいなかった)織田家と北畠家の関係は表面上は良好を保たれていました。

しかし、具教・具房は和睦がなってからも復権を画策。武田家などと通じ、それが信長に知られるにいたり、1575(天正3)年ついに家督を完全に具豊(信雄)に譲ることになります。

当然ながら信長の怒りはこれだけでは収まりませんでした。
1576(天正4)年11月25日、信長は具教殺害を具豊(信雄)に命じます。具豊は北畠の旧臣に具教やその一族の長野氏らを襲撃させ殺害します。

義父に当たる具教の子・具房は滝川一益に預けられ幽閉。1580(天正8)年死去します。
ここに名門・北畠氏の嫡流は滅びますが、この時点では依然、具豊が北畠氏を名乗っており、具豊と千代の間には嫡子・秀雄がいたので血は受け継がれていました。

北畠姓がなくなるのは、本能寺の変後、具豊が織田姓に復姓し織田信雄(当初信意?)と名乗った時の事となります。
※具豊は、北畠具教が存命中にすでに北畠信雄と名乗っていたそうです。
北畠具顕様ご指摘ありがとうございました。


秀雄は秀吉の時代、越前大野五万石を領していましたが、関ヶ原の合戦で西軍に属し、改易され断絶してしまいました。ここに北畠氏嫡流の血は完全に途絶えます。

ちなみに信雄は具教の弟で早い時期に織田家についた木造具政の娘も側室にしており、後に上野小幡藩の初代藩主となる信良をもうけています。
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