天正8(1580)年8月の教如、大坂退去で終結を見た信長と本願寺の11年戦争ですが、この顕如・教如父子の時間差退去は本願寺方の作戦だったという説もあります。

それは信長の背信行為を数々見聞きしてきた本願寺としては、素直に石山の地を明け渡した後、信長が裏切り本願寺一門を殲滅させるのではないかという疑いや恐怖があり、段階的に退去することで身の安全を図ったと考えても不思議ではないかもしれません。

本願寺方の策であったかどうかは分かりませんが、大坂を退去した教如は、父・顕如が退去した鷺ノ森へ向かいます。

この地で再会した親子ですが、教如の両親・顕如と如春尼(北の方)は、命令に逆らい織田軍と戦い続けた教如に対し怒りをあらわにし義絶(親子の縁を切ること)します。

これにより教如は、北陸や中部地方を中心に諸国をさまようことになり、2年後の本能寺の変を郡上(岐阜県)あたりで知ることになります。

顕如と教如は“変”の後、天皇の仲介により和解しますが、さらに十年後の1592(文禄元)年、顕如が死ぬと秀吉の命で教如が本願寺宗主の座を継ぐことになります。

しかしこれに不満を持った母・如春尼は顕如は三男・准如に継がせる考えだったことを秀吉に訴え、内部対立は深まります。

後に秀吉は准如に宗主の座を継がせることを認めますが、今度は教如がこれに不満を持ち、新教団を設立(後に東本願寺と呼ばれる)。
1602(慶長7)年、本願寺は東西に分裂することになります。


( 『織田信長 石山本願寺 合戦全史』 武田鏡村著参考 )