信憑性にやや難があるとされる『稲葉家譜』に、「本能寺の変」4日前に裁定が下った明智家と稲葉家の家臣をを巡るある騒動が記されています。

天正10(1582)年5月27日付けで、信長の裁定を伝えるため堀秀政が記した稲葉貞通(一鉄の次男)宛ての文書には、稲葉家を出て明智家に仕えていた「那波直治を稲葉家に返還する」「当面の扶持は信長が扶助する」といったことが書かれています。

那波直治よりも前に斎藤利三も同様に稲葉家を去って明智光秀に仕えており、稲葉一鉄・貞通父子は、立て続けに明智家に家臣を引き抜かれたような形になって、外聞も悪いので信長に返還要求の訴訟を起こしたようです。

那波直治はこの裁定に従い、稲葉家に戻されたようですが、利三に対しての信長の裁定は、自刃を命じるものでした。しかし、これは斎藤道三の旧臣で信長に仕え、利三とも親交が深かったと思われる猪子兵助の取り成しで死罪を免れ、利三は引き続き光秀に仕えることを許されることになったようです。(文書の日付を考えると解決したのは本能寺の変前日ぐらいになるような気がしますが・・・?)

斎藤利三は、義妹が四国の長宗我部元親に嫁いでいる間柄でもあり、上記の件が事実であれば、四国討伐目前のこの状況で、信長に不満を抱いていた斎藤利三が同じく四国政策に不満を持っていたと思われる主君・明智光秀に信長打倒をけしかけた可能性も否定できないかもしれません??


稲葉家と斎藤利三といえば、稲葉正成に嫁ぎのち徳川三代将軍・家光の乳母となる利三の娘・お福(後の春日局・母は一鉄の娘とも)が思い浮かびますが、『稲葉家譜』を著した稲葉正義が正成系稲葉家の人物か分かりませんが、真偽不明の“稲葉家臣騒動”ウソだとしたらどのような目的で、この件を書き残したのでしょう??