斎藤徳元(泉光寺蔵・部分)
今月、2日から12月2日まで岐阜市歴史博物館で、『道三ゆかりの武将俳諧師 斎藤徳元』展が開催されているそうです。
斎藤徳元?俳諧師?と疑問だらけでちょっと調べてみました。

まず俳諧師とはウィキペディアによると
俳諧(はいかい)とは、主に江戸時代に栄えた日本文学の形式、また、その作品のこと。誹諧とも表記する。正しくは俳諧の連歌あるいは俳諧連歌と呼び、正統の連歌から分岐して、遊戯性を高めた集団文芸である。(中略)俳諧を行う人を「俳諧師」と呼ぶ。』だそうです。(思いっきり手抜きでスイマセン!)

そしてなんといっても気になるのが「斎藤徳元」。
生まれは桶狭間合戦の前年、永禄2(1559)年で正保4(1647)年に89歳で没
しています。

岐阜市歴史博物館の企画説明によると斎藤道三の外曾孫(娘の息子の子)だそうですが、他にもいろいろ調べると、信長に仕えた道三の息子で『信長公記』にも何度か登場する斎藤新五郎の子ということで同じく新五郎を名乗っていた時期もあり、道三の孫に当る人物とも考えられているようです。ちなみに初代・新五郎は本能寺の変で討ち死にを遂げています。

徳元が武将として活躍していた頃は、豊臣氏や信長の嫡孫・秀信にも仕えていたそうで、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦の前哨戦・岐阜城攻防戦で秀信配下として参加しますが、敗れて浪人となり、若狭の京極忠高に身を寄せたのを機に俳人としての第一歩を踏み出したようです。

徳元は、俳諧を松永貞徳に学んだ(交流があっただけ?)ということですが、この松永貞徳は元亀2(1571)年に生まれ、承応2(1654)年に没した人物ですが、信長に謀反した松永久秀の孫(永種の子)とも言われており、細川幽斎や里村紹巴とも交流があり、俳諧の世界では「貞徳派」と呼ばれる一派を築いた名人。

斎藤道三と松永久秀。共に戦国の梟雄と言われ、戦国時代の悪役的存在の二人ですが、その孫(あるいはひ孫とも)が、俳諧という文化的な世界で交流を深めることになるとは不思議な縁を感じます。


最後に斎藤徳元の句を一部紹介。
『煙にも すすけず白し 富士の山』
『唐人も 渡るや霜の 日本橋』
『春立つや にほんめでたき 門の松』
『末期には しにたはごとを 月夜哉』
(辞世の句)


岐阜市歴史博物館『道三ゆかりの武将俳諧師 斎藤徳元』