記事が前後してしまいましたが、改めまして(もう5日ですが・・)

『明けましておめでとうございます
 今年もよろしくお願いいたします』


先月末に実家に行き、それから正月は親戚廻りと酒を飲みまくりというか飲まされまくりで、おとといようやく帰宅。気がつけば長い休みも明日一日になってしまいました〜。なんかぜんぜん休んだ気がしません・・・

さて、年頭の挨拶ですが、戦国時代はどうだったのでしょう?
松平家忠という徳川家康の家臣が書き記した『家忠日記』というものがあります。この日記は、家忠の日常生活が記されており、現物には落書きも書かれているそうで『信長公記』とは違った魅力ある日記です。

その日記を解説した『松平家忠日記』(盛本昌広著)によれば、戦国時代の武士たちも現代と同様、親戚や仲間が集まり、酒を飲んだり初詣をしていたとか。
そして、登城し主君への挨拶も行われていたようです。

家忠も基本的に毎年正月二日には出仕し、家康に挨拶していたようです。そして、「うたい初」という、能役者を招いての謡曲のうたいはじめの儀式が行われ、その後は重臣や他の家臣の所へもあいさつに回り帰国といった感じだったようです。ただ、出陣中のときなどは免除されていました。

では、織田家の場合はどうだったのでしょう?
『信長公記』の天正6(1578)年正月の記事では、信長の領国や近隣諸国の大名が安土の信長に挨拶のため出仕。
信長は信忠や重臣を集め茶の湯を催しています。茶の湯に参加した家臣たちは終了後出仕し、三献の作法で盃を頂戴しています。

その後の年は多くの家臣が出陣中で年頭の挨拶は免除されています。
しかし、天正10(1582)年は不思議なことに一門はじめ近隣の多くの大名などが殺到。
安土の山裾に積み上げていた石垣を踏み崩し死傷者が多数出る大騒ぎにもなっています。
この年の挨拶には、出仕した者達は年賀の祝い金として100文持参するよう命じられてもいました。上様にお年玉?(笑

信長は天主閣下の白洲で諸将に言葉をかけたそうです。この挨拶が信長との最後の対面になった家臣も多かったかもしれませんね?